きのう4日は近所の友人と連れ立って“健康ツアー”と称するハイキングへ。
毎年ゴールデンウィークに行ってたが、コロナ禍で去年、おととしは中止。久々に新緑を求めて“小さな旅”に出た。
東武東上線寄居駅下車で、鉢形城跡→中間平(ちゅうげんだいら)緑地公園→風布(ふうっぷ)→風の道遊歩道をへて、秩父鉄道の波久礼(はぐれ)駅に至るコース。歩く時間は3時間半ほど。山登りと違うのでのんびり歩けそう、というのでここに決めた。
朝6時15分すぎに家を出て、8時半ごろ寄居駅着。南口から鉢形城跡に向かう。
荒川を渡って鉢形城跡へ。
この川の先の上流が長瀞だ。
鉢形城は1476年(文明8年)、関東管領であった山内上杉氏の家宰・長尾景春が築城したと伝えられ、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上の天然の要害の平山城。
この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点という。
ときはまさに下克上の戦国時代が始まろうとしていたころ。長尾景春は自らが戦国の雄になろうと、今の練馬区の石神井城を本拠とする豊島氏らと結託して武蔵のあたりに勢力を拡大。これに対して江戸城を本拠とする太田道灌の軍が攻めてきて、今の中野区の江古田・沼袋あたりをすぎて私が毎日散歩している善福寺池周辺の上井草を北上していき、豊島軍を撃破。さらに北上して鉢形城に向かう。
われわれが上石神井から電車に乗っても2時間かかるところを、重装備の太田軍は徒歩で向かっていったんだから、かなり大変だったろうが、ついに鉢形城は落城。景春は武蔵を追われる。
のちに鉢形城は小田原の北条氏の北関東支配の拠点となるも、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際は、北条氏の軍3千人がこの城に籠城。前田利家らの軍3万5千人に包囲され攻防戦を展開したが、1カ月余りにおよぶ籠城ののち、城兵の助命を条件に開城し、城は廃城となった。
鉢形城跡では堀や土塁がよく残り、堀や土塁によって区切られた本曲輪や二の曲輪などの空間が現在でも確認することができるという。
鉢形城跡として国の史跡に指定され、「日本100名城」にも選定されている。
古城跡空在 一水尚東流(古城の跡空しく在り、一水尚ほ東流す)
武者小路実篤による揮毫。いかにも「よき哉」ふうの書体だ。
鉢形城跡を見て回ったあとは、緩やかなのぼりの舗装道路をしばらく歩く。
途中前を通った農家。奥に牛がいた。
庚申塚。
お地蔵さん。
見事なキリ(桐)の木。
花嫁道具になるんだろうか。
花札では知ってるが、キリの花を初めて見た。
鮮やかな色のアザミ。
やがて中間平緑地公園に到着。
中間平は寄居町南西部の釜伏山(かまふせやま)の中腹にあり、関東平野が一望できる景勝地として知られるが、タカなどの猛禽類が渡っていく場所としても有名らしい。
そんなコワイ鳥ばかりでなく、ウグイス始め野鳥の声があちこちで聞こえ、いろんな種類のチョウチョが乱れ飛んでいる。
ホオジロが盛んに鳴いていた。
成鳥の顔は喉・頬・眉斑が白く目立ち、「頬白」の和名はここに由来する。
スズメと大きさはほぼ同じというが、尾が長いので大きく見える。
シロチョウという名がつくが実はアゲハチョウの仲間。半透明の翅を持ち、胴体には細かい毛がはえている。
年1回、5月のころだけに見られるチョウ。
交尾すると、オスはメスの交尾器にほかのオスと交尾ができないように受胎嚢といういわば貞操帯のようなものを分泌物でつくってつけてしまう。
独占欲の強いチョウだ。
前翅は表裏とも赤地に黒褐色点があり、後翅は表面が黒褐色で、裏面は灰色のシジミチョウ。春にあらわれるのは赤っぽくて、夏のは黒っぽいというが、たしかに赤っぽい。
白っぽいからメスかな。
1つの花にシジミチョウが仲よく2匹(頭)。
と思ったら交尾しているところだった。
5月上旬なのに早くもトンボ。
シオヤトンボのメスだろうか。それとも未成熟のオスか。
春から初夏にかけて見られるトンボ。シオカラトンボの仲間で、オスの未成熟はメスと同じに最初はムギワラ色で成熟すると青白い粉を全体的に吹くが、メスはムギワラ色のまま成熟するという。
緑色の美しいイトトンボ。
オオアオイトトンボか。オオアオイトトンボは緑金属光沢のある大型のイトトンボ。
ヒメウラナミシジミ。
目玉模様と毛深さが特徴のチョウだ。
中間平から風布への分岐を下ると日本の里。日本と書いて「やまと」と読ませる。
ここを流れる風布川は荒川の支流で、名水百選にも選ばれた「日本(やまと)水」という名水が湧き出ているという。
その昔、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折、戦勝を祈願して釜伏山中腹の「百畳敷岩」と呼ばれる大岩壁に剣を突き刺したところ、たちまち湧き出したという伝説のある名水。突いたり叩いたりしたら水が湧き出たという逸話はあちこちで聞くが、ここもその伝のようだ。
風布館というところで「かすうどん」を食べる。
何でも店のご主人が大阪出張のおり食べた大阪名物の「かすうどん」にハマッて関東でもこの味を出そうと客に供するようになったという。
「かす」といってもただの油かすではなく、牛の腸を油でじっくりと時間をかけて揚げ、余分な油分が抜けて肉の旨味が凝縮された「かす」なんだか。
それはいいんだけども注文してからうどんが出てくるまでに、何と1時間。
客が多くて立て込んでたわけではなく、先客は3、4人しかいなかったがエンエン1時間。
おかげでゆっくり休むことができて、歩き疲れたわれわれにはよかったんだけども、これで商売として成り立つのか、ちょっと心配。
日本の里の池にはたくさんのオタマジャクシ。
夏にはカエルの声がにぎやかだろうなー。
うどんを食べたあとは風布川沿いに最近、整備されたという「風のみち遊歩道」を波久礼駅へとめざして歩く。
歩き始めたところにあったのが姥宮神社。
屋根つきの立派な社号額を取り付けた鳥居。
参道の石段をのぼったところで両脇に控えるのは、狛犬ならぬ狛ガエルだった。
阿吽の形ではないが、右はオスで左はメスか。背中に子ガエルを背負っているから母ガエルか。
「姥宮」と書いて「とめみや」と読ませる。
この地方ではカエルの大きいヤツ、つまり大型のヒキガエルのことをオオトメヒキというのだそうだ。それで、トメミヤとトメヒキとの語呂合わせで狛ガエルが奉納されたんだとか。
それにしてもなぜ「姥」の字が年老いた女性の「おば」ではなくて「とめ」なのか。
「姥」には、「老女」の意味とともに「タウメ(専女)」の約との説もあるという。「専」とは、ほかのことをさしおいてそれに集中するさま、また、そのことを主たること、肝要なこととするさまをいうと辞書にある。
一体何を「専」とするか。
実はこの神社に祭られているのは「古事記」に出てくる石凝姥命(イシコリドメノミコト)なのだ。
天岩屋に引き籠もった天照大神(アマテラスオオミカミ)を招き出すため、鏡をつくるのを担当したのが石凝姥命だった。「日本書紀」によれば石凝姥命は天香久山から金を掘ってきて鏡をつくったという。その鏡とは、三種の神器の1つ、八咫鏡(ヤタノカガミ)であるという。
つまり、鏡づくりを専門とするのが石凝姥命ということなのだろう。
「イシコリ」とは「鋳(い)凝(しこ)り」という意味で鋳造における溶鉄の凝固と解するとする説や、石を切った鋳型に溶鉄を流して固まらせる「石凝」とする説があるという。
また「ドメ」は先の「タウメ(専女)」のほかにも、呪的な行為につける接尾語の「ト」と女を意味する「メ」が合わさったものとの説もある。
このため後世において石凝姥命は鋳物の神・金属加工の神として信仰されているという。
その石凝姥命をなぜ姥宮神社はまつっているのか。
実はこの地域一帯は昔は鉱山地帯であり、和銅採掘跡や銅製錬所跡があちこちにある。
日本最初の流通貨幣となる「和同開珎」が鋳造されたのも、この地域につらなる秩父の黒谷だった。
付近には「金山」「金尾」などの地名もあるから金の採掘も行われていたに違いない。
神社がある風布(フウップ、フップ、フウプ)という地名も、製鉄に関わる意味があるのではないだろうか。
地元では、山に囲まれた地形から暖かい空気が空中に漂い、風が布を引いた様になる現象がみられることからついたもの、といわれているそうが、アイヌ語が語源との説もあるそうだ。
それによると、「プ」がアイヌ語で山などを意味し、それで「風の山」を意味したフップ、あるいはフウップ、フウプに「風布」の漢字をあてたというのだ。
しかし、以前に観たNHKの番組(2020年1月放送のNHKスペシャル「アイアンロード~知られざる古代文明の道」)で、古代、世界に先駆けて鉄器の量産に成功したといわれるアナトリアのヒッタイト人たちは、自然環境を利用して、強い風が吹く場所での鉄づくりに成功したと紹介していた。
Nスペ「アイアンロード」と「タタラ」 - 善福寺公園めぐり (hatenablog.com)
ひょっとして風布地域でも、強い風を利用して鉄など金属の精錬が行われていたのかもしれない。
社殿の近くに御神木の「富発の杉」。
社殿の奥に進むと「胎内くぐり」石穴があり、潜ると疱瘡や麻疹に罹患しなくなるといわれているんだとか。
神社に参拝したあとは「風のみち遊歩道」へ。
川のせせらぎを聞きながら緑陰を歩く、なかなか楽しいコース。
途中、飛び石を使って川を渡りながら歩く。
途中にあった巨岩、天狗岩。
ミスジチョウが遊歩道の真ん中で翅を休めていたので、こちらもちょっ足を止める。
木漏れ日が丸く地面に映っていた。
「風のみち遊歩道」をすぎたあたりにあった夫婦滝。
素朴な木造りの駅舎だ。
実は下山後は波久礼駅近くの「かんぽの宿寄居」で温泉にドボンとつかって疲れた体を癒すはずだったのだが、うどんを待つのに1時間ぐらい待ったこともあってか、日帰り客の入浴締め切り時刻の午後3時を超えてしまい、残念ながら断念。
それならと、川越でお風呂に入ることにする。
「波久礼」という駅名も変わった名前だ。
駅名の由来は諸説あり、崖崩れの多発地帯だったので「破崩(はぐれ)」という説があるという。
「クレ」は、現代語では「えぐる」「くり抜く」に相当する言葉だとか。広島県の呉市は、山が急に海に落ち込む崖地が囲む入り江につくられた軍港で、中心部以外の市街地は急な坂道や崖だらけ。「エグル」を意味する「クレ」に「呉」の字を当てたのが呉市だという説を聞いたことがある。
寄居駅で秩父鉄道から東武線の電車に乗り換えたところ、ちょうど秩父鉄道のホームからSL列車が出発するところだった。
ホームでは鉄道オタクがわんさか押しかけていた。
出発していくSL。
東武線の川越市駅で下車し、乗車中に探しておいた駅近くの「川越温泉 湯ゆうらんど」へ。
ここの目玉は大衆演劇の「小江戸座」によるお芝居らしいが、入浴のみ800円のプランで入館。
ここの風呂の泉質は、光明石天然鉱石温泉というそうだが、露天風呂はないものの、広い大浴場内にはつぼ湯、ジェットバス、ラジウム湯、炭酸泉とさまざまなお風呂が楽しめた。
湯から上がって休憩所で、とりあえずの生ビールをグイーッ。
その後、駅に向かう途中で見つけた居酒屋「大吉」でイッパイ。
古きよき時代の下町大衆酒場ふうで、ビールのあとは日本酒。
つまみもいろいろ。
いい気分で本川越始発の急行電車にて帰路につく。