群馬・前橋に12月12日開業したばかりでアートを体感できるホテルとして話題の「白井屋ホテル」に泊まろうと群馬へ。
1日目は太田市の金山城跡を訪ね、白井屋ホテルに1泊。翌日、伊香保温泉で露天風呂を楽しんで帰京、という計画だ。
まずはJR、地下鉄千代田線を乗り継いで東武・北千住駅から「特急りょうもう」に乗車。約80分で太田駅下車。
太田駅からはタクシーで金山城跡の西の端の「西城・見附出丸」まで行き、そこから見学ルートをたどる。
友人に“城郭オタク”がいて、「機会があったらぜひ行くべし」と推奨されていたのが金山城。
文明元年(1469年)に新田一族の岩松家純によって築城され、その後、横瀬・由良氏、小田原北条氏らが城主となるが、上杉謙信や武田勝頼など名だたる戦国大名から10数回におよぶ攻撃を受けるも、一度も落城することなく、“不落の城”といわれる。
しかし、豊臣秀吉の北条氏征伐により廃城となり、今は遺構しか残っていない。
戦国時代の山城としては国内最大級で、金山山頂の本丸ともいえる実城(みじょう)を中心に四方に延びる尾根上を造成して曲輪とし、これを堀切・土塁などで固く守られていたとか。
今はハイキングコースとしても整備されている山の頂上付近では、発掘調査に基づく復元作業により、関東では珍しい石垣の土塁・堀・曲輪で構成された山城の姿が多少なりともよみがえっている。地元の人たちの地道な調査と復元のための苦労のたまものだろう。
城は標高239メートルの金山のほぼ全域に築かれていたようで、最盛期は東西約3キロ、南北約4キロもの広さで、尾根伝いに城郭が続いていたという。
何といっても金山城の特徴は随所に残る復元された石垣。
関東では珍しい石垣を多用した城であり、曲輪の壁や土塁が石垣で組まれ、通路は石敷きになっている。
本丸裏に残る石垣は昔のまま。
山の斜面を利用して、丸太で組んだ「桟道」と呼ばれる通路があったという。
往時はさぞや見事な城だったのだろう。
城のすばらしさとともに、注目したのは山頂近くにある「日ノ池」と呼ばれる池だ。
この池は発掘調査の結果、戦国時代からの「貯水池」であることがわかったという。
しかし、この池からは、金山城築城よりもずっと以前の10世紀につくられた土器が出土していて、これは水に関わる祭祀を行うための「土馬」と考えられているという。
ということは、日ノ池のあった場所は古来から水が出る場所であり、もともとここは水にかかわる祭祀を行った「聖地」だったようだ。
そこで気になるのは「金山」という地名だ。
金山というとゴールド、つまり黄金が埋蔵された金山(きんざん)を連想するが、ここでは黄金に限らず鉄の原料などの鉱石が得られる場所だったのではないか。
金山城がある山頂を中心とした地域の地質は金山流紋岩類(金山石)といわれるものだそうで、これは熔結凝灰岩を含む火砕流堆積物から成りたっている。火砕流堆積物とは高温のマグマの砕屑物(主に火山灰や軽石)が火口から流出したもので、高温状態の砕屑粒子が熔結したものを熔結凝灰岩と呼んでいるそうだ。
金山各所は石切場ともなっていて、その跡地を調べたところ見事な柱状節理(ちゅうじょうせつり)を見ることができるという。
そもそも金山城が石垣で守られていたのも、身近な場所で石垣の材料となる石が豊富に産出していたからこそなのだろう。
そればかりでなく、鉄鉱石などの鉱物も豊富だったのではないか。あるいは砂鉄も採れたかもしれない。
金山の北東部あたりでは、須恵器窯跡13基、鉄製炉(タタラ)3基とそれに関連する炭窯や工房跡、および7世紀中頃の古墳3基が見つかっているという。
ひょっとしてここは、古代からタタラを使った製鉄が行われていたのではないか。
山頂近くの「日ノ池」では、タタラ製鉄に関わる何らかの祭祀が行われていたのではないか。
タタラを吹くためには砂鉄と炭の素材となる山があって、砂鉄から鉄を分離する水と、タタラを吹く火力を保持するため強風地であることなどの立地を兼ね備えていなければならなかったという。
山頂付近のここは、まさしく風が吹く場所であり、水も豊富だった。
また、古代において製鉄は、たとえ大量につくるのだとしても「神事」として行われたに違いない。古代の人々が信仰したのは太陽だった。太陽信仰においては地平線から昇る太陽を仰ぎ見ることが重要であった。
強い風の吹く場所であり、太陽が昇るのを仰ぎ見ながらの「神事としての製鉄」にふさわしい場所といえば、まわりに何もない山の頂きだったのではないか。
そう考えるといろいろ想像がふくらんでくる。
日ノ池近くにこの地を詠んだ「万葉歌碑」があった。
昭和13年(1938年)建碑、とある。
文字はかすれてまるで読めず、脇に案内板があって「万葉集 東歌 第14 3436」の歌として次の歌が紹介されている。
志良登保布 乎尓比多夜麻乃 毛流夜麻乃 宇良賀礼勢奈那 登許波尓毛我母
これによれば金山は万葉のころは「乎尓比多夜麻(おにひたやま)」あるいは「尓比多夜麻(にひたやま)」と呼ばれていたようだ。「新田」という名前もこの「にひたやま」から派生したものだろうか。
山頂付近からの眺め。
富士山も見える。
本丸跡には、太田市で生まれた新田義貞を祀る新田神社があった。
ジョウビタキのメスが城を訪れていた。
金山城までは登りが続くが、そこからは一気に下っていって、麓にあるのが「太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設」。
石垣を模した建物は、新国立競技場の設計者としても知られる隈研吾氏の設計によるもの。
建物の中まで石垣模様でデザインされていた。
ちなみに来年1月3日夜のNHKの番組「日本最強の城スペシャル」という番組で、日本全国のほかの城とともに金山城も紹介されるそうだ。
ガイダンス施設を見学したあと、さらに30分近く歩いて太田駅へ。
駅前のレストランで昼飯をかっこみ、日中は1時間に1本しかない東武・伊勢崎線の電車で終点の伊勢崎へ。途中、「世良田」という駅に止まったら、「徳川氏発祥の地」という看板が立っていた。
伊勢崎駅で両毛線に乗り換え。乗り換え時間は3分しかなく、これを逃すと30分待たなければいけないが(何しろ両毛線も1時間に2本しかない)、何とか間に合う。
このあたり、ローカル列車に乗るスリルを味わえる喜び。
両毛線で前橋下車。いよいよ「白井屋ホテル」へ。
(つづく)