善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

藍と青石の国・徳島散歩/前編

仕事で徳島へ。先週も徳島と高知を旅してきたが、先週行ったのは遊びで、今回はあくまで仕事。せっかくだからと1泊して、1日目は美馬市脇町の「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)」を歩き、翌日は徳島城跡と市中心部に近い眉山(びざん)に登る。

 

まず1日目、JR四国の特急「剣山」で穴吹駅へ。

特急といっても2両編成で、乗客はパラパラ。

JR四国は先月、所有する全8路線18区間のすべてが赤字で、「必要経費すらまかなえてない」と明らかにしたが、人口減少で利用者が激減しているのだから赤字になるのはやむを得ないことだろう。しかし本来、地域住民の生活の足としての役割を持っているのが鉄道なのだから、道路と同じに生活に欠かせない公共交通機関だ。道路の建設や維持には莫大な国費を投入しているのだから、JRの赤字に対しても国などの援助が必要なのは当然のことではないか。

ちなみに2021年度の国交省の鉄道局予算は国費1075億円に対して、道路局予算は国費2兆665億円。20倍もの格差がある。

 

車中で駅弁を、と思ったが、利用者が少なくては駅で弁当も売っていない。

駅ビル内にあるパン屋で購入したサンドイッチが旅の友。

 

徳島駅から約40分で穴吹駅着。

駅からタクシーで10分ほど、“うだつの上がる町”美馬市脇町へ。

美馬市脇町は徳島県を流れる吉野川中流あたりに位置している。江戸時代から通商産業が盛んで、阿波特産の藍の集散地として繁栄し、大規模で豪壮な商家が軒を並べていた。今も江戸後期に建てられた町家が数多く残り、かつての繁栄ぶりを示している。

この町の特徴が「うだつ」。

「うだつ(卯建)」とは隣家と接する屋根の端につくられた袖壁のことで、当初は防火の目的でつくられたが、のちに商家の威勢を競うように高く、立派につくられるようになったという。それがやがて慣用句となり、「うだつが上がらない」とは、地位や生活などがよくならない、ぱっとしないといった意味になっていった。

 

タクシーをおりて、うだつの町並みに向かう途中、藍染工房があったのでのぞくと、係の女性が藍染めについて説明してくれた。

このあたりは船着場があったりして藍の流通に大きな役割を果たすとともに、徳島の代表的な産物である阿波藍の一大生産地でもあったという。

床に置かれた大きな瓶。染料の藍汁をためておく瓶で、実際に藍染めに使うときは地中に埋められている。蓋を開けると、独特の香りがして、真ん中でブクブクいっているのは泡。「藍の花」とも呼ばれる。

「こうしている間にも発酵が進んでいるんですよ」と係の女性。

藍染めは全国各地で行われているが、徳島は藍染めの元となる藍染料「すくも(蒅)」づくりの本場として現在もその伝統が引き継がれていて、徳島でつくられた「すくも」は「阿波藍」と呼ばれている。

草かんむりに「染める」と書いて「蒅」。まさに草木染めの王さまみたいな呼び名だ。

 

藍染めの原料となるのはタデ科の植物、タデ藍。

これを乾燥させると、すでにきれいな藍色があらわれている。

この葉っぱには「インディゴ」という藍色の色素が含まれていて、乾燥させたものを丸く固めたのが蒅で、「藍玉」とも呼ばれ、藍染めに用いるときに細かく砕いて使う。

ただし、タデ藍に含まれる色素は容易に水には溶けない。ふつうの草木染めのように枝や葉を煮詰めたりして染色することができないため、葉に付着している藍還元菌と名づけられた発酵菌の力を借りて、発酵させることで水溶性に変え、染色できるようにするのだという。

徳島で行われているのは化学製品を一切使用せず、天然成分だけを使った「天然藍灰汁発酵建て」と呼ばれるやり方。

瓶の中に「すくも」と、木灰からとった灰汁(あく)、石灰を混ぜてアルカリ性にしていく。菌のエサとなる「ふすま(小麦の外皮)」や、菌の活動を助けるために日本酒を加えて、発酵を促進させる。

こうして出来上がっていく「藍」は生き物。毎日、慎重に状態をみながら「藍建て」を行っていくのだという。

栽培されていたタデ藍。

 

いよいよ、うだつの町並みへ。

平日ということもあってか、人通りはあまりない。

江戸時代と変わらないような通りの雰囲気。

 

どの家にも立派な「うだつ」があった。

 

表情豊かな鬼瓦も目につく。

屋根の先に突き出た瓦を「鳥ぶすま」という。

鳥が鬼瓦にフンをしないようにするためもあり、帆掛け舟の帆の形をしているとか。

 

「うだつ」の実物大の断面模型が置かれた倉庫があった。

倉庫内には脇町にある脇人神社の御輿が置かれていて、なかなか立派だった。

 

寛政4(1792)年に創業した藍商、吉田直兵衛の家。

屋号を「佐直(さなお)」と称し、脇町でも1、2を競った豪商という。

約600坪の敷地には江戸時代中期から後期にかけて建てられた母屋、質蔵、藍蔵など5棟が中庭を囲むように建っている。

番頭さん(の人形)がお出迎え。

 

王位戦の間。

2005年の第46期王位戦第5局がこの座敷で指された。

うだつの町には、明治時代の将棋名人・小野五平の生家があり、その縁があってか王将戦が行われたようで、当時の羽生善治王位と佐藤康光棋聖が対局。

そのときの「第117手」の駒の位置が再現されていた。

ちなみにこのときの大盤解説はあとで行く「オデオン座」で行われたという。

 

母屋も大きいが蔵もデカくて、蔵の中で働いていた人の落書きかな?

 

欄間彫刻が見事だ。

 

太い梁も豪商のあかし。

かつての町並みが模型で再現されていた。

窓の形が虫かごに似ているというので、むしこ窓(虫籠窓)。

 

むくり屋根があった。

丸みを帯びた独特の形をしている。

神社仏閣や武家屋敷がそっくり返ったような、威張りくさった屋根の形をしているのに対して、まるでおじぎをする商人のように、丸くやさしく優雅な感じの屋根の形。

始めのころは商人の家屋に用いられていたが、やがて公家なども気に入ってむくり屋根を採用するようになり、有名なのは江戸時代に建てられた「桂離宮」だという。

武士の時代から商人の時代になると、価値観も変わっていって、それが屋根の形にもあわらわるようになるのだろうか。

 

変わった電柱を発見。

家の屋根を守るためにわざと曲げたみたいだ。

 

うだつの町並みのはずれの川向こうにあったのが「オデオン座」。

どこかで見たことあるなーと思ったら、山田洋次監督の「虹をつかむ男」の舞台となった映画館だった。

正式名称は「脇町劇場」で、「オデオン座」はあくまで映画の劇中の名前で、撮影用のセットとして看板がつくられたのだが、今はこちらが通称となっている。

 

もともと脇町劇場は芝居小屋として1934年(昭和9年)に建てられたという。

脇町は脇城の城下町として成立し、藍の集積地として発展したところだから、人口も多く、文化・芸能も盛んだったのだろう。

戦後は映画館となり地域の憩いの場となっていたが、映画の斜陽化や人口減少、建物の老朽化などにより1995年(平成7年)に閉館して取り壊される予定となっていた。

一方、山田洋次監督の映画「男はつらいよ」シリーズはそのころ第49作目を迎えようとしていて、ロケ地はそれまで「男はつらいよ」シーリーズに登場したことのなかった高知で、タイトルの副題も「寅次郎花へんろ」と決まっていた。ところが、撮影が行われようとしたそのとき、主演の渥美清じ死去して製作は中止となり、シリーズは48作までで終了となってしまった(その後も渥美清不在ながら50作までつくられている)。

亡くなった渥美清を追悼して企画されたのが「虹をつかむ男」で、映画のロケ地として選ばれたのが、同じ四国で、取り壊しが決まっていた脇町劇場だった。

映画の公開後、一躍全国の注目を集め、一転して取り壊しは中止となる。それどころか、町指定文化財として修復されて、映画上映や芝居の上演が行われるなどしていて、現在にいたっている。

 

板張りの懐かしい劇場内部。

舞台から客席を見たところ。

映画「虹をつかむ男」のポスター。

山田監督始め山田組のスタッフの寄せ書き。

地階の奈落。

回り舞台を動かす仕掛けが残っていた。

(後編に続く)