東京・銀座のエルメスビル10階にあるプライベートシネマ「ル・ステュディオ」でレオス・カラックス監督の「汚れた血」を観る。
1986年のフランス映画。
監督・脚本レオス・カラックス、撮影ジャン=イヴ・エスコフィエ、出演ドニ・ラヴァン、ジュリエット・ビノシュ、ミシェル・ピコリ、ジュリー・デルピー、ハンス・メイヤーほか。

ハレー彗星の接近により灼熱の暑さとなったパリ。愛のないセックスによって感染する病気「STBO」が流行し、若者を中心に何千人もの死者が出ていた。
幼少のころから虚無感や孤独感に生きてきた青年アレックス(ドニ・ラヴァン)は、恋人リーズ(ジュリー・デルピー)といるときも虚しさは同じ。いかさまのカードマジックで日銭を稼ぐ生活に嫌気が差してきた矢先、行方知れずの父親が地下鉄の列車に轢かれ死んでしまう事件が起こる。
アレックスの父親の友人マルク(ミシェル・ピコリ)は彼の多大な借金を背負うこととなり、STBOのワクチンを製薬会社から盗み、密売しようとして、父親同様に手先が器用なアレックスを仲間に引き入れる。
当初は参加を渋るアレックスだったが、マルクの恋人アンナ(ジュリエット・ビノシュ)と出会い、彼女の虜になって・・・。
ヌーヴェル・ヴァーグ以後のフランス映画界に「新しい波」をもたらしたといわれるレオス・カラックス監督。23歳になる1983年に「ボーイ・ミーツ・ガール」で長編デビューし、本作が長編第2作で、26歳のときの作品。
実らぬ恋の物語だが、ただがむしゃらに疾走する主人公アレックスは、若きカラックス監督本人の姿がダブっているように感じた。
長編作品第1作の「ボーイ・ミーツ・ガール」も、本作も、続く第3作の「ポンヌフの恋人」も、主人公の名前はアレックス。カラックス監督の本名はアレクサンドル(アレックス)・オスカル・デュポンなので、主人公アレックスはカラックス監督の分身ともいえ、3つの作品でアレックスを演じたドニ・ラヴァンはカラックス監督と身長体重が同じで顔つきも似ていて、まさしく監督本人を描いた物語といえるかもしれない。
デヴィッド・ボウイの曲に乗せて主人公が疾走するシーンとか、パラシュート降下のシーン、ラストのジュリエット・ビノシュ(このとき彼女はまだ22歳の新人で、映画では30歳の役を演じていた)が両手を広げて走るシーンなど、印象深いシーンのオンパレード。
特に心に残ったのが、アレックスとビノシュ演じるアンナとのバスの中での出会いの場面で、心ときめく出会いなのにやがて別れることを予感させるような、“映像の詩”といってよいシーンだった。
タイトルの「汚れた血」(原題「Mauvais sang」)はアルチュール・ランボーの詩集「地獄の季節」の中の「Mauvais sang」からとられている。
ランボーは19世紀のフランス文学を代表する詩人だが、カラックス監督とどことなく似ているところがある。
早熟な天才、神童と称されたランボーは、父の不在と敬虔(けいけん)な母親の干渉に耐えかね、家出を繰り返す。15歳のときから詩を書き始め、数々の作品を残すが、20歳で詩を捨てアフリカ大陸で貿易商人になり、全身をがんにおかされて37歳の若さで亡くなる。
一方のカラックス監督はというと、16歳で学校を中退し、18歳から映画雑誌で批評家として活動するようになり、20歳で監督した短編がエール映画祭グランプリを受賞。23歳で長編デビューするなど、こちらも早熟の天才肌。違うところは、カラックス監督は64歳になった今も映画監督として活躍中。
「Mauvais sang 」は1873年、ランボー19歳のときの作品。
ランボーは、フランス人の先祖であるゴール人の血を受け継いでいるというので自分を「劣等種族」と呼ぶ。「Mauvais sang」には「悪い・卑しい+血筋・血統」という意味があり、日本語訳で小林秀雄は「悪胤」と訳している。
ゴール人から受け継いだもの、すなわちキリスト教の歴史や近代化に疑念を投げかけ、黒人の立場から白人が未開の地に上陸して支配しようとするのを批判する。これらに重ねて彼の個人史が語られるが、彼の言う「汚れた血」には自身の不安や憂鬱なども含まれ、教育熱心な母親の血と、母の男兄弟ふたりが放浪と飲酒で家を没落させたことから、その血に流れる破滅的な情念の意味も含まれているとの説もある。
カラックス監督の本作を観たあと、改めてランボーの「Mauvais sang 」(小林秀雄訳)を読むと、若きランボーの疾走するような情念がそのまま映画に投影されているように感じる。
カラックス監督は、映画「Mauvais sang 」でランボーの詩「Mauvais sang 」の世界を描きたかったのではないだろうか。