善福寺公園めぐり

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映画「故郷」が問うもの

1972年製作の映画「故郷」が、松竹創業130周年×BS松竹東急開局3周年記念の山田洋次特集で放送されていた。

監督・山田洋次、脚本・山田洋次宮崎晃、撮影・高羽哲夫、音楽・佐藤勝、主題歌・加藤登紀子「風の舟歌」、出演・倍賞千恵子、井川比左志、笠智衆渥美清前田吟、阿部百合子、矢野宣、田島令子ほか。

瀬戸内海の倉橋島で生計を立てていた夫婦が、高度経済成長の波の中で故郷を去る決断をするまでを描く。

 

島に住む精一(井川比左志)、民子(倍賞千恵子)の夫婦は、精一が船長、民子が機関長として埋め立て用の砕石を運ぶ「石船」と呼ばれる小さな木造船で石を運び、生活の糧としていた。

夫婦は2人の子どもと精一の父親(笠智衆)とともに、瀬戸内の美しい自然に囲まれ、裕福ではなくても平和な日々を送っていた。

しかし、陸上交通が発達したり、重機を載せた大型の運搬船があらわれるようになる一方で、精一の船は老朽化でエンジンの調子が悪くなり、すでに耐用期間もすぎた船体の修理には多額の費用が必要とわかった。今後の生活を悩む中、尾道にある造船所で働くことを誘われた精一は、島を出て新天地で暮らすことを決断せざるをえなくなる・・・。

 

本作は、島で暮らす夫婦をめぐるヒューマンドラマであるが、同時に、江戸時代のころから、ひょっとしたらそれ以前から守られてきた貴重な文化が、高度経済成長という“魔物”に飲み込まれ、捨て去られる物語でもあった。

本作の主役は井川比左志と倍賞千恵子が演じる精一と民子の夫婦だが、もうひとつの主役が石船と呼ばれる砕石運搬船だろう。

石切り場で出た大小さまざまの砕石を、平らになっている甲板にブルドーザーで積んでいき、海水に浸かる寸前まで満載し、全速力で埋め立て地に向かっていく。砕石の投入ポイントに到着すると、甲板上の一番大きな石にワイヤーをかけてクレーンで持ち上げ、テコの原理で船を90度近く傾かせ、甲板に山積みされた砕石を一気に海中へと落としていく。

傾きが弱ければ砕石をうまく落とすことができないし、傾きが強すぎれば石もろとも一瞬で船は転覆してしまう。

この作業を船長の夫と機関長の妻とが呼吸をピッタリ合わせて行うのだが、危険と隣り合わせではあるものの熟練したワザに思わず目が釘付けとなる。

実は本作をつくろうとしたのも、山田監督が仕事の合間に瀬戸内海を旅行したおり、倉橋島の石船を目撃したのがきっかけという。そのとき見た熟練のワザが気に入ったのだろう、海中投棄のシーンが2回も画面に映し出されていた。

 

倉橋島の石船の熟練のワザは、決してにわかにつくられたものではない。倉橋島の長い歴史の中で生み出され、伝えられてきたものだ。

倉橋島は現在は広島県呉市に属する島だが、全島ほとんどが花崗岩で良質の石材を産出する島だった。

また、古くから船大工が集まる造船の島としても有名で、遣唐使船や、豊臣秀吉の命で軍船をここ倉橋の地で建造したともいわれていて、江戸時代のドック跡も残されているという。

本作の舞台で、ロケ地ともなった大向(おおこう)地区は、島の南西に位置し、ここには石船を生業とする家が多くあり、石屋も多くあったという。

ここでの石船の歴史も長い。

いつごろから石船が始まったかというと、江戸時代のころからといわれる。

以下は宮本常一著作集49「塩の民俗と生活」(未來社刊)からの引用だが、日本で石垣が盛んに築かれるようになったのは中世の終わりごろからといわれ、やがて近世に入ると海岸埋め立てのために石垣や波止(はと、防波堤)が築かれるようになっていく。

海岸埋め立てはどのように行われたかというと、石垣を築こうとするところへまず捨て石といって、海上から船で運んできた屑石を海中に捨て、それを何度も繰り返して干潮のときにその石群が水面に出るようにする。するとその石の周囲に砂が集まり、洲ができる。そこに石を積み上げていって石垣や波止を築いていくのだ。

大きな事業のときには10年もかかったというが、洲をつくるのに時間がかかったらしい。

この洲をつくるとき、海上輸送で石を運び、海に投棄したのが石船だった。

海につくる石垣に向いている石としてもっぱら使われたのは花崗岩であり、その産地のひとつが倉橋島だった。

 

倉橋島からさらに橋を渡った江田島市はかつては2つの島からなっていたが、江戸時代から250年かけて海峡が埋め立てられ、江田島能美島がつくっついて1つになった。この埋め立てのとき、埋め立て用の石を運んだのは倉橋島の石船だっただろう。

また、倉橋島に近い瀬戸内海の鞆の浦(とものうら)には、江戸時代に石積みでつくられた波止が現存している。石造りの波止としては国内最大級の規模で、ここに設置された常夜燈は鞆の浦のシンボルになっている。

おそらく波止を築くにあたっては、倉橋島花崗岩を石船が運んでいたのだろう。

このように、倉橋島花崗岩を運ぶ石船は江戸時代からの歴史があるのだ。

鞆の浦万葉集に詠まれるぐらい歴史のある場所だから、ひょっとしたら江戸時代よりもっと古くから、護岸のための石を倉橋島の石船が運んでいたかもしれない。

倉橋島の石船はそれぐらい歴史のあるものなのであり、その仕事は代々受け継がれてきたのだろう。

映画の中のセリフでも、主人公の精一の父親は、代々石船を家業としていたと語っていた。

それだけ歴史のある、ひとつの文化といっていい石船が、時代の流れだからという理由でポイと捨てされられてしまっていいのだろうか、と本作は観る人々に問いかけているのではないだろうか。

映画の最後の、精一のセリフが心に響く。

精一「民子、大きなものば、何のことかいの?」

民子「え?」

精一「みないうじゃろが、時代の流れとか、大きなもんには勝てんとか。ほいじゃが、それは何のことかいの。大きなものとは、何をさすんかいの。何でわしら、大きなものには勝てんのかいの。何でわしは、この石船の仕事を、わしとお前で、わしの好きな海で、この仕事を続けてやれんのかいの」

そもそも「文化」とはラテン語の「cultura」に由来し、その意味は「耕すこと」なんだとか。つまり文化とは社会を耕す行為であり、人や地域を醸成し、心豊かにしていくプロセスをいうのだろう。

倉橋島での人々の生業としての石船は、そこの住む人にとっての生きていくための糧であると同時に、「故郷(ふるさと)」を守っていくための「耕す」行為としての役割を持っていたのではないだろうか。