善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「ガリバーの大冒険」+原民喜「ガリバー旅行記」

チリの赤ワイン「コルディエラ・カベルネ・ソーヴィニヨン・レゼルヴァ・エスペシャル(CORDILLERA CABERNET SAUVIGNON RESERVA ESPECIAL)2020」

(写真はこのあと牛サーロインステーキ)

スペインのバルセロナ近郊、ペネデス地方でワインづくりを行っているトーレスが、チリで手がけるワイナリー、ミゲル・トーレス・チリの赤ワイン。

「コルディエラ」とはスペイン語で山脈を意味し、ブドウはチリのサンティアゴから30km南に下ったアンデス山脈のふもと、マイポ・ヴァレーのカベルネ・ソーヴィニヨン100%。

スパイシーでエレガントな味わいのワイン。

 

ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していたスペイン・アメリカ・イギリス合作の映画「ガリバーの大冒険」。

1960年の作品。

原題「THE 3 WORLDS OF GULLIVER」

監督ジャック・シャー、出演カーウィン・マシューズ、ジョー・モロー、ジューン・ソーバン、バジル・シドニーほか。

アイルランドの作家ジョナサン・スウィフト(1667~1745年)の風刺小説「ガリバー旅行記」(1726年)を実写映画化。

 

17世紀の末、ロンドンで医者をしていたガリバー(カーウィン・マシューズ)は船医となって航海の旅に出るが、些細なことでケンカしてしまった婚約者のエリザベス(ジューン・ソーバン)も潜り込んでいた。襲いかかる嵐によってガリバーは海に放り出され、意識を失ったまま孤島に漂着。目覚めると、そこはリリパットという小人の国だった。

リリパットの王さまは島を出るための船をつくることを約束するが、それには海の向こうにあるブレフスキュという国を倒せという条件がついていた。争いを好まないガリバーはブレフスキュに赴き、戦艦すべてを奪い取って戦争にまで発展することを防ぐ。ところが、王さまはブレフスキュの民を皆殺しにするようガリバーに求めてきて、一悶着のあげく島から逃げ出す。

ガリバーは別の島に行き着くが、今度は巨人が暮らすブロブディンナグという国で、そこで彼はエリザベスと再会。始めオモチャのように扱われ、王さまのペットのワニと戦ったりしたあげく、王宮の魔法使いと対決して・・・。

 

今から60年以上前につくられた映画だが、特撮技術を駆使したファンタジー作品。風刺小説を原作にしているだけに映画でも風刺を利かせていて、卵を上から割るか下から割るかというくだらない対立が原因で戦争を始める小人の国の王や、学がないのにプライドだけは高い巨人の国の王を描くことで、権力者の愚かさを皮肉っている。

 

しかし、原作のスウィフトの小説は4部構成になっていて、小人の国、巨人の国は第1部と第2部。起承転結でいえば起と承であり、そのあと第3部、第4部と続いていて、第3部には日本も登場している。

第3部でガリバーがたどり着いたのは空中に浮かぶ島ラピュタ宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」のモデルになったことでも知られる。ラピュタは日本のはるか東にある島国バルニバービの首都で国王の宮廷であり、巨大な天然磁石の磁力によってバルニバービ国の領空を自在に移動することができることになっている。

第3部で日本が登場するのは最後のところ。「ガリバー旅行記」は全編架空の国の話であり、架空の世界を訪れて奇想天外な物語をもっともらしく語っているのだが、唯一、実在する国として登場するのが日本だ。

スウィフトが生きた時代、ヨーロッパ人にとって鎖国中だった江戸時代の日本は、架空の国と同じように不思議な国として見られていたのかもしれない。

ラピュタから離れた彼は、鎖国中でも数少ない交易相手となっていたオランダ人と偽って日本に入国。1709年5月27日ごろ、「日本の南東ザモスキという小さな港に上陸した」とある。ザモスキの綴りはXamoschiで、スウィフトは江戸時代初期に徳川家康の外交顧問となったウイリアム・アダムズ(三浦按針)からイギリスに送られた手紙をヒントに、ガリバーを三浦半島観音崎(Kannonsaki)に上陸させたことにしかったが、綴りを誤ってザモスキとしたのではないかといわれている。

日本の皇帝(将軍)に拝謁するためエド(江戸)へ向かう。この年、日本では「生類哀れみの令」の徳川綱吉が2月に亡くなり、徳川家宣が第6代将軍になっているから、拝謁したのは家宣ということになる。

家宣からはオランダ人に課せられる踏み絵を求められるが、ガリバーはこれを断る。「踏み絵をしたがらないオランダ人を初めて見た」と家宣から怪訝な顔をされるも、何とか許され、ナンガサク(長崎)へ送り届けてもらって、オランダ船に乗って無事イギリスに帰国したのは1710年4月16日だった。

 

最終章である第4部でガリバーが漂着したのは聡明な馬フウイヌムが支配する「馬の国」。馬たちは平和を愛し、高度な知性と徳性を備えていたが、一方同じ島には馬と対極的な「ヤーフ(ヤフー)」と呼ばれる醜くて人間らしき生きものも住んでいた。外見が醜いだけでなく、内面も自分勝手で横柄で欲望丸出し、品性下劣、絶え間なく争い、光り輝く石(黄金)を熱狂的に好む生きものがヤーフだった。

ガリバーが自国の人間の文明や社会について戦争や貧富の差も含めて語ると、フウイヌムから「ヤーフはまだ武器や貨幣を作るような知恵がないから争いは小規模で済むが、お前たちのように知恵をつけたら、より凄惨な事態を招くのだろう」と苦々しげに評される。結局ガリバーは、フウイヌムたちの議会で「知恵や理性はあるがヤーフと同一の存在」と判決を受け、フウイヌム国を出ていくよういい渡され、故国に向けて旅立っていく。

 

ガリバー旅行記」はかなり以前から日本語訳が出版されていて、最初の日本語訳は1880年明治13年)に出版された第1部の「小人の国」だけを訳した片山平三郎訳「絵本・鵝瓈皤兒回島記(がえたばるす・しまめぐり)」とされている。全訳が出たのは1909年(明治42年)で、1940年(昭和15年)には中野好夫訳「ガリヴァ旅行記」、1941年(昭和16年)には野上豊一郎訳「ガリヴァの航海」と普及版の全訳が出ているし、主に「小人の国」と「巨人の国」だけを語り直した児童書も多数出版されていた。

戦後、子どもたち向けに出版されたのが、1948年(昭和23年)の森田草平訳「ガリバー旅行記」(広島図書・銀の鈴文庫〈童話・名作篇13〉)。しかし、この本では、作中もっとも過激な諷刺である第4部の「馬の国」は訳されておらず、第3部までで終わっている。

それから3年後、第4部までを完訳した本が出版された。1951年6月、主婦之友社から「少年少女名作家庭文庫」として出版された「ガリバー旅行記」であり、訳者は詩人で小説家の原民喜(1905~1951年)だった。

 

ガリバー旅行記原民喜著・主婦之友社 1951年刊(Wev広島文学資料室・原民喜の世界より)

原民喜広島市生まれで、広島で被爆し、その体験を綴った短編「夏の花」は原爆文学の代表的な名作として今日も多くの人に読まれている。ほかにも「廃墟から」「壊滅の序曲」「鎮魂歌」「原爆小景」「心願の国」「原民喜詩集」などの作品を残している。

彼の作品の多くは被爆体験を軸としたもので、作品として残っているのは短編か詩だ。唯一の長編といっていいのが、訳書ではあるものの「ガリバー旅行記」だった。しかも、彼はこの作品を書き終えたあと、3カ月後の出版を待つことなく、自ら命を絶って45年の生涯を終えている。

なぜ、原民喜は生きている自分の最後の仕事として「ガリバー旅行記」を訳したのだろうか?

 

彼が「ガリバー旅行記」に託した思いは、「著者から読者へに代えて」と題する「あとがき」の中に語られている気がする。

この中で原民喜は、米軍による広島への原爆投下があった5年前の8月6日を思い出し、原爆あとの不思議な光景を思い出す。鞍も何もつけていない裸馬がいて、その馬は負傷もしていないのにひどく愁然と哲人のごとく首をうなだれていたという。

そして彼は、「あとがき」の最後に「ガリヴァの歌」と題する詩を載せている。

 

必死で逃げていくガリヴァにとって
巨大な雲は真紅に灼けただれ
その雲の裂け目より
屍体はパラパラと転がり墜つ
轟然と憫然と宇宙は沈黙す
されど後より追まくってくる
ヤーフどもの哄笑と脅迫の爪
いかなればかくも生の恥辱に耐えて
生きながらえん と叫ばんとすれど
その声は馬のいななきとなりて悶絶す

 

原民喜は「ガリバー旅行記」の翻訳にあたり、特に力を入れたのは第4部の「馬の国」といわれるが、自分の最後の仕事としてなぜ「ガリバー旅行記」を選んだかというと、もちろん貧しい暮らしの中で原稿料がほしいということもあっただろうが、それ以上に、侵略戦争を始めたり、支配拡大のために原爆を投下するような人間という生きものの愚かさを、この作品を通して訴えたかったのではないだろうか。

 

原民喜は、彼にとっての最大の理解者であり庇護者でもあった妻・貞恵を、結婚から11年後、戦時中の1944年に肺結核により失う。妻は33歳の若さだった。愛する妻に先立たれた彼は、1年以内に死のうと思うようになったという。なぜなら、極端に寡黙で、人との交わりを得意としなかった原は、明るく利発で彼の才能を信じてくれるこの妻がいてくれたからこそ、落ち着いた至福の時間を過ごすことができたからだった。

しかし、終戦の年の45年1月、郷里・広島の長兄の家に疎開し、8月6日、そこで被爆する。原爆というとてつもない地獄絵図を目の当たりにして、「自分が見たものを書き残さないと死ねないと思うようになった」と書き残している。

被爆者となった彼にとって、東京生活は孤独と貧しさとのたたかいだったが、その中で執筆を続け、原爆小説「夏の花」など次々と作品を発表したが、ついに力尽きた。

50年1月から武蔵野市吉祥寺(現在の吉祥寺南町)の下宿に住んでいた彼は、51年3月、国鉄(今のJR)中央線の西荻窪-吉祥寺間の踏切(当時中央線は高架になってなくて、高架化は1969年)に身を横たえ、鉄道自殺する。

下宿には親族や友人たちに宛てた17通の遺書が残されていた。

小説家であり「三田文学」で一緒だった丸岡明宛の遺書では、借金があるので「ガリバー旅行記」の印税が入ったらそれをあててほしいと書いていて、「ガリバーの本が出たら送って頂きたい」と、送ってほしい人たちの名前を残している。

丸岡は原の「ガリバー旅行記」が出版されてから3カ月後に、同じ主婦之友社の「少年少女名作家庭文庫」の第8巻(原の「ガリバー旅行記」は第5巻)としてエクトール・H・マロの「家なき子」を翻訳している。

原と丸岡は同じ慶応大学文学部出身。丸岡の実家は「能楽書林」という神田神保町にある出版社で、自宅もそこにあった。一時は自宅を発行元として「三田文学」編集にも携わっていて、原は1948年からの2年間、吉祥寺に転居するまでの間、能楽書林に下宿しており、丸岡は「夏の花」を能楽書林から発行するなど原の執筆活動を支えたりしていた。

原が「ガリバー旅行記」を翻訳するようになったのも、丸岡の力添えがあったかもしれない。

原はほかにも、遠藤周作、鈴木重雄(原、丸岡とともに同じ年の主婦の友社「少年少女名作家庭文庫」でセルバンテス作「ドン・キホーテ」を翻訳している)、庄司総一、山本健吉、藤島宇内、佐藤春夫梶山季之らに宛てて遺書を書いていて、多くの友人に恵まれていたようだ。

妻・貞恵の弟でもあった文芸評論家の佐々木基一に宛てた遺書で原は、「妻と別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だつたやうな気がします」と書き記している。

ガリバー旅行記」は、彼にとって一番長い遺書だったかもしれない。

 

なお、原民喜の作品は死後50年が経過したため著作権が失効していて、作品の多くはインターネットなどで自由に閲覧できる。彼が訳した「ガリバー旅行記」も、無料で読めるネットの電子図書館青空文庫」で公開されている。