善福寺公園めぐり

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スクリーンで観るナショナル・シアター「るつぼ」

ルミネ池袋8階にある映画館シネ・リーブル池袋で上映中の、イギリスの国立劇場ロイヤル・ナショナル・シアター(RNT)で上演されたアーサー・ミラー作「るつぼ」を映像で観る。

演出リンゼイ・ターナー、出演エリン・ドハティ、ブレンダン・カウエルほか。

RNTで上演した舞台を映像化して映画館のスクリーンで上映する「ナショナル・シアター・ライブ」の1作。

「るつぼ」はアーサー・ミラーの戯曲により1953年に初演され、アメリカ演劇界で最高の賞とされるトニー賞を受賞している作品。

17世紀のアメリカで実際に起きた「セイラムの魔女裁判」をもとに、集団心理を描く物語が展開する。

 

RNTはテムズ川の南岸、ウォータールー橋のたもとにあり、オリヴィエ劇場、リトルトン劇場、ドーフマン劇場の3つから成り立っている。

本作は、去年の秋に3つの劇場のうちもっとも大きいオリヴィエ劇場(1160人収容)で上演されたものを映像作品にまとめ、今年公開したもの。

 

舞台はコの字型に囲むようになっていて、上演開始前は上から水がザーッと音を立てて落ちてきて、水のカーテンになっている。

あれが幕の代わりなのか、水のカーテンの中に登場人物たちを閉じ込めておきたい作者の意図かもしれないが、やがて水が止まり、暗闇に薄明かりが差してきて、中から役者たちが浮かび上がってくる。

 

ときは1692年3月、アメリカ・ニューイングランド地方のマサチューセッツ州セイラム村(現在のダンバース)。

日本は江戸時代で、元禄文化が華やかななりしころ。

マサチューセッツはイギリスからやってきたピューリタン清教徒)と呼ばれる人たちが多く住んでいたところ。彼らはイングランド国教会の改革を唱えたキリスト教プロテスタントの厳格なグループで、当時のイギリス国教会の弾圧から逃れ、最初の移住者たちはメイフラワー号に乗ってやってきた。

メイフラワー号からおよそ70年。理想郷をめざしてやってきたのに、新天地での暮らしは厳しく、不満や失望が渦巻いていたのだろう。キリスト教において魔女信仰は根強く、しかも彼らはいわばかたくななキリスト教原理主義だったから余計に、自分たちが貧しいのは悪魔がとりついているからだと信じ込んだのかもしれない。

村に住む数人の少女たちが突然暴れ出すなど悪魔憑きの症状を呈しはじめたのをきっかけに、村中に恐怖、復讐、告発の風潮が広まり、住民たちは恐ろしい魔女裁判に巻き込まれていく。

短期間のうちに200人近い村人が魔女(男も含む)として告発され、19人が絞首刑、1人は拷問中に圧死、5人が獄中で命を落とした。

 

アーサー・ミラーはこの魔女裁判を単なる集団ヒステリーとは見ていない。土地や財産、権力をめぐって自分のエゴを押し通したいという資本主義的野心がその根にはあると考えていて、「魔女」はむしろ利用されたということをこの芝居ではいいたかったように思える。

「魔女がいる」と最初にいいだしたのは裕福な地主だが、アーサー・ミラーはこの人物について丹念に調べていて、復讐心が強く、執念深い人間とト書きで書いていて、登場人物にも「土地を目当てに近所の者を次々に殺している男だ」といわせている。

芝居は四幕構成で、第一幕から第三幕までは、少女たちが告発するままに魔女狩りが始まり、犠牲者が増えていくさまが描かれる。理不尽なウソがそのまま罷り通り、無実の人が次々に縛り首になっていくので、見ていて痛々しくてやりきれない気持ちになる。

ところが、ガラリと変わるのが第四幕、最終章の場面だ。

悪魔の手先になったと訴えられた主人公の農夫プロクターが絞首刑を免れるには、ウソでもいいから「悪魔と契約を結んだ」と証言しなければならない。最初のころ、まるで熱病に冒されたみたいに次々と絞首台に送り込んできた人たちも、少しずつ正気を取り戻して疑惑を抱くようになってきていた。プロクターが罪を認めれば悪魔や魔女がいたことになって、それを認めた彼は情状酌量されて絞首刑を免れる。しかし、悪魔なんかいなかったと証言を拒否すれば、追及する側としては自分たちの主張を押し通すために何としても彼を罪人にして死刑にしなければいけなくなる。

ウソの証言をして生きる道を選ぶか、それとも自分の尊厳を守るために証言を拒否して死を選ぶのかを逡巡する場面。

ついに彼は、妻と子どもたちを残しては死ねないと「悪魔に魂を売った」とウソの告白をする。

「一緒にいた者の名前は?」と聞かれるが、それは頑として認めず、「告げ口はしない」と密告を拒否する。

悪魔の手先になったのは自分だけだと「告白」し、告白書に署名せよと迫られたとき、自分の名前が残り、汚名が残ることだけはゴメンだと、拒否する。

「なぜ名前が残るのが嫌なのか?」と問い詰められたときのプロクターのセリフ。

「(魂の底からほとばしるような叫び声をあげて)それがわたしの名前だからです! 一生ほかに名前を持つことができないからです! 私はウソをつき、絞首刑になる人たちの足の塵にもなれない人間だ! 名前なしにどうして生きていける? 魂は渡した、名前は残してくれ!」

署名しなければ告白したことにはならず、絞首刑は免れぬ、と脅されても、彼は動じない。

刑場に引き出されようとするとき、とりすがって泣く妻に彼はいう。

「涙を見せるのはよせ! 涙は彼らを喜ばせるだけだ! 誇り高く、石の心を持って、彼らを沈めてしまおう!」

 

クライマックスでは音楽が効果的に使われていて、幕間に流れたスタッフのインタビュー映像の中で、音楽を担当したサウンド・デザイナーの一人が、単に曲を流すだけではなく、その場の気配も含めてサウンド・スケープ(音の風景)を意識したサウンドづくりを心がけた、というようなことを話していた。

 

アーサー・ミラーの「るつぼ」は、第二次世界大戦後の冷戦の時代、共産主義者をあぶり出して追放しようとする下院非米活動委員会による“赤狩り”の嵐が吹き荒れていた1953年に初演され、思想の自由を蹂躙することへの抗議の意思のもとに書いたといわれている。赤狩りは、特定の思想・信条を持っていることを「悪魔の手先」として裁く、まさしく“魔女裁判”だった。

本作をめぐりミラーのこんな回顧が明らかになっている。

「ミラーは1952年、『るつぼ』を書くためセイラムに調査に出かけようとした矢先に、1949年のヒット作『セールスマンの死』の演出を務めた友人のエリア・カザンから連絡を受け、非米活動委員会の公聴会共産党員の名前を告げる決断をしたことを告白された。カザンは初回の召喚時には名前を告げなかったが、このとき2回目の呼び出しを受け、決断したのだった。このことにより、カザンはその名に傷をつけることになった。ミラーは自分の名前もその中に含まれているのだろうと思い、恐怖で一瞬震えたが、カザンに対して憎しみや軽蔑を感じなかったことをのちに語っている。共産主義者だと疑われた場合、名前を告げないと、仕事をはじめ、すべてを奪われ、人間らしい生活を送れなくなることはミラーも理解していた。しかしこのカザンを追い詰めた非米活動委員会による追及を身近に感じ、『るつぼ』を書かなければいけないと思ったと回顧している」(多田久恵「アーサー・ミラー作『るつぼ』について」より)

主人公のプロクターの心の叫びは、ミラー自身の叫びでもあったのだ。

そして「るつぼ」初演の翌1954年、ベルギーにおける「るつぼ」公演のための渡航手続きをしようとすると、彼は「好ましからぬ人物」として国務省からの旅券の発行を拒否される。さらに56年6月、下院非米活動委員会に喚問される。そのとき、かつて共産党員だった作家たちの名前をあげるよう求められるが、「私は自分の良識を守りたい」と証言を拒否。密告して仲間を裏切るような行為は人間として恥ずべき行為と拒んだのだが、国会侮辱罪に問われて57年5月に有罪とされる。しかし彼は敢然と控訴し、58年8月の控訴審で無罪となっている。

 

「るつぼ」はフランスでは「サレムの魔女」と題して54年にレイモン・ルーロー演出、プロクターをイヴ・モンタン、妻のエリザベスをシモーヌ・シニョレによりパリのサラ・ベルナール座で上演された。これを観た哲学者で文学者でもあるジャン・ポール・サルトルは「この作品は古くからの住民と新しい住民、富める者と貧しい者との土地の所有をめぐる争いである・・・プロクターの死と彼が死を甘受したという事実は、もしその行動が社会的闘争にもとづく反逆として示されたら、意味あるものになったであろう」と評した(早川書房アーサー・ミラー全集Ⅱ」倉橋健の訳者あとがきより)。

そこでサルトルは、人々がやがてこの魔女狩りが権力者の策略でもあることに気づき反抗の空気が広がっていく様子をより浮き彫りにしたかったのだろう、フランスで1957年に映画化されたときには彼が脚本を書いている。

監督は舞台と同じレイモン・ルーロー、出演もイヴ・モンタンシモーヌ・シニョレ、それに映画デビューしたばかりのミレーヌ・ドモンジョがプロクターを絞首台に送ることになる邪悪な娘役を演じて注目され、英国アカデミー賞の最優秀新人賞にノミネートされた。