善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「真昼の決闘」「続 拝啓天皇陛下様」

チリの赤ワイン「モンテス・アルファ・シラー(MONTES ALPHA SYRAH)2021」

(写真はこのあと牛ステーキ)

「チリ発、チリ人によるチリワインカンパ二ー」として1988年に設立されたワイナリー、モンテスのワイン。

フランス・ローヌ地方発祥の黒ブドウ品種シラーを主体に、カベルネ・ソーヴィニヨンヴィオニエをブレンド

ほどよいタンニンと果実味とでバランスのとれた味わい。

 

ワインの友で観たのは、NHKBSで放送していたアメリカ映画「真昼の決闘」。

1952年のモノクロ作品。

原題「HIGH NOON」

製作スタンリー・クレイマー、監督フレッド・ジンネマン、脚本カール・フォアマン、音楽ディミトリ・ティオムキン、出演ゲイリー・クーパーグレース・ケリー、ロイド・ブリッジスほか。

町の人々が誰も救いの手を差し伸べようとしない中、無法者たちとの宿命の対決をひとり孤独に待ち受ける保安官の姿を迫真のタッチで描き出した、映画史上屈指の名作西部劇。

 

1870年、米西部の小さな町ハドレーヴィル。この日、結婚式を挙げ、きょうで保安官を退職することになった保安官ウィル(ゲイリー・クーパー)のもとに、かつて彼が逮捕し有罪となり、絞首刑になるはずだったがその後減刑された無法者フランクが釈放され、正午に到着する列車で3人の手下を連れて復讐にやって来るという知らせが届く。

ウィルは町の人々に協力を求めるが、みな、フランクに恐れをなして尻込みする。孤立無援の状態に陥るなか、ウィルは新妻エイミー(グレース・ケリー)の反対も押し切り、ひとり決然とフランクたちとの対決の時を待ち受ける・・・。

 

これまで何度も観てるが、何度観てもその度に感動を新たにする、西部劇としては異色の作品だが、名作中の名作。

何が異色かというと、主人公の保安官が始めは少しもカッコよくない。

無法者たちがやってくるというので、この日で保安官をやめることになっているウィルは、町の人々から「早く町を出た方がいい」といわれ、新妻とともに馬車で町を出るが、途中、「どうせ奴らが追いかけてくる」と気づいて町に戻り、町の人たちと一緒に無法者と対決しようとするが、共に戦おうとする者はいない。「無法者たちが舞い戻ってきた方が町が繁盛する」とまで公言する者もいて、ウィルは孤立無援となる。たった一人、仲間に入れてほしいとやってきたのはまだ14歳の少年だった。

正義が、町の平和が、無法者たちによって蹂躙されようとしているのに、みなが知らんぷりを決め込む中、協力者を求めて町をさまようウィル。とてもカッコいいガンマンには見えない。

本作を観るにあたっては、時代背景を理解することも大切だろう。

製作されたのは1952年だが、このころ、アメリカでは思想・信条を理由に公職などから排除しようとする「赤狩り」が吹き荒れていて、映画界では数百人の映画人が“アカ”のレッテルを張られてハリウッドを追われたといわれる。

本作の脚本を書いたカール・フォアマンは当時、赤狩りの対象者として追及を受けていた人物。彼は、本作で描かれた町の人々に、体制による思想弾圧を黙認するアメリカ人の姿を投影したともいわれている。

本作の完成後、彼はイギリスに亡命したが、その後も映画の脚本を書き続け、デヴィット・リーン監督の「戦場にかける橋」(1957年)でアカデミー脚色賞を受賞するも、公開当時は赤狩りによって彼の名前は消され、ノンクレジットとなっていた(後年に復活)。また、1961年には「ナバロンの要塞」の脚本も書いている。

赤狩りに対するカール・フォアマンの批判的視点が込められているためか、本作「真昼の決闘」のラストでウィルが保安官のバッジを捨てるシーンについて、赤狩りの推進側にいたジョン・ウェインは「許せない」と語ったとか(ちなみにゲイリー・クーパー赤狩り支持のひとりだったといわれるが)。

一方、クリント・イーストウッド主演の「ダーティハリー」(1971年)のラストでキャラハン刑事がバッジを投げ捨てるシーンがあるが、「真昼の決闘」へのオマージュであり、彼が監督になって最初につくった西部劇「荒野のストレンジー」(1972年)も、「真昼の決闘」のオマージュ作品といえる内容だった。

 

「真昼の決闘」は第25回アカデミー賞で作品賞、監督賞(フレッド・ジンネマン)、主演男優賞(ゲイリー・クーパー)、脚色賞(カール・フォアマン)、ドラマ・コメディ音楽賞(ディミトリ・ティオムキン)、歌曲賞(ディミトリ・ティオムキンほか)、編集賞(ハリー・ガースタッドほか)の7部門にノミネートされ、主演男優賞、ドラマ・コメディ音楽賞、歌曲賞、編集賞に輝くが、有力とされていた作品賞は逃した。脚本がカール・フォアマンであるためアカデミー会員が「真昼の決闘」を選ぶのに躊躇したのではないかといわれ、漁夫の利を得た形で作品賞を受賞したのは「地上最大のショウ」。当時のマスコミは「受賞理由=不明」と皮肉ったという。

 

ついでにその前に観た映画。

民放のBSで放送していた日本映画「続 拝啓天皇陛下様」。

1964年公開の作品。

監督・野村芳太郎、音楽・芥川也寸志、出演・渥美清藤山寛美勝呂誉小沢昭一久我美子南田洋子宮城まり子岩下志麻佐田啓二加藤嘉ほか。

前年に公開された「拝啓 天皇陛下様」のヒットを受けてつくられた野村芳太郎監督&主演・渥美清の人情喜劇第2弾。

 

幼いころ、拾った魚を食べ家族全員が死んだのに、その飯にありつけず生き残った男・山口善助(渥美清)。無学でお人好しの彼は、貧しさを苦にすることもなく懸命に生きていく。日中戦争が始まり、そんな彼に召集令状が届く。

天皇びいきで、「お国のため」と信じる彼には願ってもないことだったが、軍犬部隊に配属され、民間からの献納犬・友春号の飼育係を命じられる。中国大陸を転戦する彼にとって、元の飼い主・久留宮ヤエノ(久我美子)から慰問袋が届くのが楽しみだった。

そして終戦。善助は、戦地での友春号の死を知らせようとヤエノを訪ねるが・・・。

 

前作の「拝啓天皇陛下様」では脚本は野村芳太郎と多賀祥介だったが、続編の本作では、この2人にのちに監督となる山田洋次が脚本に加わっている。

山田は松竹に入社後、野村のもとで助監督をつとめていて、文才を見込まれたのか野村から脚本を書くことを勧められ、1958年公開の「張り込み」で脚本を書いた橋本忍に弟子入りしている。映画界では監督や助監督が脚本を書くことも多いが、野村も山田も積極的に両方をこなしていたみたいで、山田が監督デビューした「二階の他人」(1961年)では脚本を山田と野村の2人で書いている。

本作は、山田が32歳ぐらいのときに脚本を書いた作品だが、久我美子扮する元華族の夫人に恋心を抱き、戦地に行っていた佐田啓二演じる夫が帰って来てガッカリする、というあたりは、のちの「男はつらいよ」の寅さんそっくりの人物描写。

ほかにも、当時は「第三国人」などと侮蔑的に呼ばれた華僑の夫婦(小沢昭一南田洋子)など市井の人を人情味込めて描いているところなど、「男はつらいよ」シリーズの予告編を観ているような気分になった。

 

その華僑役で出演していた小沢昭一南田洋子の怪しげな日本語が愉快だったが、小沢の“怪演”ぶりはわかるとしても、松竹の映画に、日活のスター女優だった南田洋子が出演して三枚目ふうの役どころを熱演していたのは意外だった。

彼女は若いころは大映若尾文子とともに“性典スター”として売り出し、日活に移ってからもずっと日活を代表する看板スターだった。1956年に公開され大ヒットとなった「太陽の季節」は、石原慎太郎の原作を読んで感銘を受けた彼女が日活の常務に映画化を進言し、彼女の主演で実現したものだった。このとき共演したのが長門裕之で、のちに2人は結婚している。

1962年、長門が日活を退社してフリーになると、翌年、彼女も日活を退社し、長門とともに「人間プロダクション」を設立。自由になったので、それで松竹の映画にも出演して、小沢との珍妙な掛け合いをのびのびと演じていたのだろう。