善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

コブシの花咲く

きょうから3月。朝は仕事で出かけていて公園散歩ができなかったので、午後に公園を1周。

ポカポカ陽気で日差しが暑いぐらい。

 

一面にオオイヌノフグリが咲いていた。

春の訪れを知らせてくれる青い小さな花。

土手や公園、空き地などで自生しているが、太陽に反応して咲くため朝のうちは花を閉じていて気がつかなかった。

それにしても、こんな小さな可憐な花なのに「大」がつくオオイヌノフグリとはこれ如何に?

オオイヌノフグリ帰化植物だか、日本に昔からあるイヌノフグリによく似ていてイヌノフグリより大きいことから、その名がついたというが、これより小さいということはイヌノフグリはどんだけ小さいんだろうか?

ちなみにイヌノフグリの名前の由来は、果実の形状がイヌの陰嚢に似ていることからといわれ、江戸時代末期の「草木図説」にすでにその名が記載されている。しばしば命名者は牧野富太郎といわれるが、オオイヌノフグリ命名者は彼かもしれないが、イヌノフグリ命名はすでに江戸時代になされていた。

 

昼間でも文二らしいオスのカワセミはエサ獲りに夢中だった。

身を乗り出して今にも飛び込みの態勢。

 

池をめぐっていると、上池に暮らすもう1羽のオスのカワセミのテリトリーに、三郎らしきオスのカワセミ

この1週間ぐらい姿が見えなかったのだが、それは朝だけで、昼間はやってきているのだろうか。

あとで聞いた話では、上池ではこの日、オスがメスにエサをプレゼントする求愛採餌が行われたという。

とすると、どこかにメスがいるのだろうか。そして相手のオスは文二なのか三郎なのか?

 

下池に回ると、アオサギが首を長~く伸ばしていた。

 

下池でもオスのカワセミ

メスのサクラの姿は久しく見ないが、若いオスのようだが。

 

ポカポカ陽気に誘われてカメが日向ぼっこ中。

 

再び上池に戻って残りを半周。

サンシュユの花が満開だった。

 

コブシの花が咲き始めた。

花に虫が飛んできていた。

ハチっぽくも見えるが、花の陰でよくわからない。

今シーズン初の虫も発見。

きのうのワイン+映画「ゲティ家の身代金」

チリの赤ワイン「ヒューソネットカベルネ・ソーヴィニヨン(HUSSONET CABERNET SAUVIGNON)2019」

(写真はこのあとサーロインステーキ)

イタリアのアンティノリがチリで手がけるワイナリー、アラス・デ・ピルケのワイン。

アラス・デ・ピルケはチリ・アンデス山脈のふもとで牧場とワイナリーを経営していて、「アラス」とはスペイン語で「馬牧場」という意味。1892年に設立されたチリで最も歴史あるサラブレッド牧場でもあるという。

ワイン名の「ヒューソネット」は、この牧場で育ったアメリカ生まれの競走馬ヒューソネットにちなむもの。

この馬は、現役時代は7回走って条件戦を2勝しただけの平凡な成績だったが、種牡馬入りしてからは成績優秀な子どもを多数輩出。G1馬30頭とチャンピオン馬20頭を送り出したという。

 

ワインの友で観たのは、民放のBSで放送していたアメリカ・イギリス合作の映画「ゲティ家の身代金」。

2017年の作品。

原題「ALL THE MONEY IN THE WORLD」

監督リドリー・スコット、出演クリストファー・プラマーミシェル・ウィリアムズマーク・ウォールバーグ、チャーリー・プラマーほか。

 

1973年に起こったアメリカの大富豪ジャン・ポール・ゲティの孫が誘拐された事件を映画化したサスペンスドラマ。

 

1973年、石油王として巨大な富を手に入れた実業家ジャン・ポール・ゲティ(クリストファー・プラマー)の16歳の孫ポール(チャーリー・プラマー)が、イタリアのローマで誘拐され、母親ゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)のもとに1700万ドルという巨額の身代金を要求する電話がかかってくる。

しかし、希代の富豪であると同時に守銭奴としても知られたゲティは身代金の支払いを拒否。彼は、元CIAで現在はゲティのもとで中東の業者との交渉人をしているチェイスマーク・ウォールバーグ)を呼び寄せ、なるべく費用をかけずに孫を取り戻せと指示する。

ゲイルは息子を救うため、世界一の大富豪であるゲティとも対立しながら、誘拐犯と対峙することになるが・・・。

 

誘拐犯とも、義父であるはずの大富豪とも戦わなければならなかった女性の苦悩を描く。

母親のゲイルの描き方はかなり創作が入っているだろうが、大富豪ゲティの守銭奴ぶりは史実に近いようだ。脚色なんかしなくても、彼の一代記をそのままなぞるだけで立派な映画ができる。

1892年生まれのゲティは1966年にギネスブックに世界一の富豪と記載されたほどの大金持ち。石油採掘で財を成し、中東での採掘権を獲得して石油王として世界に君臨するようになる。しかし、かなりドケチだったみたいで、ホテルに泊まってもルームサービス代をケチって、宿泊中の洗濯物はバスルームで自分で洗ったとか、来客に自分の家の電話をタダで使わせないため公衆電話を置いた、10年以上持つ靴やネクタイしか買わなかった、などの逸話にことかかない。

世界恐慌時には、全従業員を解雇したあと安く雇い直して自分の利益を守った。第2次世界大戦前、ドイツにナチス政権が誕生すると高官たちに取り入り、オーストリア併合時にユダヤ系のロスチャイルド家の資産を狙う行動に出たりもしている。

 

孫のポールが誘拐されたときも、交渉の末、犯人は要求額を1700万ドルから320万ドルに下げてきたが、それでもゲティは首を縦に振らない。ポールの耳が切り落とされて送られてきてようやく身代金の支払いに同意したものの、彼が拠出する金額は220万ドル。

なぜならばアメリカの税制では誘拐事件の身代金として220万ドルまで税金の控除が認められていたからで、差額は息子への貸付金として処理し、金利は4%だったという。

 

一方でゲティは美術品の収集家としても知られていた。芸術に関心があったからかというとこれも金儲けに関係していて、あくまで投資の対象としてだった。

彼はいう。「私は物が好きなんだ。オブジェや古代の遺品や絵画は目の前にある姿のままで決して変わらないからね」。それで彼は物品である美術品や骨董品を山ほど集め、自分の資産としていた。

 

この映画、もともと富豪のゲティ役はケビン・スペイシーが演じていて、ほぼ全編を撮り終えてたところで彼の性的暴行事件が発覚し、降板。公開まで1カ月しかなかったが急きょ代役にクリストファー・プラマーを立て、スペイシーの出演シーンを全て撮り直した。

ところが、映画の完成後にまたひと騒動が起こる。

撮り直しのため再招集されて主役の母親ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズのギャラが、全米俳優組合基準の標準賃金(日給80ドル)によりたったの1000ドルなのに対して、元CIAの役をしたマーク・ウォールバーグのギャラが150万ドルだったと報じられ、ハリウッドの男女間のギャラ格差に大ブーイングが起こった。

結局、ウォールバーグは再撮影のギャラをセクハラ被害者のための支援基金「タイムズ・アップ(Time’s Up)」に全額寄付し、監督のリドリー・スコットも50万ドルを「タイムズ・アップ」に寄付することを発表して事態の鎮静化を図ったそうだが・・・。

ルリビタキの若オスかな?

火曜日朝の善福寺公園は快晴。最初、空気が冷たかったが、日差しを浴びるうちにあったかくなっていく。

 

上池では文二らしいオスのカワセミが、同じオスのカワセミの三郎との縄張りの境界線のあたりまでやってきていた。

ここ何日も三郎の姿を見ない。文二はそれを知ってか知らずか。

少し離れたところに移動してエサをねらっていた。

 

池をめぐっていると、エナガの声。

繁殖期を迎えて、つがいで行動するようになってきた。

何か口にくわえてるみたいなんだが。

おや?虫をゲットしたのかな?

それとも巣の材料だろうか。

 

さらに池をめぐっていると、オスのモズ男くん。

けさは恋の歌は歌わず、身を乗り出してエサを探していた。

やっぱり色気より食い気。

 

下池に向かう途中にはアオジ

濃い顔をしているからオスのようだ。

こちらもつがいで行動していていた。

 

いつも高い木にとまっていたシメが下におりてきていた。

高いところの木の実などがなくなってきて、地面に落ちた実を漁るようになってきたのかもしれない。

それにしても立派なクチバシ。

クチバシの太さでは野鳥界のチャンピオンで、噛む力も相当なもの。

人間がリンゴをガブリとやるときと同じ、およそ50㎏ぐらいに及ぶような力で固い実をバリバリと噛み砕くことができるのだとか。

 

上を気にして見上げるうちに首がどんぐん曲がっていく。

シメの名前の由来が面白い。

「シーッ」と聞こえる鳴き声と、鳥を意味する接尾語である「メ」が和名のシメの由来という。

「メ」はどちらかというと群れて飛ぶ小鳥を指す接尾語として使われていたらしい。

シジュウカラもかつては「シジュウカラメ」と呼ばれていたそうで、ツバメはツバ+メでこの名がある。

そういえばわれわれ人間も、自分を卑下するときなどに「私め」などと使うから、どこか共通しているところがあるのだろうか。

 

ヒヨドリカワヅザクラの花の蜜を吸っていた。

ヒヨドリメジロに負けず甘党だ。

 

上池に戻ると、メジロが群れてやってきて、ウメの蜜を吸っていた。

 

花の蜜なんか目もくれず、ウメの木の下を飛んでいく鳥がいた。

久々に見るルリビタキだった。

地味な色をしているからメスか、あるいは若いオスか。

ルリビタキはオスの成鳥になると全身が青くなり、“5年もの”の「ルリキング」になるとかなりの青さになるが、生まれて1、2年の若いオスはメスと同じ地味な色をしている。

尻尾のあたりの青みが増している感じがするから、去年あたり生まれた若オスかもしれない。

 

きのうのワイン+映画「遠い太鼓」「未来世紀ブラジル」

イタリア・ヴェネト州の白ワイン「ヴィニエティ・デル・ソーレ・ソアーヴェ(VIGNETI DEL SOLE SOAVE)2020」

イタリア東北部ヴェネト州ヴェローナの北、ワイン生産地として知られるヴァルポリチェッラで最近、新石器時代の6300年前のブドウの花粉と種子が発見されたという。ということはすでにこのころからここではブドウ栽培が行われていて、ワインがつくられていたかもしれない。

そのヴァルポリチェッラの東にあるソアーヴェ村周辺でつくられるのがイタリアを代表する白ワインで、さわやかなレモン、ライムなどの柑橘類の香り。 

 

ワインの友で観たのは、NHKBSで放送していたアメリカ映画「遠い太鼓」。

1951年の作品。

原題「DISTANT DRUMS」

監督ラオール・ウォルシュ、出演ゲーリー・クーパー、マリ・アルドン、リチャード・ウェッブほか。

 

ゲーリー・クーパー主演で、「真昼の決闘」の前年の1951年の作品、題名が「遠い太鼓」というので、てっきり西部劇かと思ったら、湿原の広がるフロリダを舞台にアメリカ軍と先住民との壮絶な戦いを描く戦争歴史映画だった。

 

1776年7月4日の独立宣言により東海岸の13州から出発したアメリカは、先住民を追い立てながら西へ南へと入植地を広げていくが、南部のフロリダ地方では7年間にわたり先住民のセミノール族との戦争が続いていて、熾烈を極めていた。

その戦争さなかの1840年アメリカ海軍はフロリダの沼地に浮かぶ島で防備にあたっていたワイアット大尉(ゲーリー・クーパー)のもとへ海軍の部隊を送る。

ワイアット大尉の指揮のもと、セミノール族が根城にしていた砦を破壊することに成功し、捕虜となっていた民間人の男女を救う。アメリカ海軍の奇襲に気づいたセミノール族の戦士は群れをなして追いかけてくる。ワニや毒蛇がうごめく湿地帯での逃避行と、先住民との戦いが始まる・・・。

 

1951年という時代背景もあって、先住民は野蛮なインディアンとして描かれ、白人が勝利をおさめる。唯一の救いは、主人公のワイアット大尉の亡くなった妻は先住民で、2人の間には息子がいて大事に育てられていた、ということか。

西部劇に出てくる軍隊というとアメリカ陸軍所属の騎兵隊だが、本作はフロリダで海軍が活躍する物語。フロリダは沼など湿地が多い地域だけに、海軍が先住民との戦いで大きな役割を果たしていたようだ。

今でいうなら海兵隊なのか、隊員たちはランドセルみたいな小型のバッグを背負っていたが、当時の制服や装備を再現したものなのだろう。

手づくりの舟などで川や沼地を決死の覚悟で行軍し、ホンモノの砦での大爆発、水中での決闘と、70年前の作品とは思えないほどのかなり凝った映像。

映画の最後に、特別の許可を得てフロリダの国立公園内や、かつてスペインが築いた石づくりの砦(1819年に買収するまでフロリダはスペイン領だった)でのロケを敢行したとクレジットにあった。

フロリダ半島の最南端に、今は世界遺産にも選ばれているエバーグレーズ国立公園があり、ここは淡水と海水が交わる広大な湿地帯として有名なところ。ワニのアリゲーターやクロコダイル、野鳥などが多数生息している。本作の撮影はここで行われたという。

また、映画で使われた砦は、やはりフロリダ州セントオーガスティンにあるサンマルコス砦というアメリカ本土における最古の石造要塞で、フロリダがスペイン領だったころの1695年につくられた。

今だったらこんなところで火薬を爆発させたりしてロケするなんてとても難しいだろうが、当時は許された。その意味でも歴史的な映画といえる。

 

その前に観た映画。

民放のBSでだいぶ前に放送していたイギリス映画「未来世紀ブラジル」。

1985年の作品。

原題「BRAZIL」

監督テリー・ギリアム、出演ジョナサン・プライス、キム・グライスト、ロバート・デ・ニーロマイケル・ペイリンほか。

 

テリー・ギリアム監督の「バロン」(1988年製作)が面白かったものだから、彼の監督作品というので録画しておいたもの。「バロン」は荒唐無稽、奇想天外なバカバカしさを通り越した面白さがあったが、本作は、徹底的に情報管理された近未来社会を描きつつ現代社会を風刺するSFふうの映画だった。

 

20世紀のどこかの国。中央政府の情報管理により、国民は厳しく統制・管理され、それに反発する爆弾テロが頻発していた。そんな中、情報省のコンピューターがテロの容疑者「タトル」を「バトル」と打ち間違え、無実の男性バトルが強制連行されてしまう。

その一部始終を目撃した上階の住人ジル(キム・グライスト)は誤認逮捕だと訴えるが、取り合ってもらえない。情報省に務めるサム(ジョナサン・プライス)は、上司の頼みで誤認逮捕の責任回避をしようとするが、同時に彼の心の中には自分の仕事に対する疑問が生まれていた。

抗議にやってきたジルと出会ったサムは、やがて彼女と恋に落ちる。彼女が逮捕されると彼は彼女を助け出し、2人は逃亡を始めるが・・・。

 

管理社会への風刺がテーマ。しかし、主人公はそれと立ち向かうというより、逃げて逃げて逃げてばかりいる。

題名に「ブラジル」とあり、全編にわたってブラジルの作曲家アリ・バホーゾが1939年に作詩・作曲したサンバ曲(「ブラジルの水彩画」、英語圏では「ブラジル」の名で知られるという)が流れるが、ブラジルが出てくるわけではない

なぜブラジルなのか。ギリアム監督は、イギリスの工場の近くで撮影をしていたとき、夕陽が沈もうとする光景を見て「こんな薄汚れた場所でも楽園をイメージさせる音楽を聴けば、一瞬でもブラジルの美しい砂浜にいる気分なることができるだろうか?」と思ってサンバの曲「ブラジル」をバックに流し、題名をブラジルにした、というようなことをインタビューで語っている。

逃げて逃げて結局は悲劇的に終わる物語を楽天的な音楽で彩ることで、風刺をより際立たせようとしたのだろうか。

エンディングを巡ってギリアム監督と映画会社の間で意見が衝突したため、複数のバージョンが存在するという。

ギリアム監督のオリジナル版は、ハッピーエンドに終わったように見せてそれは夢だったとして悲劇的な終わり方。一方、映画会社の方は、悲劇で終わる最後の部分はカットして一般受けするハッピーエンドバージョン。

ハッピーエンドバージョンはアメリカでテレビ放送され、ギリアム監督が自ら再編集したオリジナル版は劇場公開された。きのう観たのもオリジナル版だった。

エメラルドグリーンの目をもつカワウ

月曜日朝の善福寺公園は快晴。多少寒さがゆるんできたかな。

 

上池の比較的近くでカワウが羽繕いしていた。

真っ黒い体をしているが(繁殖期になると頭部と腰のあたりに白い繁殖羽が生じ白っぽく見えるようになる)、虹彩は鮮やかなエメラルドグリーンだ。

虹彩とは眼球の色がついている部分で、その真ん中が黒目(瞳孔)。

ものを見るとき、瞳孔が大きくなったり小さくなったりしているように見えるが、実際には虹彩が伸び縮みして光の量を調節しているので、カメラに例えれば虹彩は「絞り」に相当するという。

カワウの瞳孔はとても小さい。

ひょっとしたら水に潜ってエサを探しているときは、虹彩が縮んで瞳孔が開いているのかもしれない。

 

いつものお気に入りの枝に文二らしいオスのカワセミ

カワセミ虹彩は黒い。

カワセミには瞬膜という“第3のまぶた”があり、水に飛び込むときはこれで目を保護している。

 

ミツマタの花の数が少しずつ増えていた。

まわりから咲いていくようだ。

池をめぐっていると、さきほどの文二らしいのが近くに飛んできてくれた。

目つき鋭くエサをねらっている。


下池に向かう途中にはアオジの姿。

目のあたりの黒い部分が濃い色をしているからオスのようだ。

 

下池を1周して今度は上池に向かう途中にも、同じところでアオジ

今度は地面におりてエサを探している。

さきほどのオスのアオジだろうか。

口を開けて何かいってる。

近くに一緒いたメスらしいのが遠くに飛んでいったので、「おーい、どこいったのー?」と呼んでるのか。

首を伸ばして探している。

枝に飛び移って、やっぱり探している?

もっと高いころからのぞき込むようにしている。

春は人(鳥)恋しい季節。

モズ男くんの恋の歌(動画つき)

日曜日朝の善福寺公園は快晴。日差しは春だが、風は冬。

 

けさも上池には文二らしいオスのカワセミ

ジッと目を凝らしてエサをねらっている。

このところ、文二は毎日のように見るが、三郎の姿を見なくなったのが気がかり。

メスを求めて放浪の旅にでも出たのだろうか?

 

青空にコンコンコンと乾いた音が響く。

コゲラが幹をつっついていた。

 

けさもモズがしきりに鳴いている。

のどを震わせて、なかなかの美声だ。

https://youtu.be/5Th2qqJZpgM

サエズリをするのはオスだけで、求愛の歌。

そういえば以前、ポルトガルを旅したとき、コインブラでギターを爪弾きながら歌う「ファド」を聴いたが、もともとコインブラの「ファド」は、好きな女の子の家の窓辺で男子学生が歌う求愛の歌だったという。

歌は種を超えて相手の心に訴えかけるもののようだ。

 

下池に向かう途中の小川では、キセキレイ

陸にいたのはハクセキレイ

同じセキレイの仲間でも好物は違うみたい。

 

地面に落ちた赤い木の実を探しているのは、メジロ

 

下池をめぐっていると、カイツブリの甲高い声が響く。

この間までひとりぼっちだったカイツブリに彼女あるいは彼氏ができみたいで、仲よくエサを探している。

あの鳴き声はやっぱり求愛の歌?喜びの歌?

 

善福寺池の水が川に落ちるあたりでは、コサギがエサを探していた。

黄色いソックスがコサギの特徴。

脚をズリズリやって水底に潜む生き物を探している。

 

再び上池に向かっていると、アオジが一瞬だけ木にとまった。

 

メジロが忙しく梢をめぐっている。

目の前にニュッとあらわれたところ。

雑食系のメジロは、花の蜜でも木の実でも虫でも、何でも食べるみたいだ。

〈記憶〉をめぐる冒険「ミン・スーが犯した幾千もの罪」

トム・リン「ミン・スーが犯した幾千もの罪」(鈴木美朋・訳、集英社文庫

原題「 The Thousand Crimes of Ming Tsu」

中国系アメリカ人のガンマンが主役の異色の西部劇小説。

大陸横断鉄道完成間近のアメリカ西部。妻エイダを奪われ、不当な罪を着せられた中国人移民の殺し屋ミン・スーは、予知能力を持つ老人の言葉に導かれ、奇術ショーの一座と共に西を目指して旅を続ける。

妻を取り戻すため、自分を陥れた連中への復讐を果たしながらの苛酷な旅路。終着地カリフォルニアで彼を待ち受ける未来は、救いか、それとも・・・?

 

作者のトム・リンは1996年に北京で生まれ、4歳のとき家族とともにニューヨークのクイーンズ区フラッシングに移住。本作がデビュー作で、カリフォルニア大学デービス校で英語の博士課程在籍中の2021年、25歳のときに発表した作品という。

 

基本は容赦なく殺戮を繰り返す復讐の物語。

中国系移民のミン・スーは妻のエイダを奪われ、判事によって有罪にされて10年間にわたる大陸横断鉄道敷設の強制労働を課せられる。

当時、東海岸から伸びてきた大陸横断鉄道(ユニオン・パシフィック鉄道)はユタ準州の首都ソルトレイク・シティの北方にあるコリン駅までしかなくて、彼はそこで最初の敵を倒す。残りの敵はカリフォルニアにいるので、大陸を横切る過酷な旅が始まる。

ともに旅をするメンメンがかなり変わっている。

目が見えず、過去に起こったことはたちまち忘れてしまうものの、それゆえに未来を見通すことのできる百発百中の予知能力を持つ中国人の預言者

未来のことはわからないが、人の記憶を消す力を持っているナヴァホ族の男。彼は、今を生き延びるために過去の怨恨や悲しみを消し去ってくれる。

聞くことも話すこともできないが、テレパシーで会話ができる少年。

一瞬だけ目の前の人間と入れ替わることができる全身が象形文字のような刺青で覆われた異教徒の男。

火をつけても燃えない“炎女”と呼ばれる美女。

 

この小説のテーマは、差別され、虐げられた中国人ガンマンの復讐劇というより、「記憶」にある気がする。

主人公のミン・スーにはおぞましい過去があり、それが記憶として脳裏に刻まれていて、旅の途中にも繰り返し、その記憶が蘇ってくる。

しかし、記憶とは過去のものであるがゆえに次第に薄れていくものでもある。実際、彼の記憶の中にある最愛の人で、復讐の理由にもなった妻エルダの記憶は、次第に薄れていき、どんな顔だったかさえも、はっきりしなくなっていく。

彼にとって過去の記憶とは、自分が復讐を決意し、今を生きていこうとする「よすが」になっているはずなのだが、肝心なその記憶が薄れていくということは、自分のアイデンティティも失われていくのではないかと思い悩む。その一方で、忘れるということは忌まわしい過去からの自由につながっているのかもしれない。

 

こんな記述があった。

日没から月の出までは、マツの森は真っ暗で足元がでこぼこしているので、ミンは地面に座って手さぐりで背嚢の中身をひとつひとつ取り出した。ひんやりした鉄の感触はリボルバーの銃身だ。節のある真鍮の筒は望遠鏡。冷たくごつごつした鉛の塊。角製の火薬入れは両手でひっくり返すと雨に似た音がする。不意に、ある記憶がよみがえった。家の軒に落ちる雨音、暖炉で燃える炎、そのそばで暖を取っているエイダ。ミンは火薬入れを耳に近づけて目を閉じ、もう一度ひっくり返して音を聞いたが、今度は灰色のぼやけた人の形しか浮かばなかった。さらにもう一度、火薬入れをひっくり返すと、軒に落ちる雨音が聞こえたが、記憶に入り込もうとしても、頭のなかに浮かぶ部屋は冷たい空気に溶けてしまった。目をあけて、凍えるような夜気のなかへ白い息を吐いた。手のなかにまだ火薬入れがあった。それを置いたとき、またさらさらという音が聞こえたが、今度は火薬の粉が流れる音にすぎなかった。

ひとりでに戻ってくる記憶などない。

 

別の箇所でこんな記述があった。

旅の途中、ともに旅する男たちと焚火を囲みながら、預言者が低い声で歌っていた。

「その歌はなんだ?」と一人が聞くと、「古い挽歌だ」という。

「挽歌ってなんだ?」

「死者のための歌だ」

「歌詞はないのか?」

預言者はかぶりを振った。

「長い長い年月のあいだに、どんな歌も歌詞は忘れ去られる。いずれ歌そのものすら忘れられるだろう。歌詞も旋律もない歌は夢となり、なぜかうっすらと頭のなかに居座りつづける。かつて歌だったものの記憶があるだけだ」

 

さらに「記憶」についての問答が続く。

預言者はいう。

「過去をほんとうに覚えている人間などいない。覚えていると思っているのは勘違いだ。記憶とは心ではなく体が運ぶものだ。ほんとうの記憶とは、思い出すことではない。実行される儀式のことだ」

「現在も繰り返し実行される過去。儀式。習慣。ほんとうの記憶は、心に触れることのできない場所に記録される。人間は誤って記憶することがある。嘘をつくことがある。だが、体は忘れない。忘れるすべがない」預言者はしなびた腕をのばして袖をまくり、手首に蜘蛛の巣が巻きついているような白い傷痕を見せた。「肉を鉄でこすられた痕だ」ぼそぼそと言った。「わたしの体は、わたし自身は覚えていないのに、鎖につながれていたころのことを覚えている」

 

そして再び「挽歌」の話に戻る。

「挽歌はただ歌われることに意味がある。歌詞を忘れ去られても意味がある。それでも歌われるのだから。旋律が忘れ去られても意味がある。かつて歌われていたのだから」預言者は立ちあがり、焚火を囲んでいる男たちに、見えない目を向けた。「とにもかくにも、歌うことは働くことで、生きている者は働くことによってのみ死者の影を思い出す。記憶とはそういうことだ」