善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「エンドロールのつづき」「パリに見出されたピアニスト」

イタリア・ウンブリアの白ワイン「サンタ・クリスティーナ・ビアンコ(SANTA CRISTINA BIANCO)2022」

(写真中央のカキは3つの産地のそれぞれ違った味で白ワインにピッタリ)

イタリアの名門アンティノリが手がけるサンタ・クリスティーナは1946年の発売以来長く愛され、イタリア国内で「その名を知らぬものはいない」といわれるほどのロングセラーを記録しているのだとか。

そんなサンタ・クリスティーナの、イタリアの土着品種グレケットとプロカニコをブレンドした白ワイン。

キリッと冷やして、飲み心地のよいフルーティーな味わい。

 

ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していたインド・フランス合作の映画「エンドロールのつづき」。

2021年の作品。

原題「LAST FILM SHOW」

監督パン・ナリン、出演バヴィン・ラバリ、リチャー・ミーナー、バヴェーシュ・シュリマリ、ディペン・ラヴァルほか。

インドのチャイ売りの少年が映画監督の夢へ向かって走り出す姿を描いたヒューマンドラマ。

 

9歳のサマイ(バヴィン・ラバリ)はインドの田舎町で、学校に通いながら父(ディペン・ラヴァル)のチャイ店を手伝っている。厳格な父は映画を低劣なものと考えているが、信仰するカーリー女神の映画だけは特別だといって家族で映画を見に行くことに。

人で溢れ返った映画館の席に着くと、目に飛び込んだのは後方からスクリーンへと伸びる一筋の光。そこにはサマイが初めて見る世界が広がっていた。映画にすっかり魅了されたサマイは、再びその映画館に忍び込むが、チケット代が払えずにつまみ出されてしまう。

それを見た映写技師のファザル(バヴェーシュ・シュリマリ)は、料理上手なサマイの母(リチャー・ミーナー)がつくる弁当と引き換えに映写室から映画を見せると約束。サマイは映写窓から見る映画の数々に圧倒され、自分も映画をつくりたいと思うようになるが・・・。

パン・ナリン監督自身の実体験をもとにつくられた映画というが、主人公サマイ役のバビン・ラバリは、約3000人のオーディションから選ばれた新人。

本作で一番好きなシーンは、子どもたちがみんなで協力して映画をつくり、上映して楽しむシーン。

いらなくなって廃棄されたらしいフィルムをつなぎ合わせて物語をつくり、サマイが手製でつくった映写機で上映するのだが、スクリーンは家にあった白い布。

効果音もみんなの手づくりで、馬が走るシーンは木の棒かなんかを叩いたり、手拍子や裸の胸を叩いて効果音にしたり、口笛や手製の笛を吹いたりして、工夫して上映した映画を子どもたちが大喜びしながら楽しんでいる。

幻灯の延長のような素朴な映画会だが、子どもたちの無限の想像力あるいは創造力、探究心があふれるようなシーンで、ここにこそ映画の原点があると思った。

 

そして、サマイの母がつくる料理の、何と、おいしそうなことか。

母はサマイが学校で食べる弁当をつくってくれるのだが、その味のとりこになった映写技師のファザルが、弁当を分けてもらう代わりに映画のことをいろいろ教えてくれる。

サマイの母が料理をつくるシーンがこれまたおいしそうで、見ていて思わずよだれが垂れてくる。

スパイス料理研究家の有澤まりこさんによると、本作の監督の出身地で、映画の舞台ともなっているインド北西部のグジャラート地方独特の味付けによる料理だそうで、有澤さんがネットで、そのひとつ「BHARELA RINGANA(バーレラ・リンガナ)」という料理のレシピを紹介している。

料理上手な母さんの魔法のレシピ|映画『エンドロールのつづき』公式サイト|2023年1月20日(金)公開 (shochiku.co.jp)

 

ナスにベーサン粉と呼ばれるヒヨコ豆の粉、それにいろんなスパイスを詰めた料理だそうで、トマトと一緒に煮込んでつくる。

全粒粉のチャパティと一緒に食べると最高の味わいだそうだが、映画に出てきたチャパティもおいしそうだった!

 

ついでにその前に観た映画。

民放のCSで放送されたフランス・ベルギー合作の映画「パリに見出されたピアニスト」。

2018年の作品。

原題「AU BOUT DES DOIGTS」

監督・脚本ルドビク・バーナード、出演ジュール・ベンシェトリ、ランベール・ウィルソンクリスティン・スコット・トーマスほか。

パリ、北駅に置かれた1台のピアノ。不良少年のマチュー(ジュール・ベンシェトリ)の楽しみは、自分を追う警官の目を盗んでそのピアノを弾くことだった。そこへ通りかかったパリ国立高等音楽院のディレクター、ピエール(ランベール・ウィルソン)はマチューの才能に強く惹かれ、ピアニストとして育て上げたいと声をかける。

乗り気ではないマチューだったが、実刑を免れるため社会奉仕を命じられた音楽院で、ピエールや厳しいピアノ教師エリザベス(クリスティン・スコット・トーマス)の手ほどきを受けることになるが、生い立ちに恵まれず、夢など持たずに生きてきた彼はやがて、周囲との格差や環境の壁に直面しながらも本気で音楽と向き合うようになっていく・・・。

 

その昔、テレビで生中継されたプロレスみたいな映画。力道山が巨漢の外人レスラーにさんざん反則で痛めつけられても、放送が終わるころのクライマックスになると急に元気になって空手チョップで必ず勝利し、日本中が熱狂したものだったが、実はあれは時間いっぱいまで視聴者をテレビに釘付けにしようとする演出にもとづくものだとあとで知った。

プロレスはショーであり興行なのだから、お客に楽しんでもらうための「台本」があって当然なのかもしれないが、それを真剣勝負としか見えないようにしてしまうところが、力道山のスゴサだった。

本作を観終わったあと思い出したのがあのプロレス中継だったが、本作の場合、いかにも八百長っぽさがミエミエで、これではいけない。類まれな才能を秘めた原石のような天才少年に出会ったパリの音楽院のディレクターが、さんざん苦労した挙げ句にその少年を世界的ピアニストに育て上げるヒューマン・サクセスストーリーで感動的な物語のはずが、残り時間が少なくなった最後の方は辻褄を合わせるための八百長的クライマックスになってしまっては、観ていてシラけるばかりだった。

そもそも国際的なピアノコンクールで課題曲1曲だけというのはありえないし、オーケストラと打ち合わせもなしにいきなり本番なんてことがあるのだろうか?

そのほかケチをつけたいところが多々あり、いささか、というよりかなりガッカリの内容。それでもひとつだけ気に入ったのは、音楽学校のディレクター、ピエールの次のセリフだった。

「演奏には子どもの心が必要なんだ。天才とは、子どもの心を取り戻した大人のことなんだよ。ボードレールの言葉だ」

 

ボードレール(1821~1867年)はフランスの詩人であり哲学者。

彼は「天才」と「子ども」の関係について書いた随筆の中でこう語っている。

「子どもはすべてのものを新しいものとして見る。小さな子どもが形や色を吸収する喜びほど、私たち(大人)がインスピレーションと呼ぶものに似たものはない」

「インスピレーションはけいれんと共通点があり、崇高な考え方はすべて、多かれ少なかれ激しい神経ショックを伴い、それが脳の中心に影響を及ぼす。天才の神経は健全だが、子どもの神経は弱い。前者では理性がかなりの位置を占め、後者では感性がほぼすべてを占める。しかし、天才とは、意志で取り戻し子ども時代、つまり大人としての能力と、無意識に蓄積した大量の原材料を整理できる分析力を備え、自己表現できる子ども時代以上のものではない」

「(偉大な芸術家とは)一瞬たりとも子ども時代の天才性を失うことのない人、人生のいかなる面も古くさくならない天才であり、不条理にならずに誠実であるという、あまりにも難しい芸術の達人であり、感受性の豊かな人なら、私のいうことを理解してくれるだろう」

 

なかなか含蓄のある言葉といえるだろう。

 

動物には「ネオテニー」という現象があるという。性的に完全に成熟した個体でありながら、非生殖器官に未成熟つまり幼生や幼体の性質が残る現象をいう。つまり、子どもの特徴を保ったまま大人になるというわけで「幼形成熟」「幼態成熟」ともいうが、人間にもこうした現象があらわれるといわれている。

人間の場合は、姿かたちが幼いままというだけでなく、大人になっても遊び行動があらわれたり、年老いてきても見知らぬものへの興味や探索心を持ち続けたり、さらには寛容性を失わないことがあり、これもネオテニーに含まれるのだとか。

人間は、子どものような心を持ち続けたことで、進化の過程で生き残りや適応にプラスに働いたのではないかともいわれているが、まさしくボードレールがいっていることと同じではないか。

 

原題の「AU BOUT DES DOIGTS」は直訳すると「指先で」。

「この指で、未来を拓く」という本作のキャッチコピーと重ね合わせたかったのだろう。

主役のジュール・ベンシェトリはクロード・ルルーシュ監督「男と女」(1966年)のジャン=ルイ・トランティニャン(2022年に91歳で没)のお孫さん。いい演技をしていた。