善福寺公園めぐり

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「人生は小説なり」でアラン・レネがいいたかったこと

銀座エルメスビル10階のミニシアター「ル・ステュディオ」でフランス映画「人生は小説なり」を観る。

難解で“通”好みとして知られるアラン・レネ監督の作品だが、日本を舞台にした「二十四時間の情事」のイメージがあるためか、女性客が多く席は埋まっていた。

 

1983年の作品。

原題「LA VIE EST UN ROMAN」

監督アラン・レネ、出演ヴィットリオ・ガスマン、ルッジェーロ・ライモンディジェラルディン・チャップリンファニー・アルダン、サビーヌ・アゼマほか。

第一次大戦後の1919年、フォルベック伯爵は、アルデンヌの森に建てた城にかつての婚約者や友人たちを招き、彼らを永久に幸福な状態に導くと称して狂気の実験を行おうとする。

時代は変わって1982年、同じ城は先進的な教育機関の本拠地になっていて、そこでは子どもの想像力を引き出すためのシンポジウムが開かれていた。だが参加者たちの意見は一向にかみ合わず、議論は軌道を外れてばかり。

そんな大人たちの不協和音を尻目に、3人の子どもたちが想像力の翼を広げて、王子が暴君に勝利して民衆に幸福をもたらす中世の物語をつくりだす。

この3つの物語が交差しながら、映画は進行していくが・・・。

 

相変わらず難解なストーリー。監督はわざと共感しにくいストーリーにして、観る者に映画の世界にどっぷりつかるのではなく、距離を置いたところから見ることを求めているのだろうか。

20世紀はじめの伯爵が行う狂気の実験の動機は、第一次世界大戦での心の傷にくわえて、婚約者が自分の友人の元に走ったことへの嫉妬によるもので、城に貴族仲間の友人たちを集めて彼らに魔法の酒を飲ませ、赤子状態にして伯爵の思うままにさせて悦に入る。一人酒を飲まなかったかつての婚約者は反乱を起こすのだが、誰もがもはや夢見心地になっていていうことを聞かない。

それから60年後の現代(といっても1982年の話)になると、子どもの想像力を引き出すためのシンポジウムといいながら集まった教育関係者たちの議論はかみ合わないだけでなく、夜の男だけの酒盛りでは教育問題なんかよりセックス談義にうつつを抜かす。

一人真面目で教育熱心な若い女性教師は、風変わりで子どもっぽい男性教師といい仲になると思いきや、カリスマ的で魅惑的な高名の建築家に惹かれて、彼と結婚することにしてシンポジウム会場を去っていく。

一方、そんな大人たちとは関係なく、いたずら好きの学校の児童たち3人が夢想したのは、森と城を舞台にした中世のおとぎ話。子どもたちの首を次々とはねる暴君に立ちはだかった王子は、ついに暴君をやっつけて子どもたちや民衆から喝采を受ける。そして、本作のタイトルが「人生は小説なり」と気どるのに対して、子どもたちはこう喝破するのだ。「人生は小説なんかじゃない」。

子どもたちがつくるおとぎ話はわかるとしても、伯爵の狂気の実験や、子どもの想像力を引き出すのがテーマのシンポジウムの顛末は、何がいいたいのかわからないし、そもそもこれらのエピソードがどう関係しているのかもわからない。

監督は何かいいたいことがあってこの映画をつくったわけでもないだろうが、強いていうなら、3つの絡み合った物語を通じての、それぞれの立場からのユートピアの探求ということだろうか。

 

ただし、本作を見ていて、理解のヒントになったセリフがあった。

それは、古代ギリシアの哲学者、ヘラクレイトスの次の言葉だ。

「人生は遊ぶ子どもだ」

ヘラクレイトスは万物の根源を探求し、「万物は流転する」と結論づけた人物として知られる。彼は途中から政治嫌いとなり、世俗を離れて子どもたちに混じってサイコロ遊びに興じ、最後には人間も嫌いになって山の中にこもり、草や葉を食糧としながら暮らしたという。

しかし、「人生は遊ぶ子どもだ」といった彼は、同一なるものの回帰を説いてニーチェの先達ともいわれるし、「万物は流転する」という考えはヘーゲルなどの源流となって弁証法の始まりを説いた人ともいわれている。

「人生は遊ぶ子どもだ」と聞いて思い出したことがあった。

先日テレビで放送していた映画「パリに見出されたピアニスト」(2018年)でも似たようなセリフがあった。

「天才とは子どもの心を取り戻した大人のことだ」というボードレールの言葉だ。

子どもと同じ遊び心を、大人になっても持ち続けることの大切さを説いているが、本作では、過去・現在・子どもの世界と3つの挿話を往来する中で、時の変化とは戯れ遊ぶ子どもみたいなものなのだとアラン・レネはいいたかったのだろうか。