善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「ブレイブ ワン」「トゥモロー・ワールド」「おじいちゃんはデブゴン」

フランスの赤ワイン「レ・コティーユ・ピノ・ノワール(LES COTILLES PINOT NOIR)2021」

ブルゴーニュで家族経営を貫く生産者ドメーヌ・ルー・ペール・エ・フィスの赤ワイン。

ブルゴーニュとその他地域のピノ・ノワールブレンドした1本だが、ライトボディなので飲みやすく、エレガントな味わい。

 

ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していたアメリカ映画「ブレイブ ワン」。

2007年の作品。

原題「THE BRAVE ONE」

監督ニール・ジョーダン、出演ジョディ・フォスターテレンス・ハワード、ナヴィーン・アンドリュース、メアリー・スティーンバージェンほか。

恋人を暴漢に殺された女性が、いつしかニューヨークの街に巣食う悪者たちを始末する“復讐の天使”へと変身していく姿を描くサスペンス。

 

ニューヨークの人気ラジオ・パーソナリティ、エリカ(ジョディー・フォスター)は、フィアンセと愛犬の散歩中、暴漢に襲われてフィアンセを殺され、彼女自身も命を落としかける。体が回復したのちも暴力への恐怖は消えなかったエリカが手に入れたのが、護身用の拳銃だった。

ある日のこと、偶然入ったコンビニに強盗が押し入り、犯人から銃口を突きつけられた瞬間、エリカはとっさに自分が持っていた拳銃の引き金を引き、犯人を殺す。そのときから、彼女の心の中で何かが変わり、彼女は自分たちを襲った男たちを見つけようと街をさまようようになる。そして、犯罪に出会うと彼女は、自らの手で犯罪者たちを裁いていく・・・。

 

本作を観終わって連想するのがチャールズ・ブロンソン主演の「狼よさらば」(1974年)だった。この映画は、妻子が凶悪事件の被害者となり殺された男が、夜な夜な街の犯罪者たちを拳銃で“処刑”していく物語で、本作のストーリーと酷似している。

狼よさらば」の原題は「DEATH WISH」で、直訳すれば「死を望む」という意味となり、他人の死を望むという意味も、自分の死つまり自殺願望の意味も両方あるというが、妻子の死により自分も死んでしまいたいという思いとともに、無法者たちの死を願う両方の意味が映画には込められていたのではないだろうか。

一方、本作のタイトルの「ブレイブ ワン」はというと、直訳すると「勇気ある人」という意味だそうだ。無法者たちを夜な夜な“処刑”していくヒロインを「勇気ある人」とたたえているのだろうか?

 

本作の主演をつとめ、製作総指揮にも名前をつらねているジョディー・フォスターが日本公開にあたって来日した際のインタビューによると、本作は「狼よさらば」よりもむしろ1976年の「タクシードライバー」のほうが共通するところがあると語っている。

タクシードライバー」は、戦争で心に深い傷を負い、タクシードライバーとして働くベトナム帰還兵トラヴィスロバート・デ・ニーロ)が孤独な人間へと変貌していく物語で、汚れきったニューヨークの街、ひとりの女への叶わぬ想い、そんな日々のフラストレーションが男を過激な行動へと駆り立てていく(ジョディ・フォスターも13歳の娼婦役で出演)。

ジョディ・フォスターによると、どちらも舞台はニューヨークだが、「タクシードライバー」は1970年代初めが舞台で、あの当時、アメリカはベトナムとの戦争に負けたばかりか、その戦争がそもそも間違っていたという事実を突きつけられていた。トラヴィスベトナムで何もできなかった自分にイライラしていて、ニューヨークという街を正しい街にしてやるんだというおかしな野望を抱き、それが狂気の行動につながっていった、と彼女はいう。

一方、「ブレイブ ワン」のニューヨークは21世紀の現代だが、ベトナムとは違うけれど、こちらも9・11とその後の中東戦争ののちの世界であり、エリカは銃を手にして街をさまよい、悪人を撃っていく。

「何よりもこの2つの映画が似ているところはFEAR=恐れ、恐怖を描いているところだ」とジョディ・フォスターは語る。両作品とも、ニューヨークという街を舞台に人々の心に潜む恐怖を表現している、というのだ。

たしかに本作では、エリカは幸せの絶頂だった自分たちが暴漢に襲われたことで大都会に潜んでいた恐怖を自分の肌で知る。フィアンセは死んだものの自分は生き残り、肉体的な傷は癒えても精神が受けたダメージは大きく、これまで親しみ、世界で最も安全と信じていたニューヨークの街並みが全く違って見えるようになった彼女は、護身用の拳銃を手にし、コンビニ強盗に向けて銃を発砲したことで、殺人者となり、もはや戻れない一歩を踏み出してしまうのだった。

 

タイトルにある「BRAVE」は、危険や困難に出会っても恐れないことをも意味しているという。FEAR=恐怖に直面したとき、その解決策を、自分が裁判官と陪審員となって「銃」に求めるとしたら、その恐れることのない行動は、新たな恐怖を生む結果しかもたらさないことを、彼女は知っているのだろうか?

 

ついでにその前に観た映画。

民放のBSで放送していたイギリス・アメリカ合作の映画「トゥモロー・ワールド」。

2006年の作品。

原題「THILDREN OF MEN」

監督アルフォンソ・キュアロン、出演クライヴ・オーウェンジュリアン・ムーアキウェテル・イジョフォーマイケル・ケインほか。

英国のミステリー作家P・D・ジェイムズの近未来小説「人類の子供たち(Children of Men)」(1992年)を映画化。最新CG技術の極致といっていいような映画。

 

急激な出生率の低下の果てに人類は繁殖能力を完全に失い、子どもが生まれなくなってしまった2027年。政府官僚のセオ(クライヴ・オーウェン)は、ある日武装集団に拉致される。アジトに連行された彼は、反政府組織”FISH”のリーダーである元妻のジュリアン(ジュリアン・ムーア)と再会。セオもかつては平和活動の闘士だったが、わが子を失ったことで生きる意味を見失い、希望を捨てた男だった。

ジュリアンはセオに、政府の検問を通過できる通行証を入手するよう依頼する。ジュリアンらが保護している人類の未来を変える存在である少女を極秘裏にヒューーマン・プロジェクトに届けたいのだという。

ヒューマン・プロジェクトとは、世界中の優秀な頭脳が結集して新しい社会をつくるために活動する国境のない組織。セオは、ヒューマン・プロジェクトに少女を無事届けるため、ミサイルと銃弾の嵐の中をかいくぐっていくはめになる・・・。

 

ワンカットの長回しによるドキュメント映像的表現が多用され、信じ難いほどの臨場感。思わず目が釘付けになる。

爆撃シーン、銃撃シーン、どれもホントに見えて、その中を登場人物たちが必死になって逃げ回り、生き抜いていく。

このハンパない迫真の映像を撮影したのはエマニュエル・ルベツキというハリウッドで活躍するメキシコ出身の撮影監督。

本作の監督であるアルフォンソ・キュアロン監督とは10代のころからの知り合いという。

本作はじめ、「ゼロ・グラビティ」(2013年)、「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」(2014年)、「レヴェナント:蘇えりし者」(2015年)などの撮影も担当し、本作はノミネートのみだったが、「ゼロ・グラビティ」「バードマン・・・」「レヴェナント・・」で3年連続のアカデミー撮影賞を受賞している。

 

ルベツキとたびたびタッグを組むキュアロン監督は「長回しにこだわる監督」として有名な人だそうだ。

長回しとは、非常に長い1つのシーンをカットすることなくカメラを回し続けて撮影する映画技法をいう。なぜ、長回しにこだわるかというと、映像を途切れさせることなく連続させることで、その場にいるようなリアル感、臨場感が生まれ、観る者を映画の世界の中に引き込む効果が大きいといわれる。

本作でも長回しのシーンが話題となり、ベネチア国際映画祭で金のオゼッラ賞(技術貢献賞)を受賞している。

しかし、ただ座って語り合ってるのならいざ知らず、激しく動き回るアクションシーンが多い映画では、長回しの映像表現というのはそう簡単にできるものではない。そこでどうしたかというと、実は本作におけるカットなしの長回し表現は、カットなしではなくて途中にカットを入れていて、それでもカットなしの長回しに見える技法で表現されているという。

ルベツキがこの技法を使った有名な作品には「バードマン・・・」がある。全編ワンカットの映画というので話題になったが、実際にはそうとは気づかれずに途切れさせていて、しかし、観るものはまったくわからない。

ワンカットで撮影されたように見せるためには、それぞれ異なったカットであっても、全く同じカメラ位置で、全く同じフレーム内で撮影されたようにしなければいけないが、さらにルベツキら製作スタッフは、「プレーンイット」なるオリジナルツールを開発して映像の完成度をアップさせたという。このツールを用いると、複数のカットをコンピュータ処理によってつなぎ合わせる際、撮影で得られた画像に奥行きを与え、よりリアルな“バーチャル・ワンカット”が実現できるのだそうだ。

このツールを用いたおかげで、クライマックスの長回しの戦闘シーンでは、異なったロケーションで撮影されたいくつものショットが1つにつながっていて、どう見てもワンカットにしか見えない衝撃の映像になっていた。

 

民放のCSで放送していた中国・香港合作の映画「おじいちゃんはデブゴン」。

2015年の作品。

原題「我的特工爺爺」、英題「THE BODYGUARD」

監督・主演サモ・ハン・キンポー、出演ジャクリーン・チェン、アンディ・ラウ、フォン・ジアイー、リー・チンチンほか。

かつて人民解放軍の中央警衛局で要人警護にあたっていた拳法の達人ディン(サモ・ハン・キンポー)は、66歳になった今は現役を退き、ロシア国境近くの故郷の村で静かな隠居生活を送っている。最近では物忘れが激しく、医師からは初期の認知症と診断されていた。

彼には孫娘についての暗い過去があった。かつて一緒に郊外に出かけた際に孫娘を見失ってしまい、それ以来、行方不明になったままとなり、孫娘の母であるディンの娘も彼の元を去り、彼はひとりぼっちだったのだ。

そんなディンが唯一心を許すのが、隣家に住む少女チュンファ(ジャクリーン・チェン)。ところが、ギャンブルで中国マフィアから借金を重ねていたチュンファの父レイ(アンディ・ラウ)は、マフィアのボスであるチョイ(フォン・ジアイー)から借金返済を待つ代わりに、ロシアのマフィアから宝石を奪うという危険な仕事をさせられるが、レイは奪った宝石を持ち逃げしてしまう。

激怒したチョイは娘のチュンファ誘拐を画策するが、その計画をディンが老人とは思えぬカンフーで阻止する。記憶は薄らいでも拳法の腕前は落ちていなかったディンは、マフィアたちを掃討するため立ち上がる・・・。

 

老人(といっても66歳)と少女の交流、それにデブゴンのカンフーアクションが織りなす映画。原題の「我的特工爺爺」とは「私のSPおじいちゃん」といった意味か。老人は少女のボディーガードとなって、実の孫娘のように少女を守る人生を貫くのだった。

ふだんはただの“デブおじさん”だが・・・。

ひとたびやる気になるとカンフーの達人に変身する。

本作の前に見た「トゥモロー・ワールド」が最新CG技術を駆使した映画なら、本作はカットを手作業でつなぎつなぎしてつくったようなローテクのカンフーアクション。

しかし、ローテクだろうがアクションの完成度は高い。

なぜなら、監督・主演は香港映画界のレジェンドといわれたハリウッド名“サモ・ハン”ことサモ・ハン・キンポーで、彼が約20年ぶりにメガホンをとった映画だからだ。

サモ・ハンといえば、有名なのは彼が敬愛するブルース・リーへのオマージュとしてつくった「燃えよデブゴン」(1978年)。

この映画のときからすでに彼はデブというか巨漢で、その体型からは想像もつかないキレのあるアクションが大人気となり、「動けるデブ」の異名で“デブゴン=サモ・ハン”として知られるようになった。

本作は、そんな彼が63歳のときの作品。いくら「動けるデブ」といったって年には勝てない。その上、腹まわりは相当ありそうだし、歩くときも足元がおぼつかない感じ。

そこで彼の老人らしい必殺技は、ハデな動きを伴わなくても相手を痛めつけることができる関節技だ。

デブゴンは特殊部隊出身であり、元は要人警護のプロだったので接近戦に特化した戦術を習得しており、本作で用いたのは中国武術の1つ「擒拿(きんな)」と呼ばれる関節技。これで向かってくる敵を掴んではテコの原理で四肢や頚部の関節を攻撃し、ボッキボキにしてしまう。

その上あの巨体だから、関節ロックされて全体重をかけられればイチコロだ。

中国武術の「擒拿」は日本では古式柔術にあたるらしいが、日本の柔道にも関節技がある。柔道の神様とたたえられた人に三船久蔵十段がいた。身長160㎝足らずの小柄な体ながら“空気投げ”で一瞬にして相手を倒すエピソードは有名だが、関節技も得意だったといわれる。まさしく“小よく大を制す”のワザが関節技なのだろう。

 

映画の途中で挟まれる主人公の家の近くの道端にたむろする3人のおじいさんの他愛ない会話が心和む。とても自然で見事な演技だなーと思って観ていたら、実はこの3人、いずれも香港映画界の重鎮(カール・マック、ディーン・セキ、ツイ・ハーク)で、サモ・ハンの監督復帰を記念してのゲスト出演なのだとか。

ほかにもユン・ワー、ユン・ピョウなどのレジェンド俳優が郵便配達人とか警察署長役などでゲスト出演しているが、この2人は、半世紀も昔、香港の京劇の学校でともに学んでいたジャッキー・チェンサモ・ハンとともに生徒の中から選抜された優秀な子どもたちグループ「七小福」のかつてのメンバー。彼らは成長し、やがて香港のアクション映画を支えるようになっても変わらぬ友情で結ばれているようだ。