善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

日本人にも教訓的な『コリーニ事件』

フェルディナント・フォン・シーラッハ『コリーニ事件』(酒寄進一訳・東京創元社)。

日本人にとっても見すごせない問題を突きつける小説として読んだ。
以下は、出版からもう半年以上たっているし、ネタバレしないと言えないこともあるので、本書の結末にかかわる部分にも立ち入ってしまうのでご容赦を。

淡々と、出来事だけを書き綴る筆致。1つ1つのセンテンスは短く、読みやすい。ただし、描写は細かく、写真を貼った台紙の色までも克明に描く。

自動車組立工としてダイムラー車で34年間働いてきた67歳のイタリア人コリーニは、ベルリンの高級ホテルの一室で85歳になる大金持ち、ハンス・マイヤーを射殺し、犯行後、ホテルのフロントに警察を呼ぶよう頼む。
しかし、逮捕されても弁護士を呼ぶこともしない。そこで国選弁護人を買って出たのが、新米弁護士ライネンだ。
コリーニはなかなか動機を話さない。さらにライネンは、被害者が少年時代の親友の祖父だと知る。
公職と私情の狭間で苦悩するライネン。
ところが、驚愕の事実が明らかとなる。

第2次世界大戦末期、まだ子どもだったコリーニは、パルチザンに走った父や、姉をナチスドイツの親衛隊によって惨殺される。
パルチザン惨殺の命令を下した親衛隊大隊の隊長がハンス・マイヤーだった。

ナチスの犯罪行為は戦後、ヨーロッパ中で厳しく追及されたが、なぜかマイヤーに対する捜査は途中で打ち切られ、彼は自由の身になり、やがて事業で大成功を収め大金持ちとなる。
捜査中止は1969年のこと。何があったか。理由は「時効」だった。

大学紛争でドイツ国内が混乱を極めていた1968年、ある法律が人目を引かないまま発布された。
秩序違反法という法律に関する施行法だ。この法律はまったく重要ではないと思われ、連邦議会はほとんど議論されないまま、成立してしまったという。
この法律によって、謀殺犯はナチの最高指導部の人間だけに絞られ、ほかのものたちは全員、謀殺の幇助者として扱われることになり、幇助者に対する時効期間は短くなって、犯行から15年で時効を迎えることになってしまった。
幇助者とされた者は、突如として無罪放免になってしまったのだ。

そこで失望したコリーニは、法律で裁けないなら自らが裁こうと、マイヤーの射殺に至ってしまったのだ。

コリーニがマイヤーを殺害したくだりはフィクションだが、法律が戦争犯罪人に有利なように変えられて、“法律の落とし穴”がつくられたというのは事実だという。

法律改正の仕掛け人はエドゥアルト・ドレーアーという人物で、1937年にナチ党に入党、38年から45年の終戦までナチ体制下で検事として辣腕を振るった。
戦後は爪弾きにされたかというとそんなことはなく、51年に西ドイツ法務省に入り、ドイツ刑法の改正に大きな影響を与えたといわれ、68年10月に発布された秩序違反法に関する施行法の草案づくりは彼の現役最後の仕事だったという。

本書の出版後、ようやく「あの法律はおかしい」となり、再検討の動きが起こっているという。

ナチス戦争犯罪はあれだけ世界中で非難を浴びても、その亡霊は生きている、どころか、政治の中枢で生き延びていて、さまざまな“復活”の網を張りめぐらしていた。

ひるがえって日本はどうか。戦前の軍国主義の亡霊、どころか正面きって軍国主義を賛美・正当化する動きが、息を吹き返してはいないか。