善福寺公園めぐり

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プーシキン サルタン王ものがたり

プーシキン作『サルタン王ものがたり』
子どもに読み聞かせる物語だが、大人が読んでもおもしろい。

プーシキンはロシア近代文学の父、あるいはロシアの国民詩人といわれる人。死後、グリンカの『ルスランとリュドミラ』、チャイコフスキーの『エヴゲニー・オネーギン』、ムソルグスキーの『ボリス・ゴドゥノフ』など、多くの作品がオペラ化されている。
リムスキー=コルサコフはオペラ『サルタン王ものがたり』を作曲しているが、第3幕で流れる「熊蜂の飛行」が有名。

プーシキンが生きた時代、ロシアは専制政治のもとで、文学は国民大衆とは無縁な存在で、一部の貴族だけのものだった。文学を国民のものにしようと取り組んだのがプーシキンで、題材を広く農民の生活や民話にまで広げ、やさしい口語体の国民文学を打ち立てた。

『サルタン王ものがたり』は民話から素材を得たプーシキンの代表作の1つ。ほかにも『漁師と肴のものがたり』『司祭とその下男バルダーのものがたり』『死んだ王女と七人の勇士のものがたり』『金のにわとりのものがたり』などがある。

プーシキンは民話を単に昔話として描いたのではなく、芸術のかおり高い文学にまで高めた。民話は庶民の生活の中で語り継がれてきたもの。それを芸術に昇華することで、庶民の心の豊かさをより生き生きと表現したといえよう。
しかも『サルタン王ものがたり』にしてもそうだが、言葉のリズムが美しく、読んでいくとまるで音楽のように響いてくる。

プーシキンの民話物語を読んだゴーリキーは次のようにいっている。
プーシキンの民話物語をいくたびか読んで、もうすっかり暗記していた。ベッドの上に身を横たえて、眠りに入るまで、目を閉じたまま、それを口ずさんでいたものだった」

『サルタン王ものがたり』は1831年プーシキン32歳のときの作品。
日本の幕末ごろのことで、日本で言文一致の動きが起こり、初めて口語体の長編小説を書いたのは二葉亭四迷で1887年の『浮雲』が知られる(ちなみに、二葉亭四迷が参考にしたのは落語家の初代三遊亭圓朝の落語口演筆記だという。だから近代日本語の祖は落語家なのである)。

『サルタン王ものがたり』は日本でも童話や絵本として翻訳・出版されている。
その1つ、『斎藤公子の保育絵本 サルタン王ものがたり』は保育園児の子どもたちのための絵本。
斎藤公子さんといえば保育の実践家として有名な方(09年に死去)だが、彼女が恋してやまなかった作家がプーシキンだったという。

彼女は『サルタン王ものがたり』を繰り返し子どもたちに読み聞かせた。
すると「子どもたちは、悲しみ、怒り、喜び、笑い、いつかしプーシキンの意のままに心を動かし、しんからみにくい心をにくみ、美しいものにあこがれ、ほまれ高い勇士グビドン公とそのまことに美しい白鳥の王女のしあわせをわがことのように喜ぶのである」と本の末尾で述べている。

たしかに美しい内容の本だ。こういう本を読み聞かせられれば、子どもたちの想像力・創造力は無限に広がっていって、きっとその子はすくすくのびのびと成長していくに違いないと思った。

どんな話かというと、サルタン王は自らの妃として、3人姉妹の中から一番末の娘を選ぶ。するとおさまらないのは姉2人で、王にデタラメな話を吹き込んで信じ込ませ、妃と生まれたばかりの王子を樽に押し込み、海に流してしまう。
妃と王子は陸に打ち上げられ九死に一生を得て、途中、トビに襲われた白鳥を助け、見知らぬ島にたどりつく。王子はそこで人びとの歓迎を受け、お城に迎え入れられて領主となり、グビドン公を名乗るようになる。

その国の繁栄ぶりを目にした貿易商人たちが国に帰ってサルタン王に話すと、「その不思議な島に行きたい」と王はいう。自分たちのウソが発覚するのを恐れた2人の姉と、ババリーハばあさんは、何とか行かせまいと妨害するが、ついにサルタン王は島を訪れ、妃と成長した王子と再会する。
白鳥は実は美しい王女で、2人は結ばれて、めでたしめでたしというお話。

貿易商人が見た不思議な国の話だけ、ちょぴっと紹介しよう。
目をつぶってその話を聞いていると、めくるめく不思議の国の世界に入り込んでいくようだ。

お客(貿易商人)が こたえます。
「わたしどもは 世界じゅうを まわってきました。
海のむこうの くらしは わるくはありません。
あちらでは こんな ふしぎなことが ありました。
海に だれもすんでいない 島が ありました。
その島に 町ができて、
金色の まるい やねの 教会や
物見の塔 庭が ならんでいるのです。
そして 宮殿のまえには もみの木が一本 はえていて、
そのしたに 水晶の家が あります。
そこには りすが一ぴき かわれているのですが、
これが また ふしぎな りすなのです。
りすは うたをうたい、
いつも くるみを かじっています。
でも それは ふつうの くるみではありません。
からは 金で
なかの実は まぎれもない エメラルドなのです。
りすは とても たいせつに かわれています。
そこでは さらに ふしぎなことが あるのです。
海が 荒れて 大きくうねり、
ごうごうと うなり声をあげて 波がさかまき、
ひとのない岸に うちあげて、
どっと くだけちります。
すると とつぜん 岸べに 三十三の勇士が あらわれます。
金色に きらきら ひかる うろこのよろいを 身につけて、
みんな うつくしくて たくましく、
大きな 若者たちで
えらびぬかれたように そろっているのです。
チェルナモールじいさんも いっしょです。
そして この勇士ほど ゆうかんで まじめで
しんらいのできる みはりは いません。
ところで グビドン公の おきさきは あまりのうつくしさに
うっとりみとれて 目もはなせないほどです。
おさげ髪のしたで 月が かがやき、
ひたいには 星が きらめいて、
昼まは お日さまのひかりを かげらすほど、
夜は 大地を あかるくてらすほどなのです。
その町を おさめているのが グビドン公で
だれもが こころからほめたたえています。
そのグビドン公から あなたさまに
くれぐれも よろしくとの ことですが、
「わたしの国に お客にくると やくそくされたのに
いまだに おいでいただけない」
と ざんねんがっていました。

その話を聞いて、とうとう我慢できなくなったサルタン王は「すぐに出発するぞ」と足を踏みならし、船団を仕立ててグビドン公に会いにいくのだった。

読んでる私も行きたくなった。