善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

カワセミがお出迎え

水曜日朝の善福寺公園は快晴。きのうと違って天気はいいが、この秋一番の寒さを感じる。

 

公園に着くなり、カワセミの声がお出迎え。

上池のほとりに立つと、遠くにとまっていたオスのカワセミが近くまでやってきてくれた。

文二くんかな?

 

下池に向かうと、小四郎か六兵衛か。

 

橋の欄干の下には、おととい大物のエサをゲットして気をよくしたのか。

けさもサクラらしいメスのカワセミ

 

アオサギが一点をみつめてジッと動かないでいる。

 

けさはいつもワカバグモがいるあたりに幼体がたくさんいた。

同じ卵からいっせいに孵化して、その後、散っていったのか、葉っぱの上にいたのを数えたら全部で8匹はいた。

葉っぱに隠れたので裏側まで追いかけると、8つのオメメがパッチリ。

こちらは前脚をめいっぱい広げて、なかなか堂々としている。

 

雨に濡れた壁に張りつくようにしているガ。

鼻にあたる下唇鬚(かしんしゅ)も触角も脚も、やけに長い。

多少濡れても平気なんだろうか。

團十郎襲名披露 十一月吉例顔見世大歌舞伎

東京・東銀座の歌舞伎座で、十三代目市川團十郎白猿襲名披露の「十一月吉例顔見世大歌舞伎」の夜の部。八代目市川新之助の初舞台でもある。

10月31日、11月1日の特別公演に続き、いよいよ團十郎の本格的なお披露目公演がスタートした。地方巡業を含めれば襲名披露興行はしばらく続くだろう。

 

客席に入ると、まず迎えてくれたのが團十郎家の定紋「三升(みます)」が柿色で描かれたいかにも成田屋らしい幕。

続いての祝幕は、世界的に活躍するアーティストの村上隆氏の作。

高さ7・1m、幅31・88mもの横長の巨大な幕に、歌舞伎十八番すべての演目が色鮮やかに描かれている。

夜の部は、歌舞伎十八番の内「矢の根(やのね)」、襲名披露口上のをあと歌舞伎十八番の内「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」。

 

鎌倉時代の曽我十郎、五郎兄弟による敵討ちは「曽我物語」で江戸の人々によく知られていたが、歌舞伎にも“曽我物”と呼ばれる作品群があり、昼の部の「外郎売」に続いて「矢の根」「助六」ともに“曽我物”。

なぜ“曽我物”かといえば、曽我兄弟は鎌倉時代からの“国民的ヒーロー”であり、その人気にあやかって曽我兄弟を歌舞伎に取り入れたのが初代の市川團十郎だった。兄弟の仇討ちを「あっぱれ」と寿ぐというので昔から正月の歌舞伎の風物詩となっていた。

めでたい演目ゆえに、今回の團十郎襲名披露公演でも取り上げたのだろう。

 

「矢の根」は弟の五郎を主人公とした作品で、二代目團十郎が1729年(享保14年)に初めて演じて以来、生涯に4回もつとめた得意な役という。

本日は、曽我五郎に幸四郎、兄の十郎に巳之助。

 

襲名披露口上では、新團十郎が「にらみ」のサービス。

続く「助六由縁江戸桜」は、江戸一番の伊達男、花川戸助六が実は曽我五郎であった、という物語。

出演は、花川戸助六團十郎、三浦屋揚巻・菊之助、髭の意休・松緑、三浦屋白玉・梅枝、朝顔仙平・又五郎、福山かつぎ・新之助、通人里暁・鴈治郎、三浦屋女房・東蔵、曽我満江・魁春、白酒売新兵衛・梅玉、くわんぺら(かんぺら)門兵衛・仁左衛門ほか。

 

助六」は、絢爛豪華に繰り広げられる江戸歌舞伎の華といえる作品。

1713(正徳3)年、二代目の團十郎が初演。「荒事」で知られた團十郎が、荒事だけでなく和事風の男伊達を演じたというので評判になり、その後、改良されて四代目團十郎の時代の1761年(宝暦11)に現行のような「助六由縁江戸桜」となり今に継承されているという。

 

助六が舞台へさっそうとやってくる花道の「出端」のところで、舞台正面の御簾内で語られるのが河東節(かとうぶし)。

河東節は成田屋、つまり團十郎が演じる「助六」に限ってのことで、出演は「河東節十寸見会御連中」。

十寸見は「ますみ」と読む。文楽や歌舞伎の浄瑠璃はもともと上方発祥だが、1717年、それまでのいろいろな浄瑠璃から独自の芸風を取り入れて十寸見河東(ますみかとう)という人が始めた江戸生まれ江戸育ちの三味線音楽。

助六」は始めは上方の心中物語だったものを二代目團十郎が曽我物狂言と混ぜ合わせ、新しいヒーローとして助六を登場させたもの。四代目團十郎が1761年に舞台にかけたころから河東節が語られるようになったというから、260年もの歴史がある。

しかも、260年前のその当時から、演奏者はプロではなく贔屓の旦那衆や愛好家。今では邦楽の心得のある女性も加わって(というより出演者の名前をみるとみなさん女性だった)、日替わりで演奏しているという。お客さんが語ってくれるというので「御連中」というわけだ。

 

團十郎助六もいいが、仁左衛門ファンとしてはやっぱ仁左衛門のかんぺら門兵衛に注目。

助六の敵役で登場する鬚の意休の子分として出てくるのが、かんぺら門兵衛。助六にやっつけられる三枚目で情けない役。何で仁左衛門ほどの名優がこんな役をとも思うが、新團十郎の父親、十二代目團十郎の襲名披露公演(1985年4月)のときも夜の部は「助六」で、かんぺら門兵衛を昭和の名優で文化勲章受賞者の二代目尾上松緑が演じている。仁左衛門にとっては、肩の力を抜いて演じられる意外と“おいしい役”なのかもしれない。

それにしても、いったい、かんぺら門兵衛って何者?

鬚の意休は助六の馴染みの傾城・揚巻に横恋慕する武士で、助六(実は曽我五郎)が探す宝刀・友切丸を所持していたため最後は助六に切られてしまう。

その前に、湯上りの浴衣姿で頭に濡れ手拭を置いたかんぺら門兵衛遣り手(やりて)の女の首筋をとらえて出てくる。風呂に入って女郎(じょろう)たちに背を流させようとしたが、だれもこないので湯にのぼせたと怒っていて、新之助演じるうどん屋の福山かつぎと一悶着起こすが、そこで自分の名前の由来を説く長口上をぶつ。

「耳の穴をかっぽじって、よく聞けよ。これにござるが俺が親分、通俗三国志(つうぞくさんごくし)の利者(きけもの)、関羽(かんう)、字(あざな)は雲長(うんちょう)、髭(ひげ)から思いついて、髭の意休殿。その烏帽子子(えぼしご)に、関羽の関をとって、かんぺら門兵衛、ぜぜ(銭)持ち様だぞ」

中世の武家社会では男子が成人に達して元服を行う際に仮親を立て、当人の頭に烏帽子を被せてもらうのが通例とされていた。この仮親を烏帽子親と呼び、成人者を烏帽子子(えぼしご)と呼んだ。

意休はたしかに関羽髭と呼ばれるような長い鬚を生やしている。その関羽から「関」の字をもらって「かんぺら門兵衛」というわけだが、彼がまくしたてる長口上を江戸時代の観客はナルホドと聞いたのだろう。

はるか昔の江戸の人たちは間違いなく「三国志」を読んでいた、あるいは講釈かなんかで聞いて知っていたに違いない。

 

かんぺら門兵衛が助六からうどんを頭にかけられ、「ぎゃ~斬られたァ」と騒ぎ立てる場面があるが、このギャグはすでに1749年、二代目團十郎の3度目の助六のころからあったという。

270年前から続くギャグ芸を、仁左衛門はしっかりと伝えている。

 

しかも助六がかんぺら門兵衛にうどんをかけるとき、胡椒をたっぷり振りかけている。江戸時代は胡椒をかけてうどんを食べていたようで、近松門左衛門作の人形浄瑠璃「大経師昔暦」の中でも「本妻の悋気(りんき)と饂飩に胡椒はお定り」とあるように、うどんには胡椒がつきものだった。ただしこれは江戸前期までで、後期になると廃れたようで、大田南畝は「近頃まで市の温飩に胡椒の粉をつゝみておこせしが、今はなし」と書いている。

助六」が初演されたのは江戸時代前期のおわりのころ。食の歴史もわかる「助六」だった。

伊福部昭とショスタコーヴィチに酔う

東京・渋谷のNHKホールでNHK交響楽団の第1968回定期公演Aプログラム。

曲目は伊福部昭シンフォニア・タプカーラ」、ショスタコーヴィチ交響曲第10番ホ短調作品93」。指揮は井上道義

伊福部昭は映画「ゴジラ」ほか映画音楽でも活躍したが、日本の民族性を追求したような管弦楽作品を多く残している。

シンフォニア・タプカーラ」は、どこか懐かしい土俗的な香りがして、踊り出したくなるような曲。実際、指揮の井上道義は途中、踊りながら指揮していた。

「タプカーラ」とはアイヌ語で「立って踊る」という意味だそうで、北海道で生まれ育ち、少年期に交流したアイヌへの共感とノスタルジーが作曲の動機であると伊福部は語っていたそうだ。

気象庁が出す緊急地震速報のチャイムは、この曲の第3楽章の冒頭部分の和音をもとにつくられているのだとか。

 

ショスタコーヴィチの「交響曲第10番」は、ティンパニーの響きが今も耳に残る迫力満点でドラマチックな「第5番」を彷彿させる、いかにもショスタコーヴィチらしい曲。

ボンヤリすごしている自分を叱咤し、励ましてくれるようなショスコーヴィチの曲に、なぜか強くひかれる。

ブラームスのような夢見心地のような交響曲でも、ベートーヴェンのような華々しい交響曲でもなく、運命に立ち向かい、壁をぶち破って突き進んでいくような気分にさせてくれるのがショスタコーヴィチ交響曲で、“人生を励ましてくれる曲”だった。

 

カーテンコールでは拍手が鳴りやまなかった。

お客さんはみなさんN響の熱烈ファンらしく、舞台から楽団員の最後の一人が姿を消すまで、盛大な拍手を送っていた。

 

帰りはJR荻窪駅で降りて、1年ぶりぐらいの居酒屋「おざ」でイッパイ。

まずはサッポロラガービール(赤星)。手前は先付けのカブと落花生。

ビールのあと日本酒で、栃木の「仙禽」、滋賀の「七本槍」、秋田の「雪の茅舎」は温燗。

 

シラスのミョウガ和え。

 

おひたし(ブロッコリー、エノキ茸、キャベツ、柿など)。

 

刺し身盛り合わせ。

カツオ2種、シメサバ、黒ムツ、アジ、炙り秋カマスアオリイカ、生ウニ。

 

生の本シシャモの天ぷら。

 

ヤマイモと納豆の磯辺揚げ。

ゴキゲンで帰宅。

“落ち葉の海”のカルガモ

月曜日朝の善福寺公園は曇り。風が強いが、それほど冷たくはない。

 

きのうは一日中強い風が吹いていたが、おかげでギンナンがたくさん落ちていた。

 

上池では3羽のコサギが仲良く羽繕いしていた。

 

下池にまわると、ちょうどどこからかアオサギがやってきたところ。

ねぐらからやってきたのか、羽をいっぱいに広げて舞い降りようとしていた。

 

下池の水が善福寺川に落ちるあたりでは、カワセミが小魚をゲットしたところに遭遇。

メスのようだが、先日見たメスは脚が黒っぽかったが、赤い脚をしているのでサクラだろうか。

なかなか大きめの魚で、何とか飲み込めた。

 

散歩を続けようと池をめぐっていると、さきほどのサクラらしいメスのカワセミが飛んできてとまった。

大物をゲットしたので満足したのか、何度も水浴びしていた。

 

カルガモの家族だろうか、仲良く“落ち葉の海”を移動中。

秋も深まり、みるみる紅葉が進んでいて、サクサクと落ち葉を踏みながらの散歩だった。

佐賀・武雄温泉→吉野ヶ里遺跡の旅

仕事で福岡へ。

ANA便で福岡空港着はお昼前。

地下鉄・博多駅で降りて、駅構内で博多名物という因幡(いなば)うどん。

 

仕事のあと、せっかく九州に来たのだからと1泊することにして、佐賀の武雄温泉に行く。

今年の9月23日、博多と長崎を結ぶ西九州新幹線が開業したはずだが、博多から途中の武雄温泉までは「リレーかもめ」という在来線の列車で運行し、同じホームの反対側で待っている「かもめ」に乗り換えると、そこからが新幹線となっている。

白いカモメとはまるでイメージの違う、鉄かぶとみたいな黒い車体の「リレーかもめ」。

武雄温泉駅で下車すると、同じホームに新幹線の「かもめ」が待っているものの、外観をながめるだけでサヨーナラ。

 

泊まったのは「ホテル春慶屋」。

明治初めの創業で、昭和天皇が泊まったこともある歴史のあるホテル。

武雄温泉で唯一、100%かけ流しの展望露天風呂が自慢という。

湯加減もちょうどよくて、いつまでも入っていたいほどのいいお風呂だった。

夜は部屋食メニュー。

朝食もおいしくいただく。

スタッフのみなさんは終始笑顔で親切。とてもくつろげるホテルだった。

 

朝、チェックアウトのあと訪れたのは、ホテルの隣にあった武雄温泉のシンボル「楼門」。

1915年(大正4年)に東京駅や日本銀行本店を設計したことで知られる佐賀県唐津出身の建築家、辰野金吾の設計で、国の重要文化財に指定されている。

竜宮城を連想するような鮮やかな色彩と形で天平式楼門と呼ばれ、釘を一本も使っていない独創的な建物だとか。

楼門奥にある武雄温泉新館(現在は資料館)も辰野の設計。

 

マンホールの蓋のデザインも楼門。

 

続いて行ったのは「御船山楽園」。

御船(みふね)山の麓に広がる庭園。佐賀藩自治領である武雄領第二十八代領主・鍋島茂義(しげよし)の別荘として造営されたという。

整った感じの庭園と違って、山麓を切り開いてつくっただけに自然が残っている。

紅葉真っ盛りには少し早いが、そこそこモミジが色づいていた。

 

御船山楽園から武雄温泉駅に向かう途中にあるのは、やはり御船山の山麓にある武雄神社。

境内のはずれにあった「武雄の大楠」。

推定樹齢3000年といわれるご神木。

 

武雄市図書館、武雄市こども図書館を経由して、武雄温泉駅から吉野ヶ里遺跡をめざす。JR佐世保線佐賀駅から長崎本線に乗り換え、吉野ヶ里公園駅下車。

吉野ヶ里遺跡佐賀県神埼郡吉野ヶ里町神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある遺跡。およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落跡で知られている。

1986年(昭和61年)からの発掘調査により発見され、中国の歴史書魏志倭人伝」に記された邪馬台国を思わせるような濠や竪穴式住居などが見つかったというので一躍有名になった。

現在は吉野ヶ里歴史公園として整備されていて、その中に98棟の弥生時代の建物が復元され、往時の暮らしが再現されている。

国の特別史跡に指定されていて、まわりを二重の環濠で防御され、物見櫓もあるというので日本の城郭のはじまりと考えられていて、日本100名城にも選ばれている。

 

かわいいイノシシがお出迎え。

何しろ今から2300~1700年前という弥生時代の遺跡であり、遺構として残っているのはほとんどが柱の穴の跡とか濠の跡とかいったもので、建物はその穴の大きさとか深さ、位置関係などから、かなり推定と想像が働いて再現されている。

しかし、それでも確かなことがある。

二重の濠で囲まれた「北内郭」と呼ばれる場所は、吉野ヶ里の「クニ(国)」の祭祀の中心であり、さまざまな儀礼がここで行なわれたと考えられていて、その根拠となるのは、祭祀を行う場所が冬至の日の出、日の入りを結ぶ線上に位置していることだ。

当時の人々にとって、何より恐ろしかったのは夜の闇ではなかったか。照明などない時代、夜は魔界の時間だった。なるべくたくさんの昼の時間を欲した人々は、1年のうち一番昼の時間が短いのは冬至の日であり、その日を境に昼の時間が長くなるのを知っていた。だから冬至の日は彼らにとって特別の日であり、その日が早くくることを願い、到来を祝うのだった。

また、早く春がきて作物が育ち実ることを待ち望む気持ちも強かっただろう。

今も世界の各地で冬至の日を祝う儀式やイベントが残っているし、キリスト教のイエスの誕生日も、もともとは冬至の日を祝う祝祭日だった。

吉野ヶ里のクニの人々が信仰したのも、太陽だった。

歴代首長(指導者)を埋葬したと考えられる巨大な墳丘墓のそばに立つ柱。

まさしく諏訪大社御柱と同じ、太陽信仰のしるしとしての柱に違いない。

 

墳丘墓内のお墓の遺構。

 

弥生時代は大型の素焼きの土器(甕棺)に亡くなった人の手足を折り曲げて入れ、土の中に埋める埋葬方法がとられていて、弥生時代中ごろのおよそ200年の間、盛んに使われていたという。

 

遺跡の発掘調査は現在も行われている。

公園内では赤いそばの花が一面に広がっていた。

日本で咲くそばの花といえば白い花だが、そばの原産地は中国南部やチベットブータンあたり。赤米同様、そばももともとは赤いそばだったのか。

吉野ヶ里遺跡のもうひとつの最寄り駅、神埼駅前の卑弥呼像。

 

今回の旅の途中で出会った生き物たち。

ヤマガラが木の実をくわえていた。

 

以下は吉野ヶ里公園にて。

地面の陰の暗いところにいたのはコオロギみたいな虫。

大きさからしてエンマコオロギだろうか。

頭の触角も長いが、お尻から出ている2本の触角も長い。

 

トノサマバッタ、それともクルマバッタか。

 

小さく丸っこいカメムシマルカメムシ。腹部全体は発達した小楯板で全てを覆われている。

アップで見ると銅板を打ったような無数の点刻が印象的。

カマキリが地面を歩いていて、こちらをジロリ。

 

佐賀駅前のお店で買ったマグカップ

有田焼といえば白磁の美しさだが、400年の伝統を誇る有田焼の磁器を現代生活にフィットするものにしようと、「2016/」と題して立ち上げられた新ブランドという。

国内外から選ばれた有名デザイナーたちが器づくりに参加し、購入したのは藤城成貴氏デザインのマグカップ

釉薬がけの上にエアブラシで吹き付けるという工程を経ているため、やさしいマットな質感に仕上がっている。

軽くてスタイリッシュで、とても有田焼とは思えない、いや新有田焼といえようか。

 

帰りの佐賀空港のレストランで食べた佐賀チャンポン&ビール。

一路、羽田へ。

ヒドリガモのペアかな

日曜日朝の善福寺公園は晴れ。風は弱く、しかし空気は冷たい。

 

上池にいたのは、ヒドリガモのペアだろうか。

緋色をしているのでヒドリガモ。近くにもう1羽のメスがいた。

 

下池では、おとといと同じ木の枝にカワセミのオス。

六兵衛だろうか。お気に入りの場所みたい。

 

水中でエサを探していたカイツブリが水面にあらわれたところ。

 

善福寺川の源流地点の橋の下では、サクラらしいメスのカワセミが、休んでいるのか、エサをねらっているのか。

 

赤い実。何の実だろう?

 

多少暖かくなってきたので、バッタが這い出してきた。

 

今シーズン初のオオバン

土曜日朝の善福寺公園は晴れ。風もなく穏やか。

 

上池を半周して下池にまわると、今シーズン初のオオバンの姿。

善福寺池にやってきたばかりで興味津々なのか、キョロキョロしながら泳いでいた。

 

おなかがパンパンに膨らんだジョロウグモのメス。

産卵が近いのかな。

 

けさもアオサギが抜き足差し足、そろりそろりと移動中。

エサを探しているのか、それとも水の中ではこれがふつうの歩き方なのか。

 

シロバナアブラギクが咲いていた。

群生しやすい花なのか、一面お花畑になっていた。

 

二つ星のテントウムシ

 

上池に戻ると、池のほとりで休んでいたのはアブだろうか。

体に比べて複眼の大きいこと。