善福寺公園めぐり

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きのうのワイン+映画「地上(ここ)より永遠(とわ)に」「ジャッジ 裁かれる判事」

イタリア・プーリアの赤ワイン「ネプリカ・プリミティーヴォ(NEPRICA PRIMITIVO)2023」

ワイナリーは、600年以上の歴史を持つ老舗のアンティノリがイタリア南部プーリアで立ち上げたトルマレスカ

プーリアの土着品質プリミティーヴォ100%。

適度に渋みがあり飲みやすいワイン。

 

ワインの友で観たのは、NHKBSで放送していたアメリカ映画「地上(ここ)より永遠(とわ)に」。

1953年のモノクロ作品。

原題「FROM HERE TO ETERNITY」

監督フレッド・ジンネマン、出演バート・ランカスターモンゴメリー・クリフトフランク・シナトラ、デボラ・カー、ドナ・リードほか。

軍隊に生きる男たちの愛と苦悩、軍隊組織の腐敗を描いてアカデミー作品賞はじめ8部門受賞の不朽の名作。

 

日本軍による真珠湾奇襲攻撃直前の1941年、ハワイ・オアフ島の陸軍兵営に配属されたプルーイット(モンゴメリー・クリフト)は、中隊長の命令を拒否したというので非人間的なイジメを受けながらも、自分の意志を貫き通す。そんな彼の唯一の心の拠りどころは、クラブの女ロリーン(ドナ・リード)だった。

一方、虐待を受けるプルーイットを陰で支えてきたウォーデン曹長バート・ランカスター)もまた、中隊長の妻カレン(デボラ・カー)と許されざる仲となり、軍隊の現実と己れの感情との間で揺れていた・・・。

 

第26回アカデミー賞で「ローマの休日」「シェーン」などを抑えて作品賞、監督賞を受賞。ほかに助演男優賞助演女優賞、脚色賞、録音賞、撮影賞、編集賞を受賞。

1951年に出版され360万部売り上げのベストセラーとなったジェームズ・ジョーンズの同名小説を映画化。

小説も映画もタイトルは「FROM HERE TO ETERNITY」で、邦題も「地上(ここ)より永遠(とわ)に」と同じような意味。

しかし、大仰なタイトルの割には、ヒーローが活躍する映画でもないし、ハッピーエンドでもない。

何より問題は主演のバート・ランカスターが演じる曹長のウォーデンだろう。

本作の主人公の役どころだが、中隊の実務を取り仕切る一級曹長の地位にある彼は、軍隊の裏も表も知り尽くした一番番頭みたいな感じで中隊長を支えている。人格者である彼は横暴な中隊長の行為をいまいましく思っていてはいるものの、態度には出さない。これ以上の出世は望まず、今の地位のままで軍隊生活を終えるつもりでいる。

そんな彼のエネルギーのはけ口は何だったのかというと、背徳行為、つまり中隊長の妻にこっそり言い寄ることだった。中隊長と妻のカレンは、流産して子どもを産めない体になって以来、冷えきった関係になっていて、ウォーデンの誘惑に夢中になってしまう。

最初は火遊びだったものの、やがて2人は深く愛し合うようになり、カレンは夫との離婚を考えるようになる。ところが、結婚するなら下士官ではなく将校になってほしい、とカレンがいうと、ウォーレンは将校になると面倒な仕事が増えるからその気はない、とつっぱねる。つまり、彼は、頼もしそうに見えて、実は一歩踏み出す勇気のない男だったのだ。

 

準主役のプルーイット(略称プルー)はどうか。

モンゴメリー・クリフト演じるプルーは、元軍楽隊のラッパの名手で、ボクシングの実績も優秀というヒーローの条件を備えた人物。しかし、上官に反抗したことで下士官から格下げされて転属してきた。

中隊にはボクシング部があり、次の大会で優勝すれば自分の昇進につながるというので、中隊長はプルーにボクシングをさせようとする。しかし、彼にはかつて練習中に親友を失明させた過去があり、そのトラウマから命令を拒否するが、以後、プルーは上官からいわれのない虐待を受けるようになる。

それでも耐えてがんばるプルー。そんな彼に味方したのは、プルーと何かと気の合う同僚のマジオ(フランク・シトラ)だった。ところがマジオは、バーで営倉主任の軍曹(アーネスト・ボーグナイン)とケンカの果てに営倉送りとなり、待ち構えていた営倉主任の軍曹から殴る蹴るの暴行を受けて死んでしまう。

復讐を誓ったプルーは休暇の日の夜、飲み屋街の裏手に営倉主任の軍曹を誘い出し、格闘の末ナイフで刺し殺す。自分も腹部に深手を追ったプルーは、そのまま隊には帰らず恋人の家に逃げ込むが、朝、起きると突如外が騒がしくなり、日本軍の奇襲攻撃を知る。

プルーは、恋人の止めるのを振り切って、隊に帰ろうとするが、日本軍が陸上部隊を上陸させるかもしれないと警戒していた味方に誤って銃殺される。

 

「夫と離婚して結婚するためには将校になってほしい」という願いに応えず、今のままの下士官でいたほうが気楽とヤル気を起こさないバート・ランカスターに、殺された友人の復讐は果たしたものの、恋人の制止を振り切って軍隊に戻ろうとして射殺されたモンゴメリー・クリフト

映画の最後では、バート・ランカスターの恋人のデボラ・カーは、結局、夫とともに本国行きの船に乗ってハワイを離れていく。

離岸する船のデッキで、死んでしまったモンゴメリー・クリフトの恋人ドナ・リードとたまたま一緒になり、首にかけたレイを海に投げ入れる。投げたレイが岸に流れ着けば、またこの島に戻れるといういい伝えがあるが、レイはただ波間を漂うだけ。

波間に漂うレイが映されて、つまりは願いは永遠(とわ)にかなわないことを暗示して、映画は終わる。

それなのになぜ「地上(ここ)より永遠(とわ)に」というタイトルなのか。

 

本作のタイトル「地上より永遠に」は、イギリスの小説家で詩人のラドヤード・キップリング(1865年~1936年)の詩「Gentlemen Rankers」から採られている。

キップリングは41歳の史上最年少、イギリス人としては最初にノーベル文学賞を受賞。代表作に「ジャングル・ブック」「少年キム」などがある。

「Gentlemen Rankers」とは「紳士の一兵卒」といった意味か。本来なら士官となって軍隊を指揮すべき上流階級の出身者があえて一兵卒となって従軍することをいう。

イギリスにはそういう伝統みたいなものがあるらしく、「紳士の一兵卒」で有名なのは「アラビアのロレンス」として活躍したT・E・ロレンスだ。彼は第一次世界大戦後、大佐の階級でイギリス軍を退役したが、34歳のとき、偽名を用いて空軍に二等兵として入隊。しかし、正体がばれて翌年に除隊させられると、今度は別の偽名を使って陸軍戦車隊にやはり一兵卒として入隊している。

特権階級の身分を笠に着て傲慢に振る舞うなんていやだとばかり、むしろ名声に嫌気が差して、泥にまみれた人生を送りたかったのだろうか。

 

本作のタイトル「地上より永遠に」は、その「Gentlemen Rankers」からの引用なのだが、正確にはその下りは「From Here to Eternity」ではなく、「Damned from Here to Eternity」となっていて、意味は「地上(ここ)より永遠(とわ)に呪われる」となる。

キップリングはこの詩の中で、こう繰り返すのだ。

 

ボクたちは道に迷ったかわいそうな子羊だ

ボクたちは道に迷った小さな黒い羊だ

酒宴に繰り出す紳士階級の男たち

この世から永遠に呪われる

神よボクたちのような者にどうか慈悲を

 

つまり、「Gentlemen Rankers」でキップリングがいいたかったのは、「紳士の一兵卒」とは自分たちの身分に不確かさや違和感を抱き、この世をさまよう小羊みたいなものであり、呪われ、地獄に落ちるような気持ちで日々を送らないといけないし、それがまた人生というものなのだ、ということなのではないか。

そう考えると、本作で描かれるバート・ランカスター演じるウォーデン曹長や、モンゴメリー・クリフト、デボラ・カーの役どころもわからないではない。

ジンネマン監督といえば、本作の前にゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」(1952年)を監督している。連邦保安官を退職するという日、4人の殺し屋が自分への仕返しにやってくるというので町の人々に協力を求める。しかし、一緒に戦おうという者はいない。結局、一人で殺し屋と対決せざるを得なくなり、刻々と時刻が迫る中で苦悩する姿を描いていて、ゲイリー・クーパーはまさしく“さまよえる小羊”のようで、本作とも重なるところがある気がした。

 

ついでにその前に観た映画。

U-NEXTで放送していたアメリカ映画「ジャッジ 裁かれる判事」。

2014年の作品。

原題「THE JUDGE」

監督デビッド・ドブキン、出演ロバート・ダウニー・Jrロバート・デュバルヴェラ・ファーミガヴィンセント・ドノフリオビリー・ボブ・ソーントンほか。

判事でありながら殺人罪に問われた父親を弁護することになった弁護士。長年仲の悪かった2人をめぐるヒューマン法律サスペンス。

 

有能な弁護士だが真偽よりも勝利にこだわり、金持ちを強引に無罪することで知られるハンク・パルマー(ロバート・ダウニー・Jr.)。インディアナ州の小さな町に住む父のジョセフ・パルマー(ロバート・デュバル)は世間から信頼を集める厳格な判事だったが、2人はハンクの少年時代から確執があり、絶縁状態にあった。

ある時、ジョセフが車でひき逃げをして相手を死に至らしめた殺人の罪で裁判にかけられ、ハンクが弁護人を務めることになる。正義の人である父が殺人を犯すはずがないと信じるハンクだったが、調査が進むにつれて疑わしい証拠が次々に出てくる・・・。

 

本作のテーマは父と子の確執と和解なのだが、裁判の行方にも気になるところがあった。

40年以上も判事をつとめていたジョセフが問われたのは、謀殺による殺人というので死刑もありうる第一級殺人という重罪だった。ジョセフがひき逃げしたとされた被害者は、かつて少女の殺人未遂で起訴されたが、絶縁状態にある息子の面影とダブルもの感じたジョセフは、更生の余地があるとして軽い刑にした。ところが、男は出所後に少女を殺し、今度は20年の実刑判決を受けて、出所したところだった。ジョセフはせっかく減刑してやったのに殺人を犯したというのでその男を憎んでいて、それでわざと車をぶつけて殺したとされて殺人の罪に問われたのだ。

ところが、裁判の過程で、ジョセフには事故当時の記憶がなかったことが明らかになる。

実はジョセフは、末期のがんを患っていて、化学療法を受けていた。このため薬の副作用により記憶障害を起こしていたことがわかる。

もし当時、記憶がなかったとするなら、計画的犯行による謀殺の可能性はなくなる。ハンクは、これで裁判は有利に運べると考えたが、ジョセフは自分に記憶障害があると認めるのを拒否する。なぜなら、化学療法は1年前から始めていて、薬による副作用で記憶障害を起こしていたなら、その間に自分が下した裁判の判決への信憑性が損なわれてしまうからだ。

映画では、やがて父と子は互いの気持ちを理解し合って和解に至り、父は自分が記憶障害に陥っていたことを認め、謀殺による第一級人では無罪、故殺の罪は有罪とされ、懲役4の刑が言い渡される。

アメリカでの殺人罪には謀殺と故殺があり、謀殺は計画的な犯行で悪質だが、殺すつもりはなかったのに結果的に人を殺してしまうことを故殺といって、これには日本でいう過失致死罪も含まれている。

 

それにしても、がん治療の副作用で記憶障害を起こすなんて、あるのだろうか?

それがどうやらあるらしい。

特に近年わかってきたことだが、抗がん剤による治療中や治療後に、集中できない、記憶力が低下する、言葉が出てこなくて会話が詰まる、作業能力の低下などを自覚するなどの症状が現れる人がいることがわかって、こうした症状を「ケモブレイン(Chemo Brain)」と呼ぶようになっている。

「ケモ(Chemo)」はChemotherapy、つまり化学療法の略で、「ブレイン(Brain)」は脳という意味。化学療法による脳機能障害とも呼ばれ、総称して「がん関連認知障害(Cancer Related Cognitive Impairment:CRCI)」という呼び方もされている。

通称として呼ばれるのが「ケモブレイン」であり、発生頻度は17~70%とされていて、記憶力・集中力・作業能力の低下が主な症状という。

発生機序ははっきりとはわかっていないものの、薬剤による神経新生や神経伝達物質の障害、脳血流や脳脊髄液の変化、海馬の機能低下が示唆されており、間接的に炎症やアポトーシス、酸化ストレスも関与しているのではないかといわれている。

今やがんは日本では2人に1人がかかり、3人に1人ががんで死亡するといわれていて、基本的にがんは老人病でもあるから、年をとるほどかかりやすくなる。年をとると認知症にもなりやすいから、がんを患って化学療法を受けている人が記憶障害に陥ったときは、認知症なのか、それともケモブレインによるものなのか、あるいはその両方なのか、見極める必要がありそうだ。

映画では、ジョセフは故殺の罪だけで懲役4年を言い渡されるが、化学療法による記憶障害があったのなら病気なんだから罪には問えないと思うのだが・・・。