善福寺公園めぐり

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美しく老いるとは?「エターナルメモリー」

東京・吉祥寺のパルコ地下にある「UPLINK吉祥寺」でドキュメンタリー映画「エターナルメモリー」を観る。

2023年の作品。

原題「LA MEMORIA INFINITA」(永遠の記憶)

監督マイテ・アルベルディ、出演パウリナ・ウルティア、アウグスト・ゴンゴラ。

アルツハイマー病で記憶を失っていくジャーナリストの夫と彼を支える妻の愛と癒しに満ちた日々を記録したチリ発のドキュメンタリー。しかし、ドキュメンターなのに、美しく心洗われるラブストーリーのような映画だった。


著名なジャーナリストである夫アウグスト・ゴンゴラと、チリの国民的女優にして同国初の文化大臣となった妻パウリナ・ウルティア。20年以上にわたって深い愛情で結ばれてきたふたりは、自然に囲まれた古い家をリフォームし、読書や散歩を楽しみながら毎日を送っていた。そんな中、アウグストがアルツハイマー病を発症し、少しずつ記憶を失っていく。やがてアウグストは、最愛の妻パウリナとの思い出さえも忘れてしまう・・・。

 

監督のマイテ・アルベルディは、撮影監督、音響技師とともに3人の少数でチームを組み、4年間にわたってアウグストとパウリナの2人の日常を撮影したという。少人数にしたのはできる限り2人のプライバシーを尊重し、煩わせないようにするためだったという。

取材の過程では、特にコロナ禍の最中などはパウリナがカメラを手にして撮影した。おかげで、夜のコミュニケーションの様子など、外部の人間が目にすることがなく、立ち会うことができなかった非常に親密な瞬間を捉えることができたという。

しかし、本作は単にアルツハイマー病を患った夫と介護する妻の愛の物語ではない。

長年にわたるチリの軍事政権との闘いの歴史の物語でもある。

だから本作は、チリの軍事独裁政権の暴政の「記憶」を決して忘れてはいけない、と語るとともに、かつまた、アルツハイマー病による「記憶」の喪失とも向き合う、“2つの記憶の物語”なのである。

 

チリは、世界で初めて、暴力的な革命などではなく、自由な選挙により社会主義国となった国だ。

1970年、大統領選挙の結果、左派連合のアジェンデが当選し、議会制の元での社会主義をめざす世界で初めての大統領となる。ところが、これが気に入らなかったのがニクソン政権のアメリカだった。アメリカは、アジェンデが進める社会主義路線がチリに大きな権益を持つアメリカ資本に不利となるだけでなく、左翼政権の影響が南米全体に及ぶことを恐れて、CIAなど謀略機関を使ってさまざまな陰謀・画策を行い、ついに1973年、アメリカに後押しされた右派と軍部によるクーデターが起こり、アジェンデは死亡。将軍ピノチェトによる軍事独裁政権が樹立された。

ピノチェトは左派の反体制派などを徹底的に弾圧。1990年まで続いた軍政下で4万人もの人々が拷問されたり殺害されたりして、いまだに1000人を超える人たちの行方がわかっていないといわれる。

1952年生まれのアウグストは、大学を卒業後ジャーナリストの道に進む。ピノチェトによる軍事独裁政権下で政権に反対する独立系メディアで働き、主要メディアが事実を報じないなか、国内の出来事を内密で扱うニュース報道「テレアナリシス(Teleanalisis)」の一員となり、仲間のジャーナリストとともに街に出て、起きていることすべてを記録しながら人々にインタビューしてテープを秘密裏に全国に配布。今日ではこれらの映像はチリの独裁政権時代を伝える主要なアーカイブとなっているという。彼が担当して作成した映像は、今では目に見える国の「記憶」であり、チリの歴史にとって重要なものとなっているという。

監督がアウグストの病気のことを知り、ドキュメンターとして撮らせてくれないかと申し出たときも、最初、パウリナは渋ったが、すぐに撮影に同意したのはアウグストだったという。彼は自分の経験を人々に伝える義務があると考えていて、こう語ったという。

「私はこれまでたくさんの人を撮影してきた。独裁政権下でも人々はドアを開けて、自分の弱さと痛みを見せてくれた。それなのに、なぜ私はドアを開けて自分の弱さを見せないのか」。

 

パウリナは1969年生まれ。大学卒業後、舞台、テレビを中心に女優として活躍。1993年には映画デビューも果たす。労働運動にも積極的に加わり、2001年にはチリ俳優連合の書記長、および会長に就任している。

チリの軍事独裁政権は1990年に選挙の結果を受けて終焉し、民政移管が実現。人権弾圧の国際的批判にさらされ国外に逃亡したピノチェトは捕らえられ、裁判にかけられたが2006年に死亡したため裁判は中断。この年の大統領選挙で当選したのが、左派でチリ初の女性大統領となったミシェル・バチェレだった。

彼女は1973年のピノチェトの軍事クーデターのとき逮捕され、拷問を受けた経験がある。公約に従って閣僚の半分を女性にしたが、チリで初となる文化省を設立し、大臣(チリ国家文化・芸術審議会議長)に任命したのがパウリナだった。

パウリナの文化と芸術に対する情熱が評価されてのことだったろうが、彼女の情熱の根底にあるのは、人への愛と慈しむ気持ち、純な心とやさしさであることが、本作の中で描かれている献身的にパートナーを介護する姿からも見て取れる。

 

このように、本作はチリの歴史の「記憶」との関わりが重要だが、アルツハイマー病を患う夫とその家族の「記憶」の物語でもある。

本作を観終わって思ったのは、人は生まれてきて、生きて、やがて死んでいく。それが自然というものなのだよ、といってるのではないか、ということだった。

アルツハイマー病を発症したアウグストは少しずつ記憶を失っていって、ついには妻のこともだれだかわからなくなるが、それは病気ゆえではあるものの老化とも関係しているだろう。歳をとれば人はだれでもいろんなところが衰えていくもので、それに抗して若返ることはできない。永遠の命などないのだから、やがて人は記憶が衰え、肉体も衰えていって、命が尽きる。それが自然の現象であり、そのことを映画はいいたかったのではないか。

本作についてのインタビューの中で、「本作では老いを扱っているが、このテーマのどのような点に関心があるのか?」との問いに、監督のマイテ・アルベルディは次のように語っている。

「肉体が変化することや老いることを普通に受け入れ、儚さの中に美を見いだし、有限性や死を普通にあるものとして探求することに興味があるのでしょう。こうした変化は時間の経過によって生じるものです。歳を重ねて死ぬことを誰も教えてくれなかったので、観察し、標準化することに興味を抱きました。もしかしたら、これが恐怖に苦しむ人々に慰めをもたらすかもしれません」

監督は、「『エターナルメモリー』は何よりも、愛が儚い状況でどのようになるのか、完全な記憶がなくなったカップルはどうなるのか、といったことを扱ったラブストーリーです」とも語っているが、こんな美しい老いがあるのか、その美しい老いを支えているのは、妻の愛であり、それに応える夫の愛なのではないか?と観終わったあとつくづく感じたのだった。

 

アウグスト・ゴンゴラがアルツハイマー病と診断されたのは2014年、62歳のとき。その後も病状は進んでいって、2023年5月、健康状態が悪化して昏睡状態に入ったあと、71歳で亡くなった。最期まで妻のパウリナに看取られた。

本作はすでにその前に完成していて、亡くなる4カ月前にアメリカ・ユタ州で開催されたインディペンド映画を対象とした映画祭・サンダンス映画祭でプレミア上映され、最高賞である世界ドキュメンタリー部門の審査員大賞を受賞。本年度のアカデミー賞にもノミネートされた。