アルゼンチンの赤ワイン「レゼルヴァ・カベルネ・ソーヴィニヨン(RESERVA CABERNET SAUVIGNON)2021」
ワイナリーはボデガ・ノートン。アルゼンチン国内でトップを争う実力派ワイナリー。
アンデス山脈のふもと、メンドーサ州で育ったカベルネ・ソーヴィニヨン100%。同州は「太陽とワインの州」とも呼ばれ、ワインづくりに適した地域という。
フルボディで肉料理にピッタリのワイン。
ワインの友で観たのは、民放のBSで放送していたイタリア・フランス合作の映画「昨日・今日・明日」。
1963年の作品。
原題「IERI, OGGI, DOMANI」
監督ビットリオ・デ・シーカ、出演ソフィア・ローレン、マルチェロ・マストロヤンニ、ジャンニ・リドルフィ、ティーナ・ピーカほか。
ナポリ、ミラノ、ローマを舞台に男女の関係を描いたオムニバスコメディ。ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが1人3役を演じ分けている。
第1話「アデリーナ」はナポリの下町が舞台。復員後失業中のグータラ亭主カルミネ(マルチェロ・マストロヤンニ)に代わって闇タバコの商売で一家を支えている妻アデリーナ(ソフィア・ローレン)。未払いの罰金の徴収に来た役人を追い払ったため、アデリーナは逮捕されることになる。何とかならないかと弁護士に相談すると、「妊婦は出産後半年は逮捕されない」と助言され、夫婦は子づくりに励む。産んでは妊娠を繰り返してついに7人目となり・・・。
第2話は「アンナ」。ミラノに住む富豪の妻アンナ(ソフィア・ローレン)は、退屈な日常にうんざりして、売れない若い作家レンツォ(マルチェロ・マストロヤンニ)と逢瀬を楽しんでいる。ところが、ロールスロイスでドライブ中に事故を起こしてしまい、高級車を壊されたというので態度を豹変させたアンナは・・・。
第3話の「マーラ」。ローマで高級娼婦をしているマーラ(ソフィア・ローレン)。上客をアパートの自宅に招き入れて商売しているが、となりのアパートに住む老夫婦の家に神学生のウンベルト(ジャンニ・リドルフィ)が休暇のため遊びにきていて、彼はマーラに一目惚れしてしまう。祖母(ティーナ・ピーカ)は断固として2人を会わせようとせず、悲観したウンベルトは神学生を辞めるとまでいい出す。根が善良なマーラは、ウンベルトを立ち直らせるため「1週間は仕事をしない」と祖母に約束し、彼女とセックスのためやってきたボローニャの社長の御曹司ルスコーニ(マルチェル・マストロヤンニ)は・・・。
いずれの話も、強くてしたたかな女をソフィア・ローレンが演じ、弱くて頼りなさそうな役がマルチェロ・マストロヤンニ。
そういえば、6年後につくられたビットリオ・デ・シーカ監督の名作「ひまわり」でも2人は共演しているが、やはりソフィア・ローレンは悲しいけれども強く生きようとする女を演じ、マルチェロ・マストロヤンニはどこか寂しげな男の役だった。
本作で一番好きなのは第1話の「アデリーナ」。
下町に住むアデリーナ夫婦のまわりに住む人々がみんな仲よしで結束していて、それぞれの家族を街中で守り合っている。刑務所に入れられていた彼女が釈放されて帰ってくると、近所中の人々が集まってきて歓呼で迎えるのだった。
ビットリオ・デ・シーカ監督のもう1つの名作「自転車泥棒」(1948年)でも、生きていくのに欠かせない自転車を盗まれた主人公が、ついには自分も人の自転車を盗んでしまい、警察に突き出されそうになるが、同じ失業中の労働者同士だというので見逃してもらう。集まってきた男たちは主人公に罵倒を浴びせたり、小突いたりするが、それは「強く生きなきゃだめだよ」という仲間同士の励ましのようにも見える。
涙をこぼしながらトボトボあるく主人公の手を握る息子。手をつないだまま雑踏の中を歩いていく親子のラストシーンが今も忘れられないが、人はまわりから支えられて生きている、ということをあの作品でもデ・シーカ監督はいっている。
ところでこの映画、楽しく見せる諷刺コミカルドラマだけに監督の“遊び心”も随所で出ていて、そのひとつ、第2話でソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニが乗るロールスロイスも超高級車だが、事故を起こした車とマストロヤンニを置き去りにして、ちょうど通り掛かった赤いスポーツカーに乗ってソフィア・ローレンが去っていくシーンに出てくる赤いスポーツカーとは、ロールスロイスよりさらにすごいフェラーリ250GTスパイダー・カリフォルニアSWBという、わずか24台しか生産されなかったレアなクルマだそうだ。今や自動車ミュージアムやクラシックイベントにでも行かない限り見ることのできない超々高級車で、オークションで日本円にして20億円超の値がついたとか。
富豪夫人のソフィア・ローレンが着る衣裳はクリスチャン・ディオール。
第3話で、マーラ役のソフィア・ローレンがお坊ちゃんビジネスマン役のマルチェロ・マストロヤンニの前で艶かしいストリップをするシーンで流れる曲もなかなか意味深。
「アバ・ジュール」とかいう曲で、男性の甘い声が流れるが、歌詞は「青い光あふれるアバジュール、ため息をついても、探している人はもういない」みたいな内容。
「アバ・ジュール(ABAT-JOUR)」とはもともとフランス語で「(採光用)の天窓」とか「ランプシェード」のことらしいが、「庇」とか「日陰」の意味もあって、どうもただのランプシェードじゃなくて裏の意味がありそうだ。
こういう言葉遊びもデ・シーカ監督の“遊び心”か。
ついでにその前に観た映画。
民放のCSで放送していたハンガリー映画「ナイン・マンス」。
1976年の作品。
原題「KILENC HONAP」
監督メーサーロシュ・マールタ、出演モノリ・リリ、ヤン・ノヴィッキほか。
先日テレビで観たメーサーロシュ・マールタ監督の「ふたりの女、ひとつの宿命」に続く、ハンガリー映画の2作目。男女の愛をめぐる物語だが、ドラマとドキュメンタリーが入り交じるラストシーンが圧巻。
働きながら通信制の大学で農学を学んでいるユリ(モノリ・リリ)は、工場で働こうと面接を受けると、対応したのが主任のヤーノシュ(ヤン・ノヴィッキ)。彼は彼女に一目惚れして、採用が決まった翌日、早速デートに誘う。
仕方なく誘いに応じることにしたユリだったが、ヤーノシュはいきなり指輪を出して彼女に結婚してくれといってくる。あまりの強引さに戸惑いつつも付き合うことにしたユリ。やがて2人の関係は深まっていく。
しかし、彼女には妻子ある大学教授との間にできた5歳の男の子がいて、母親に預けて働いていた。最初は内緒にしていたが、やがてその事実を知ったヤーノシュは、はじめはユリを責めたものの、やがて子どもを2人で育てることにして彼女との結婚の準備を進めるが・・・。
自分らしく生きようとするが、女性であるがゆえ、さらにくわえて母子家庭の母であるがゆえの制約や偏見に縛られ、くじけそうとなりながらも、それでも懸命に生きようとするユリが主人公。
タイトルの「ナイン・マンス」とは、出産するまでの妊娠期間のことであり、最後の出産シーンがユリの生きる力の強さを圧倒的な映像の表現で示している。
実はユリを演じるリリ・モノリは本作の撮影時に実際に妊娠していて、おなかが膨らんできたのもホンモノだし、出産シーンはリリ・モノリ本人が出産する実際の映像が使われていて、これ以上の説得力のある演技があるだろうか。
監督のメーサーロシュ・マールタはドキュメンタリー作家としてキャリアをスタートさせた人というから、最後のシーンはドキュメンタリーに徹してドラマとの融合を図り、より「真実」に近づきたかったのだろうか。
ところで、本作を見ていて、ハテこの映画、前に観たことなかったかな?と既視感を抱いた。
真面目で武骨で、どこか頼りない感じで、それでも一目で彼女が気に入って付き合ってすぐに結婚を申し込む一途な男、ヤーノシュの描き方だ。
むろん本作を観たのは今回が初めてで、2度目のはずはないのだが、やがて気がついた。フィンランドのアキ・カウリスマキ監督が描く映画の主人公とまるで同じではないか、と。特にカウリスマキの“労働者三部作”と呼ばれる作品に登場する主人公と本作のヤーノシュの何と似通っていることか。
途中に挟まる挿入歌もカウリスマキの映画の挿入歌に似ていて、日本の昭和歌謡っぽい響きがある。
そこで気づいたのが両監督の出身国だ。カウリスマキはフィンランドで、メーサーロシュ(ハンガリーでは日本と同じに姓・名の順で名前を表記する)はハンガリーだ。
ヨーロッパの言語は、ほとんどの国がインド・ヨーロッパ語を母語としているが、そのヨーロッパの中でフィンランドとハンガリーだけが、インド・ヨーロッパ語と言語系統がまったく違う、アジアの西端にあるウラル山脈の東西を挟む地方の言葉であるウラル語を母語としている。
フィンランドを構成する民族はフィン人で、ウラル語族のうちウラル山脈の西側に住んでいたフィン語を話す民族であり、ウラル山脈の東側に住んでいたのが、現在のハンガリーを構成するウラル語族のウゴル語を話すマジャール人。
フィン人もマジャール人も、もともと騎馬遊牧民であり、はるか遠い昔に馬に乗って東方からやってきて、フィンランドやハンガリーの地に住み着いたといわれている。
言語が共通なのだから、ものごとの考え方や感情の抱き方に共通性があるのも当然なのかもしれないし、ひょっとしたら、フィン人もマジャール人も祖先をたどれば同じ民族的な共通性を持っているのかもしれない。
本作を観ていて気づいたのがもうひとつあって、それは「ナイン・マンス(9カ月)」というタイトル。ハンガリー語のタイトルも邦題と同じで妊娠期間の意味だが、そこでハテと思った。
日本では「十月十日」といって妊娠期間は10カ月と10日のはずだが、なぜ9カ月なの?
これはもう、出産経験のある方はご存じかもしれないが、「妊娠何カ月」というのは実に日本的な数え方のようだ。
基本的に出産は、最終月経の開始日から計算して280日目(40週)が出産予定日なんだそうだ。すると9カ月と少しくらい先が予定日となり、十月十日にはならない。
だから十月十日というのは俗信にすぎないらしい。
いまだに日本では「妊娠何カ月」といういい方が通用しているが、世界では、日本でも産科や妊婦さん本人は、妊娠期間を月ではなくて週の数で計算している。
古来、日本では「数え」で年数を数える習慣があり、生まれた日を1歳としたり、1月1日の正月がくると年をとったことになったりしてきた。だから、妊娠期間の数え方も、医学的な妊娠の起点は「0日」で「0カ月」だが、日本では「妊娠1カ月」となって、そのほうが数えやすかったのだろう。
しかし、「満」で数える医学的な妊娠期間の数え方はまるで違っていて、週で数えているので月にすれば満9カ月ちょっと、40週0日が出産予定日というわけなのだ。
民放のCSで放送していた中国・香港映画「ソウルメイト/七月と安生」。
2016年の作品。
原題「七月與安生」
監督デレク・ツァン(曾國祥)、出演チョウ・ドンユイ(周冬雨)、マー・スーチュン(馬思純)、トビー・リー(李程彬)ほか。
原作は中国の作家アニー・ベイビーのネット小説で、2人の女性を主人公にした青春映画。
上海で暮らすアンシェン(安生、チョウ・ドンユイ)のもとに、人気のネット小説「七月と安生」を映像化したいという映画会社から連絡が届く。小説の作者はチーユエ(七月、マー・スーチュン)という名の女性で、小説は彼女の自伝的要素が強い作品だといわれていた。しかし、チーユエの所在が不明のため、映画会社はもうひとりの主人公・安生のモデルと思われるアンシェンを捜し出し、コンタクトをとってきたのだ。
そんな彼らに対し、アンシェンは「チーユエなんて人は知らない」と答えるが、知らないというのは嘘で、チーユエはアンシェンにとって13歳の子どものころからの特別な存在だった。何よりも大切な親友、そして誰よりも激しくぶつかりあった戦友、互いに魂の奥深いところでつながっていた。だが、ある日、2人は別れてしまった。それはなぜか・・・?
主人公のひとりチョウ・ドンユィのデビューは、チャン・イーモウ監督の「サンザシの樹の下で」(2010年)だった。
チャン・イーモウといえば、「紅いコーリャン」(1987年)でコン・リーを、「初恋のきた道」(1999年)でチャン・ツィイーを発掘し、デビューさせた監督。デビュー作品のとき17、8歳だったチョウ・ドンユィが、成長して24歳になったときの作品が本作。
また、原作者のアニー・ベイビーは1974年生まれだから今年50歳。中国銀行、出版社勤務を経て、24歳のときインターネット上に小説を発表。映画と同名の原作小説は短編小説として2000年に発表。作者が26歳のときだ。
香港出身の監督のデレク・ツァンは本作のとき36歳。
若い感性がつくり上げた映画といてよい。
母子家庭で母親は働きに出ていて寂しく1人で暮らしている安生と、両親がそろっていて中流家庭っぽい家で育った七月。
生真面目な七月と自由奔放な安生。まるっきり性格の違う2人だが、だからこそなのか、2人は仲よくなる。しかし、まるで姉妹のようにして日々をすごした2人だが、成長するにしたがって互いの進む方向は違っていく。
「あなたのように自由に生きたい」という七月。
だが、「自由に生きたい」という「自由」とは、いったい何だったのか?と考えさせられる映画。