善福寺公園めぐり

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波国・匈国(ポーランド・ハンガリー)の旅 ~その2 民謡から生まれたワルシャワ労働歌

ワルシャワ2日目の朝。

宿はB&Bなので朝食つき。

びっくりしたのはハチミツがミツバチの巣ごと出てきたこと。

聞けばこの宿では屋上でミツバチを飼って養蜂をしているそうで、自家製のハチミツも売っていた。

おいしい朝食後、いよいよワルシャワの町へと繰り出す。

 

ワルシャワといえば、20歳までをここですごしたショパンをイメージするが、一方でワルシャワというと「圧制と戦った市民蜂起の町」「労働者の町」という印象がわれわれ世代にはある。

よく知られるのが1944年、ナチス・ドイツの支配に対してワルシャワ市民が武器を持って立ち上がったワルシャワ蜂起だ。しかし、反乱は鎮圧されて街は徹底的に破壊され、犠牲者は22万人にも及んだという。

 

ワルシャワ蜂起時にドイツ軍に立ち向かった少年兵を讃えた慰霊碑。

社会科見学のためだろうか、子どもたちがやってきて記念撮影していた。

ナチス・ドイツにより徹底的に破壊された街の様子が写真に残っている。

それ以前にも、ポーランドは長く帝政ロシア支配下にあり、独立運動が活発におこなわれていたが、運動を一気に高めたのが1905年に勃発したロシア革命だった。ワルシャワなどでは労働者による大規模なデモやストライキが起こったが、このとき歌われたのが「ワルシャワ労働歌」だった。

「ワルシャヴィアンカ(Warszawianka)」とも呼ばれるが、帝政ロシアにたいするポーランドの独立闘争の歌だ。反乱に参加して捕らえられ、シベリアに送られた詩人が歌詞を書き、ひそかに持ち出され、瓶につめられ埋められ、やがて掘りだされ、当時歌われていた「ズアブ兵のマーチ」の替え歌として歌われるようになった。

のちにこの歌は世界中の自由と平等のためにたたかう人びとをはげます歌として広がっていった。

1928年にはプロレタリア作家の鹿地亘が日本語の歌詞をつけ、「ワルシャワ労働歌」として広く歌われるようになった。

日本語訳の歌詞がなかなか勇ましい。

 

暴虐の雲 光を覆い

敵の嵐は 荒れ狂う

ひるまず進め われらが友よ

敵の鉄鎖を 打ち砕け

 

こんな勇ましい歌だが、実はこの歌の原曲はポーランドの民謡だった。

もともと労働歌であるのは間違いないが、それは農民たちの作業歌、ワークソングとしての労働歌だった。

日本でも「遥かな青空」というタイトルで歌われていて、歌詞は次の通り。

 

山や川が呼んでいる みんな元気に出かけよう

夏はすぎて草に木に 風にいのちがみなぎる

胸を張れ胸を張れ 仰げはるかな青空

道は広くひとすじに 進むわれらをまねくよ

 

音楽とは、人々の生活の中から生まれるものであり、友との語らいを歌や通りに変えたり、田畑仕事を楽しくしようと歌ったり、収穫の喜びをみんなで分かち合うために歌ったり、最愛の人の死を悼む鎮魂の気持ちを込めたりしながらも、心をひとつにするものがあるのだろう。

だから、作業を楽しくしようと歌う歌が、圧政に苦しむ人々による革命の歌となったとしても、何ら不思議ではないのかもしれない。

 

フレデリック・フランソワ・ショパン(1810~1849年)。彼もまた幼少期、民謡の中で日々を送り、それによりの音楽的感性を育んでいったといわれる。

ワルシャワにはショパンゆかりの場所も点在している。

そのひとつ、聖十字架教会。

ここにはショパンの心臓が安置されている。

祖国をこよなく愛しながらも、帝政ロシアなど列強の支配下にあった祖国への帰国は叶わず、せめて心臓だけは祖国に埋葬してほしいというのがショパンの生前からの願いだったという。彼の最期を看取った姉は、決死の覚悟でショパンの心臓をドレスの下に隠して国境を越え、ポーランドに持ち帰ったのだとか。

彼の心臓は聖十字架教会の柱の中に埋められている。

ショパンの命日は10月17日だが、5年に一度行われるショパンコンクールのときには、この教会で命日のミサが行われてモーツアルトのレイクエムが演奏され、コンクールの参加者たちもお祈りに行くという恒例の行事があるそうだ。

 

そういえばショパンがこよなく愛したのがハチミツだった。

数々の名曲を作曲し、ピアノの詩人と呼ばれた天才作曲家、当代一のピアニストとの称賛を浴びながら、長年患った肺結核(一節には膿胞性線維症ともいわれる)を悪化させ、39歳という若さでこの世を去ったショパンは、生来虚弱体質で10代のころから呼吸器症状や体重減少に苦しみ、生涯、病がちだったといわれる。

最も体調のよかった30歳のころでも身長170㎝に対して体重は45㎏ぐらい。ちょっとのことでも疲れやすく、消化不良と慢性の下痢に悩まされ続けたショパンは脂肪分の多い食事を避け、「鶏とおかゆとハチミツばかり食べていた」といわれているほどだ。

 

7000点を超える関係資料や写真などを所蔵・展示している「ショパン博物館」。

事前申し込み制で、1時間に70人という人数制限を設けているので、ゆっくり・じっくりとショパンの生涯や作品をたどることができた。

ショパンの手書きの楽譜。

遺体から型を取ってつくったというショパンの左手。

ジョルジュ・サンドへ送った手紙だろうか。実に細かい。

ショパンが最後に所有していたというピアノ。

製作年代は1845年で、ジョルジュ・サンドとの愛を育んでいた35歳のショパンが、「ピアノ・ソナタ 作品58 ロ短調」などの傑作を次々と生み出した時期だったという。

 

手紙の端に描いたショパンのマンガ?

子どものころのショパンと民俗音楽との出会いもなかなか楽しい。

彼は14歳と15歳のときの1824年と25年、ワルシャワから北東約140kmにあるシャファルニア(Szafarnia)村にあった親友の実家で夏休みをすごした。

周辺はゆるやかな起伏の丘がアクセントとなったポーランドらしい田園風景が広がる地域。ショパンはそんな自然豊かな村に滞在して、あちこち出かけていっては軽やかなマズルカのメロディーを聴き、そこから音楽のインスピレーションをふくらませていったといわれる。

村での滞在中、彼はワルシャワにいる両親に宛てて新聞形式の手紙「シャファルニア通信」なるものを書き残している。

これは当時実際にあった「ワルシャワ通信」という新聞の体裁をそのままそっくり、フォントまで真似して書いたものだとか。

以下に登場する「ピション氏」とは、もちろんショパン本人のこと。

「国外ニュース」

本年当月29日のこと、ピション氏、ニェシャーヴァの町を通過の際、垣根の上に腰を掛け、何やら大音声で語っているカタラーニの声を耳にした。いたく感動した同氏、メロディと声は聞きとどけたものの、これに飽き足らず、歌詞も聴き取るべくあい務めることに。

ところが、垣根のそばを二度往来するものの無駄で、何一つ理解できず、結局好奇心に堪えかねた氏は、三グロシュの小銭を取り出し、もし、もう一度歌ってくれるならこれを進ぜようと歌い手に約束、娘は長いあいだ身をよじり、顔をしかめて、嫌がっていたが、ついに三グロシュに勇気づけられて決心し、マズレクを一曲歌いだした。

ここに編集長は、上役と検閲官の許可を得て、例としてその一節だけを引く――

ごらんな、七面鳥の尻を追っかけ追っかけ、娘の踊りおる

そうさな、嫁さんがのうて、えろう淋しがりおる(繰り返し)

 

村の娘が恥じらいながら歌う地元の歌に、耳を傾ける若きショパンの姿が目に浮かんで、何ともほほえましい。

 

昼食はショパン博物館近くの「Ogród Smaku」というポーランド料理の店で。

ビーフシチューのポテトパンケーキ。

ボルシチ、ではなくてバルシチ。

ロシア・ウクライナ料理のボルシチは肉や野菜がたっぷり入ったスープだが、バルシチは鮮やかな赤色が特徴のポーランドの伝統的なスープ。赤い色は材料であるビーツの色素によるもので、とても癒される味。

スープの中に、これまたポーランドの伝統料理ピエロギが浮いていた。

飲み物はパッションフルーツの果肉入りレモネード。

今回の旅ではいろんなところでレモネードを飲んだが、一番おいしかったのがこの店のパッションフルーツレモネード。

 

ところでショパン博物館に向かう途中、不思議なポスターを発見。

何とアメリカ映画「真昼の決闘」のゲイリー・クーパーではないか。

なぜワルシャワの町に西部劇の保安官ゲイリー・クーパーなのか?

実はこのポスターはポーランドの人はみんな知ってるポスターらしく、1989年に東欧革命の民主化の中で、ポーランドで実施された複数政党制による自由選挙におけるワレサ議長率いる「連帯」への投票を呼びかけるポスターだった。

ポスターをつくったのは当時ワルシャワ美術アカデミーの23歳の学生だったトマシュ・サルネツキ。「保安官は『連帯』に投票」と訴えるこのポスターはたちまち注目を浴び、「連帯」のシンボルとなって、選挙は圧勝。ポーランド民主化につながる大きな役割を果たした。

今のようにインターネットなんかない時代、しかも、メディアが独裁政権の権力の手中にあった時代、人々はどうやって思いを伝えあったのか。たった1枚のポスターによって自分たちの主張を拡散させ、歴史を変えていくこともあるようだ。