善福寺公園めぐり

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アキ・カウリスマキの「枯れ葉」に描かれた「竹田の子守唄」と「労働者」

東京・新宿の新宿シネマカリテで上映中のフィンランド映画「枯れ葉」を観る。

2023年製作。

原題「KUOLLEET LEHDER」

監督・脚本・製作アキ・カウリスマキ、出演アルマ・ポウスティ、ユッシ・ヴァタネン、ヤンネ・ヒューティアイネン、ヌップ・コイヴほか。

何年か前、テレビで放送されたアキ・カウリスマキ監督の作品が気に入って、以来、放送されるたびに観てきたが、ようやく今回、劇場公開の映画を観た。

観終わって最初に思ったこと。映画はやっぱり映画館で観るのが一番だナ~!

 

ラジオからロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れるフィンランドヘルシンキ

スーパーマーケットで商品整理の仕事をするアンサ(アルマ・ポウスティ)は、同僚の友人リーサ(ヌップ・コイヴ)に誘われ、カラオケバーへ。

一方、工事現場で働くホラッパ(ユッシ・ヴァタネン)もまた、同僚のフオタリ(ヤンネ・ヒューティアイネン)に付き合い同じ店に。
リーサは、調子っぱずれでも堂々と歌うフオタリを称賛し、2人は初対面ながら意気投合。一方、付き添いのアンサとホラッパも一目見て互いに惹かれ合うが、ろくに言葉も交わせず、相手の名前さえ知らぬまま店での出逢いは幕を閉じる。

すぐに日常に戻るアンサだが、ちょっとしたことで理不尽にもスーパーマーケットをクビになる。何とか場末のパブで皿洗いの仕事を見つけるが、給料日に出勤するとオーナーが薬物売買で逮捕されたところで、警察に連行されるオーナーを眺めながら途方に暮れていると、そこに偶然にもホラッパが通りがかる。

映画を観る約束をして、ゾンビの映画を観たあと、2人の気持ちが近づいたところで、アンサはホラッパに電話番号を書いたメモを渡して再会を約束する。

気をよくしたホラッパだったが、ポケットに入れたはずのメモが風で飛ばされた上、お互いに名前も聞いてなかったので2人は再会できずにすれ違うばかりとなる・・・。

 

カラオケバーで出会ったのをきっかけに、互いの名前も、電話番号も知らないまま恋に落ち、すれ違いを繰り返しながらも愛を育み、ともに歩み始めるまでを描くラブ・ストーリー

労働者三部作「パラダイスの夕暮れ」「真夜中の虹」「マッチ工場の少女」に連なる新たな物語としてつくられた作品だが、1作目の「パラダイスの夕暮れ」が37年前の1986年、3作目の「マッチ工場の少女」が1990年で、それから33年たってからの“4作目”だが、ギリギリの貧しい生活を送りながらも、生きる喜びと、人間としての誇りを失わずに生きる労働者の姿を描いているところは変わらない。

映画の冒頭、アンサがラジオをつけると、2022年2月から始まったロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れていて、彼女はネットカフェでパソコンを使って職探しをしてるし、電話は携帯だったから、現代を描いているのは間違いない。

時代はたしかに現代なんだが、ヘルシンキの風景はノスタルジックだし、古いジュークボックスから音楽は流れ、テレビは出てこなくてラジオだけ。主人公の2人も、労働者三部作の主人公と同じに、不器用で寡黙で決して若くない男女。2人ともかなり貧乏していて、失業中の彼女はネットカフェの料金が足りなくて割引してもらうほどだし、男の方も工事現場の寮に住んでいて、クビになるとそこから追われてベンチで寝るしかなくなる。

つまり30年前とまるで変わってない雰囲気が映画全体から漂ってくる。

だが、今回の2人は、すれ違ったりしながらも、真っ直ぐに愛に向かって進んでいく。一途な気持ちを抱き続けるアンサとホラッパの何と心優しいことか。

ホラッパは根っからの肉体労働者だし、アンサがやっと見つけた仕事も、工場で重い荷物を運ぶ肉体労働の現場だった。そうやって汗して働く2人だからこその、顔には出さないが心の中にしっかりとある楽天主義。それゆえに、互いの愛を信じ続けることもできたのではないだろうか。

しかも2人は、一人で暮してはいるものの決して孤独ではない。アンサが理不尽にもスーパーから解雇されたとき、ともに働く仲間が寄ってきて彼女を守ろうとしていた。ホラッパも心を許す工場の同僚がいて、彼が窮地に立つと何かと手を差しのべてくれる。

こうした労働者同士の連帯感は1作目から少しも変わっていない。仲間を大切にする労働者の気持ちをカウリスマキは一貫して映画でも描いている。

 

〈なぜ「竹田の子守唄」なのか〉

カウリスマキの映画では音楽が巧みに使われている特徴があるが、それが際立っているのが本作だった。

物語の進行に合わせて随所に歌が挿入され、寡黙な2人に代わって歌がセリフを代弁していて、その意味では本作はまるで歌のような、詩のような映画だった。

そういえばフィンランドは古代インドの「ラーマヤナ」などと並ぶ世界三大叙事詩のひとつ「カレワラ」を生み出した国。「カレワラ」は、フィンランドに伝わる民間伝承を元に1849年までにまとめられた長大な民族叙事詩雄大な構想と想像力あふれる英雄物語で、のちのフィンランド独立運動にも大きな影響を与えたといわれる。

フィンランドは詩人の国なのだろう。

観ていて驚いたのは、いきなり日本の歌が登場したことだ。

映画が始まってすぐ、アンサがラジオをつけるとロシアのウクライナ侵攻のニュースが流れ、彼女がチャンネルを変えると、流れてきたのは「竹田の子守唄」という日本の歌だった。歌っているのは篠原俊武という人で、この人はヘルシンキで酒場を経営していて、彼の歌を聞いて気に入ったカウリスマキがスカウトし、1992年の「ラヴィ・ド・ボエーム」でエンディングにやはり日本の歌である「雪の降る町を」を歌わせている。

それにしてもなぜ「竹田の子守唄」なのか?

この歌はもともと京都地方で民謡として歌われていて、のちにフォークソングとして広まり全国的に歌われるようになった。被差別部落から生まれた歌といわれ、子守奉公のつらさを歌った悲しい歌なのだが、なぜか中国ではまるで違った歌詞で流行していて、中国人が主人公のアメリカ映画「フェアウェル」でも結婚式のときに歌われていた。

中国は隣の国だし何となくわかるとしても、なぜ遠く離れたフィンランドカウリスマキはこの歌を選んだのか?

彼は映画監督の小津安二郎を敬愛していて、小津映画からかなりの影響を受けていることは本人も語っているが、ときどき映画の中で日本の歌を歌わせるのは、小津の影響だけではないような気がする。

カウリスマキは日本の歌に、自分の国のフィンランドの音楽と通じる何かを感じているのではないだろうか?

元朝日新聞の記者で木内宏という人がいて、彼はハンガリーで聴いた民族音楽のひとつに日本の「江差追分」とそっくりの旋律があるというので興味を持ち、日本各地の追分節が海を越えてロシアを通って遠くユーラシア大陸を横断して東欧のハンガリーとつながっているのではないか、というので、いろいろ調べて本を出版している。

なぜ、ここでハンガリーなのかというと、ヨーロッパの中で、なぜかハンガリーフィンランドだけが、言語がほかのヨーロッパ諸国のインド・ヨーロッパ語族ではなくて、言語系統が全く違うウラル語族に属していて、アルタイ語族との共通性を指摘する学者もいる(かつてはウラル語族アルタイ語族は言語的に親縁関係を持つというのでウラル・アルタイ語族とされていた)。

ちなみにウラル山脈を挟んで東と西に広がる地域がウラル語族、東アジアから中央アジアに及ぶ地域がアルタイ語族

ハンガリーを構成するマジャール人は東方からきた騎馬遊牧民が起源といわれていて、フィンランドを構成するフィン人も同様にして東方からきた遊牧民といわれる。ひょっとしてマジャール人もフィン人も祖先をたどれば共通するところがあるのかもしれない。

そして、東方の騎馬民族は日本にもやってきている。それを裏付けるものとして、東洋史学者の江上波夫氏による「騎馬民族日本征服論」があるが、「征服」はどうかとしても、少なくとも騎馬文化の受容は明らかになっているから、フィンランドと日本は、やはりどかでつながっているとはいえるのではないか。

ハンガリー民族音楽追分節に通じるものがあるのと同様に、フィンランドのムード歌謡と呼ばれる曲も、聴いているとどこか日本の昭和歌謡と似ている気がする。

それでカウリスマキも日本の歌に親近感を持っていて、自分の感情を音楽であらわすものとして「竹田の子守唄」を選んだのかもしれない。

 

フィンランドは幸福の国か?〉

もうひとつ、映画を見ていて気になったのは、なぜカウリスマキは、現代のフィンランドを描く本作でも、30年前と同様に社会の底辺にいるような貧しい労働者を描いているのかということだ。

われわれ日本人がフィンランドに抱くイメージは「世界一幸福な国」であり「高福祉の国」。それなのに映画にはそんないい面は少しも出てこない。それはなぜか?

劇場のロビーで映画のパンフレットを立ち読みしたら、「ヘルシンキはパートタイマー労働者で埋め尽くされている」というカウリスマキの嘆きの言葉があった。

映画の中でも、アンサもホラッパも職を転々としていて、食べるのも困るような状況にあるし、会社の寮に住むホラッパは失業と同時に住むところまで失ってしまう。

気になったセリフがあった。彼女はスーパーマーケットに「ゼロ時間雇用契約」で雇われていた。この雇用形態は、あらかじめ決まった労働時間が明記されてなくて、仕事があるときだけ使用者から呼び出しを受けて働く契約で、働いた時間に応じて賃金が支払われる。

一見すると、会社にとっては労働者を自由に使えるので便利だし、労働者にとっても自分の都合のいいときだけ働けばいいのでやはり自由度があり、両者にとってウィンウィンで便利な雇用形態と思われるかもしれないが、実際はどうか?

現実には自由度があるのは会社の方で、必要ないとなれば声をかけなければいいわけで、労働者を簡単にお払い箱にできる。それに対して、働かなくては食べていけない労働者にとっては、そう簡単に「きょうは行きません、休みます」とはいえず、結局は会社に従属するしかなくなるのが実態のようだ。

「自由な働き方」の行き着く先が、賃金の安いアルバイトやパートタイマーの増加にほかならないのではないか。

フィンランドは「世界でも有数の柔軟な働き方が普及した国」といわれる。「就労者が勤務時間を選択できる企業が全企業の92%を占める」(2011年のデータ)との調査結果もあるが、その実態とは、会社がいつでも労働者をクビにできる雇用形態、つまりアルバイトやパートの増加であり、「ヘルシンキはパートタイマー労働者で埋め尽くされている」というカウリスマキの嘆きとなっているのではなかろうか?

実際、データで見ても、フィンランドの最新(2022年)のアルバイト・パートタイムの雇用割合は45.22%となっている(2022年のworldbank.Org調査)。

この数字は、日本37・57%、アメリカの26・47%と比べるとかなり高いが、近隣のデンマークノルウェーと比べると、デンマーク44・07%、ノルウェー49・45%で、北欧の3カ国はいずれも高い数字となっている。

一途な恋を淡々と描いているようでいて、カウリスマキは観ているわれわれに社会の矛盾を鋭く突きつけている。いや、一途な恋を描くからこそ、恋人たちに冷たい今の社会はこのままでいいの?という問いを突きつけている、といったほうがいいのかもしれない。