善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「トム・ホーン」「ラヴィ・ド・ボエーム」

カイケン・エステート・カベルネ・ソーヴィニヨン(KAIKEN ESTATE CABERNET SAUVIGNON)2021」

(写真はこのあとチキンのグリル)

チリのモンテス社が、アンデス山脈を越えて隣国アルゼンチンで手がけるワイン。

「カイケン」とはアンデス山脈の渡り鳥ガンの現地名で、チリとアルゼンチンの橋渡しの願いが込められているのだとか。

まろやかでバランスの取れた味わい。

 

ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していたアメリカ映画「トム・ホーン」。

1979年製作。

原題「TOM HORN」

監督ウィリアム・ウィヤード、出演スティーブ・マックイーン、エンダ・エヴァンス、リチャード・ファーンズワース、ビリー・グリーン・ブッシュほか。

西部開拓時代の終焉のころに実在した賞金稼ぎトム・ホーンの最期を描く。本作の公開の年に亡くなったスティーブ・マックイーンの生涯最後の西部劇。

 

かつて賞金稼ぎとして名を馳せジェロニモの追撃に貢献した伝説の男トム・ホーン(スティーブ・マックイーン)は、老いを感じる年齢となり、ワイオミング州のハガービルで牛泥棒を始末する仕事を請け負った。だが、昔ながらの早射ちで泥棒たちを射殺していくトムを町の人々は冷酷な殺人者と見なし、敬遠した。

そんな折、ハガービルの町で14歳の少年が無残に射殺される事件が起こった。目撃者はいないが、犯人は200m離れた位置からライフルで命中させる腕を持っていた。トムの名声を妬む連邦保安官のジョー・ベル(ビリー・グリーン・ブッシュ)は、トムを罠にはめ、トムが犯行を認めたといい立てた。

留置場に入れられても、虚無的な態度を変えないトム。ハガービルで最初にトムを雇った大牧場主のジョン・コーブル(リチャード・ファーンズワース)だけは、最後までトムを支持し、その無実を訴えた。しかし、時代は荒くれガンマンの存在を許さなかった。

トムは有罪・絞首刑を宣告されて刑は執行され、43年の生涯を終えた。

 

スティーブ・マックイーンは、凄腕のガンマンでありながら山に帰ることを望み、虚無的に生きたトム・ホーンに何か感ずるところがあったのか、彼の自伝をもとにした本作の製作総指揮を引き受け、主演を務めた。

マックイーンは、ワイオミング州シャイアンに出向いてホーンの墓参をすませ、1979年1月からの撮影に臨んだという。

ところが、彼は1978年ごろから持続性の咳に悩まされるようになっていた。禁煙し、抗生物質による治療を受けたりしたが改善できず、息切れはより顕著になっていて、そのさなかに行われたのが「トム・ホーン」の撮影だった。

「トム・ホーン」を撮り終えたあと、次の作品である「ハンター」に出演。「トム・ホーン」は19世紀末の西部開拓時代の賞金稼ぎの物語だが、「ハンター」は現代の賞金稼ぎが主人公であり、奇しくも新旧のアウトローを描いた映画が彼の遺作となった。

「ハンター」撮影後の1979年12月、依然として症状が改善しないため精密検査を受けたところ、アスベストが原因と考えられる悪性胸膜中皮腫というがんとわかった。その当時、悪性胸膜中皮腫は有効な治療法のない致死性のがんとされていた。

翌年の1980年2月ごろまでにはがんの転位が広範囲にわたって見つかり、標準治療以外のさまざまな治療も受けたものの病気は進行し、その年の11月に亡くなる。50歳という若さだった。

 

スティーブ・マックイーンの作品を最初に見てファンになったのはテレビドラマの「拳銃無宿」だった。

マックイーン演じる寡黙でどこか虚無的な賞金稼ぎのジョッシュ・ランダルは、銃身を切断したウィンチェスターライフルを腰にぶら下げていて、威力のあるその早撃ちが見事だった。この銃身を短くした特製ライフルはその形状から「メアーズレッグ(牝馬脚)」とあだ名されていたという。

そして、彼の最後の西部劇となった「トム・ホーン」で主人公が使っていたのもウィンチェスターライフルだった。

「拳銃無宿」のジョッシュ・ランダルが愛用していたのがウィンチェスターモデル1892の改造銃だったのに対して、「トム・ホーン」のトムが愛用していたのはウィンチェスターモデル1876。長い射程が自慢のライフル銃で、トムがこの銃を使った狙撃を得意としていたことから犯行を疑われ、それが命取りともなった。

「拳銃無宿」の賞金稼ぎで有名になり、「トム・ホーン」と「ハンター」の賞金稼ぎで終わった彼の俳優人生。そして、ウィンチェスター銃で始まりウィンチェスター銃で終わったのが彼の西部劇だった。

 

ついでにその前に観た映画。

民放のCSで放送していたフィンランド映画「ラヴィ・ド・ボエーム」。

1992年製作。

原題「LA VIE DE BOHEME」

監督・脚本・製作アキ・カウリスマキ、出演マッティ・ペロンパー、アンドレ・ウィルムス、カリ・ヴァーナネン、イヴリヌ・ディディほか。

去年の暮れから今年にかけて、フィンランドアキ・カウリスマキ監督の新作「枯れ葉」が劇場公開されるというので、テレビのCSで彼の過去の作品が何本も放送された。チャンスとばかりに観続けているうちの1本。

プッチーニのオペラ「ラ・ボエーム」で有名なアンリ・ミュルジェールによる小説を、カウリスマキ監督が「原作を台なしにしたプッチーニへの復讐をこめて」映画化したといわれる作品。

 

舞台はパリ。アルバニア出身の画家ロドルフォ(マッティ・ペロンパー)は、家賃滞納でアパートを追い出された作家マルセル(アンドレ・ウィルムス)と出会い意気投合。2人はマルセルの部屋へ向かうが、そこにはすでに新しい住人の音楽家ショナール(カリ・ヴァーナネン)が入居していた。3人は共同生活を始めるが・・・。

 

ボエームとは要するにボヘミアンのこと。

ボヘミアンにはいろんな意味があり、初期スラブ民族の一部族であったボヘミア族のことをいったりするが、北インドヒンドゥスターン起源の流浪の民として知られるロマ(ジプシー)もこう呼ばれた。

アンリ・ミュルジェールが描いたボヘミアンとは、伝統や習慣にとらわれず自由に生きる芸術家たちのことで、これら芸術家たちの多くがフランスにおいてボヘミヤからやってきたロマの人たちだったことから、流浪の人というのでボヘミアン、フランス語でボエームと呼ばれたという。

ミュルジェールは1851年に小説「ボヘミアン生活への情景」を出版したが、プッチーニ作曲のオペラ「ラ・ボエーム」とはかなり内容が違っているようだ。

オペラではロドルフォとミミの恋物語が主軸になっているが、ミュルジェールの小説では物語の中盤までミミは登場せず、ボヘミアンたちの自由気ままな生き方がリアルに描かれている。そもそもこの本は短編集であり、ミュルジェール自身、この本は一本の小説ではなく、タイトルの示す通りボヘミアンたちの生活のさまざまな生活を無秩序に集めたものであり、この無秩序こそがボヘミアンたちに不可欠なものなのだ、といっている。

カウリスマキの映画でも、ミミが出てくるのは映画の途中からであり、主役はあくまで3人のボヘミアンたち。といっても若き芸術家たちというより、年のいった中年のボヘミアンたちだが、それでも、マルセルが書いた渾身の戯曲が21幕という大作?だったり、野宿したロドルフォが朝、目を覚ましたのがミュルジェールの墓前だったり、彼らのハチャメチャぶりが描かれている。

ただし、“静”を重んじるカウリスマキだけに、ハチャメチャぶりはかなり地味で、そこが彼の作品らしい。

最後に驚かせてくれるのがエンディングの曲。何と、流れてくるのは「ラ・ボエーム」の曲でもシャンソンでもなく、日本語で歌う「雪の降る町を」だった。

もともと1951年にNHKのラジオドラマの挿入歌としてつくられた内村直也作詞、中田喜直作曲の曲で、翌年、シャンソン歌手の高英男の歌によるレコードになりヒットした。

この曲をエンディングで歌っているのがトシタケ・シノハラという人。

ハテ誰だろうと調べたら、フィンランドで酒場を経営する篠原俊武さんという人で、篠原さんが自分の酒場で歌っていたのをカウリスマキが聴き、いたく気に入って映画でも歌ってもらっただけでなく、のちにCDのプロデュースまでしたとんだとか。

 

それはいいとして、なぜ「雪の降る町を」だったのか。

映画のラストは、ロドルフォはミミと恋仲になるがミミは重い結核を患っていて、花を摘んで来てくれるようミミから頼まれて病室に戻ったとき、ミミは息を引き取ったあとだった。さみしく歩き出すロドルフォにダブるように、ギターの伴奏で野太い声の「雪の降る町を」が流れる。

 

雪の降る町を 雪の降る町を

思い出だけが 通りすぎてゆく

雪の降る町を

遠い国から落ちてくる

この思い出を この思い出を

いつの日かつつまん

温かき幸せのほほえみ

 

そうか、この歌はボヘミアンたちのレイクイエム(鎮魂歌)だったのか。