一度は引退を表明したフィンランドのアキ・カウリスマキ監督が復帰して、6年ぶりにメガホンをとった映画「枯れ葉」が、去年暮れから今年1月にかけて劇場公開されている、というので民放のCSで彼の過去作品が連続して放送された。
新作の「枯れ葉」は、彼が過去に撮った「労働者三部作」(プロレタリアート・トリロジー)と呼ばれる3本の作品の延長線上にあるのだとか。
そこで、劇場で「枯れ葉」を観る前に、テレビで放映された「パラダイスの夕暮れ」(1986年)「真夜中の虹」(1988年)「マッチ工場の少女」(1990年)を順番に観た。
まずは第1作の「パラダイスの夕暮れ」。
1986年の作品。
原題「VARJOJA PARATIISISSA」
監督・脚本・製作アキ・カウリスマキ、出演マッティ・ペロンパー、カティ・オウティネン、サカリ・クオスマネン、エスコ・ニッカリほか。
貧しくとも幸せを求めて懸命に生きる男と女のラブストーリー。
フィンランドのヘルシンキ。ゴミ収集車の運転手ニカンデル(マッティ・ペロンパー)は代わり映えのしない毎日を送っていた。同僚から一緒に独立しないかと持ちかけられるが、その男が急死してしまう。
そんな中、スーパーのレジ係イロナ(カティ・オウティネン)に想いを寄せていたニカンデルは、ある日思いきって彼女をデートに誘うが、ビンゴ大会に連れていって彼女をがっかりさせ、振られてしまう。
一方、イロナはスーパーから合理化を理由に首を切られ、その腹いせに店の金庫を持ち出し、ニカンデルの元に転がり込むが・・・。
アキ・カウリスマキの「労働者三部作」(プロレタリアート・トリロジー)と呼ばれる作品の第1作。この作品のとき彼は29歳。
アキ・カウリスマキは大学ではメディア研究を専攻したという。作家志望だったが映画に惹かれ、映画フェスティバルの主催団体の学生メンバーとして活躍したり、学生紙に映画評を書いたりしていた。兄のミカ・カウリスマキが映画製作の仕事をしていて、兄の手伝いで自主映画の製作に携わるようになる。助監督や俳優もこなす一方、新聞配達や皿洗い、煉瓦工、タブロイド紙記者などを経験していて、労働者を描くようになったのも自身の経験にもとづくところが大きいようだ。
1983年、初の長編劇映画「罪と罰」がフィンランド国内で評価され、3作目に撮った本作「パラダイスの夕暮れ」が東京国際映画祭やカンヌ国際映画祭に出品されて国際的に注目されるようになる。
くたびれて冴えない2人の主人公。華やかさがあるわけでも、夢いっぱいというわけでもなく、むしろ人生をやるせない思いで送っているような2人。どこにでもいそうな2人の愛を描いているからこそ、ひょっとしたら自分もと思わせるリアルさがあり、観ていて共感できるのかもしれない。
くっついたり離れたりした2人は結局結ばれて、映画のラストは「新婚旅行に行こう」というので2人を乗せた大型客船が出向していくシーン。遠ざかっていく船にダブって流れる曲が、日本の昭和歌謡っぽい。以前、アキ・カウリスマキの「過去のない男」でも流れていた「イスケルマ」と呼ばれるフィンランドのムード歌謡だ。
歌っているのはフィンランドのミュージシャン、ハッリ・マルスティオ(Harri Marstio)で、曲のタイトルは「Älä kiiruhda」。「急ぐな」という意味らしい。
もともとはアルメニアの作曲家が作曲した旧ソビエトの歌だったが、のちにフィンランド語のバージョンができて歌われるようになったという。
「イケルマ(Iskelmä)」とは「はやりの歌」「ヒット曲」の意味があり、日本なら「流行歌」ということだろうか。
ドイツのシュラーガー(Schlager)音楽の影響を受けていて、フィンランドの作詞家で歌手のR・R・ライナネン(1891~1963年)と作曲家のゲオルク・マルムステン(1902~981年)による造語といわれる。
シュラーガー音楽とは、ヨーロッパ独特のスタイルの軽いポピュラー音楽を指し、シンプルでキャッチーなメロディーを持つ甘くて感傷的なバラードか、軽快なポップ音楽が特徴。それがフィンランドなど北欧では、その地方の民謡の要素を取り入れ、憂鬱で悲しいテーマを扱った歌詞を持つようになっていったという。
2作目は「真夜中の虹」。
1988年製作。
原題「ARIEL」
監督・脚本・製作アキ・カウリスマキ、出演トゥロ・パヤラ、スサンナ・ハーヴィスト、マッティ・ペロンパー、E・ヒルカモほか。
仕事も金も何もかも失った男が旅の果てに得た生きる幸せを、カウリスマキふうハードボイルドタッチで描く。
フィンランド最北端のラップランド。炭鉱夫カスリネン(トゥロ・パヤラ)とその父は、鉱山の閉鎖で職を失い、絶望した父は持っていた拳銃で自殺してしまう。カスリネンは父が残したキャデラックに乗り、希望を求め南へと向かう。
だが、南に向かう途中、チンピラ強盗に全財産を奪われ、仕方なく日雇い労働に就く。そんなある日、駐車違反を取り締まるシングルマザーのイルメリ(スサンナ・ハーヴィスト)と出会い、互いに惹かれ合うようになる。「子持ちでもいいの?」とイルメリに聞かれてカスリネンは答える。「子づくりの手間が省ける」。
そして偶然、以前襲われた強盗を街で見つけ、追いかけるのだが、逆に警察に連行されてそのまま裁判にかけられ、懲役刑をいい渡されてしまう。
刑務所では、同じ房に入れられていたミッコネン(マッティ・ペロンパー)と親しくなり、ついには2人して脱獄。銀行強盗を働いて資金をつくり、カスリネンはイルメリと彼女の息子の3人で新しい人生を始めようと国外逃亡をはかる・・・。
こう書くと、不幸に不幸が重なって何と波乱万丈な展開、と思うが、カウリスマキだけに物語は淡々と進んでいく。
最後は密航することになって運び屋に金を渡して小さなボートで大型の貨物船に向かうのだが、その大型船の名前は「アリエル」で、本作の原題でもある。
「アリエル」の行き先はメキシコ。たしかに南の国だ。
そしてエンディングで流れるのがフィンランド語で歌う「虹の彼方に」。
歌っているのはオラヴィ・ヴィルタ。フィンランドタンゴの「王」とも呼ばれているフィンランドを代表する歌手だそうだ。
3作目の「マッチ工場の少女」
1990年製作。
原題「TULITIKKUTEHTAAN TYTTO」
監督・脚本・製作アキ・カウリスマキ、出演カティ・オウティネン、エリナ・サロ、エスコ・ニッカリ、ベサ・ジエリッコほか。
ささやかな幸せを奪われたマッチ工場で働く少女の復讐物語であり、カウリスマキふうサスペンス。
イリス(カティ・オウティネン)は母(エリナ・サロ)と継父(エスコ・ニッカリ)と暮らすマッチ工場で働く少女。両親は彼女の収入をあてにして働かず、質素な身なりゆえか男性との出会いもないイリスは、味気ない日々を送っている。
給料日にイリスは、ショーウィンドーで見かけた派手なドレスを買う。父親は「売春婦め!」と怒って彼女のほっぺたを叩き、母親は返品を命じるが、かまわずドレスを着てディスコに行くと、アールネ(ヴェサ・ヴィエリッコ)という男に声をかけられ、一夜を共にする。
アールネに恋したイリスは、彼を自宅へ招き両親に会わせるが、あの夜のことは遊びだったとアールネはそっけなく告げ、後日、妊娠していたことを知ると、小切手と中絶を求める短い言葉を返しただけだった。
放心して町へさまよい出たイリスは、クルマにはねられ流産してしまう。さらに、母に心労をかけたと継父から勘当され、ついに彼女の復讐が始まる・・・。
この映画がフィンランドにも近いデンマークのアンデルセン童話として知られる「マッチ売りの少女」から着想を得ているのは明らかだろう。
「マッチ売りの少女」は、大晦日の夜、ひとりの少女がマッチを売り歩いていて、彼女はマッチを売り切るまで家に帰ることができない。マッチが売れないと、酒におぼれた父親から「役立たず!」と暴力を振るわれるからだ。しかし、街ゆく人は少女に見向きもせず、ついに少女は死んでいく。
カウリスマキはどうしても本作を「マッチ売りの少女」のオマージュの「マッチ工場の少女」にしたくて、主演のカティ・オウティネンを少女に仕立てたのだろう。たしかに最初は少女ふうであったものの、だんだん29歳という役者の実年齢が映像に滲み出てしまったのは致し方ない。
本作では、父親から暴力を振るわれ、行きずりの男から冷たくあしらわれるところまでは同じだが、そのあとが違う。「マッチ売りの少女」は寒さの中、売り物のマッチを擦っては幸せの幻影を見て、ひとり孤独に死んでいくが、「マッチ工場の少女」は自分を弄んだ男、冷酷な両親に復讐する。最後には警察に捕まるが、サバサバしたという感じで潔く画面から(ひょっとしてこの世から?)遠ざかっていく。
極端に少ないセリフがこの映画の魅力でもある。
そのかわり、ときおり挿入されるムード歌謡ふうの歌がセリフのかわりをしてくれている。
エンディングの曲の題名が「Kuinka saatoitkaan」。
フィンランドの国民的歌手で「フィンランドのタンゴの王」といわれるオラヴィ・ヴィルタが歌っているが、題名の意味は「よくもまあ」とか「何てことするんですか」で、英訳すると「Oh, What You Do To Me」。
まさしく本作にピッタリの曲で、主人公の気持ちを代弁してくれている。
恋の思い出は 今はもう重荷
君の凍った眼と 冷笑が凍らせた
愛の花も もう 輝きはしない
ひどい人 愛の夢を壊して踏みにじる
愛の花も もう 咲きはしない
ああ ひどい人だ! 愛の夢を踏み殺す
「労働者三部作」の第3作は1990年につくられているが、それから30年あまりがたって、アキ・カウリスマキは新作「枯れ葉」にどんな思いを込めたのだろうか?