善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

波国・匈国(ポーランド・ハンガリー)の旅 ~その3スタニスワフ・ヴィスピャンスキ

ポーランドに行ったらぜひともこの人の作品を観たいと思った。

19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて活躍したポーランドの芸術家スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(Stanisław Wyspiański、1869~1907年)だ。

きっかけは、北海道ポーランド文化協会会誌「POLE第86号(2015年9月1日)」にロシア文学者で東京大学名誉教授の栗原成郎氏が寄稿した「スタニスワフ・ヴィスピャンスキの辞世の詩」という一文を読んだことだった。

辞世の詩は2つあったが、1つの詩は次のような内容だった。

 

わたしの墓前では誰にも泣いてほしくない Niech nikt nad grobem mi nie płacze

 

わたしの墓前では誰にも泣いてほしくない

ただひとりわが妻を除いては

きみたちの犬の空涙も 取り繕った悲嘆も

わたしには何の役にも立たない

 

わたしの柩の上で弔いの鐘を鳴らすな

慟哭の泣き歌も聞きたくない

わたしの埋葬には雨が泣けばよい

強風が吠えればよい

 

志のある者は 土の塊を

わたしの息が詰まるまで投げ込むがよい

わたしの土塚の上には太陽が照りつけ

乾いた赤土を焼くがよい

 

そしてできれば何時か 何時かまた

わたしが寝ていることにうんざりする時、

自分を閉じ込めている仮庵を毀して

太陽に向かって駆け昇るだろう

 

明確な姿をとどめて飛びゆく

わたしを、きみたちが目にした時は、

私自身の言葉をもって

わたしを呼び戻してくれたまえ

 

わたしが星となって天界への道を

通りゆく時に その言葉を聞いたなら

わたしは わたしを滅ぼそうとした労苦に

いまひとたび 挑むだろう

 

1903 年7月 22 日 リマヌフにて

 

ほとばしるような情熱がこの詩から伝わってくる。

中でも書き出しの「わたしの墓前では誰にも泣いてほしくない ただひとりわが妻を除いては」との言葉が胸を打つ。

栗原氏はスタニスワフ・ヴィスピャンスキを次のように紹介する。

19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて「若きポーランド」の芸術運動の美学理念のもとに『婚礼』『解放』『アクロポリス』などの一連の象徴劇を創作してポーランド演劇に新時代をもたらした劇作家、ポーランドの美術館を飾る肖像画、風景画の名作を世に残した画家、クラクフの聖マリア教会の内部装飾や聖フランシスコ教会のステンドグラスのデザインなど、広範な美術領域にわたって活躍した多才な芸術家。

辞世の句ともいうべき詩の1つは1903年に書かれているから、彼の死の4年前だ。

彼は短命で、梅毒を患って38 歳で世を去っている。

かつてのポーランドの首都だったクラクフで生まれ、クラクフで暮らし、クラクフで死んだのがヴィスピャンスキで、後日、クラクフに行ったら、地元のポーランド人のガイドさんはヴィスピャンスキについて「ポーランドレオナルド・ダ・ヴィンチ」と評していた。それほど多方面で天才的な活躍をする人だったのだろう。

そのスタニスワフ・ヴィスピャンスキの絵画作品が展示されているというので、国立博物館(美術館)に出かけていく。

所蔵作品の1つ、ポーランドを代表する国民的画家ヤン・マティコ作「グルンヴァルドの戦い」。

1410年に起こったポーランドリトアニア連合軍とドイツ騎士団との戦いの勝利を主題にした大作。

 

スタニスワフ・ヴィスピャンスキの作品は美術館の一番奥の方にあり、しかも一部屋まるごと彼の作品で占められていた。

パステル画が多いが、どれも傑作だ。

自画像(1902年)

枕の上で寝ている子ども(1902年)

芸術家の娘(1990年)

川の風景(1900年)

ヴィスピャンスキの妻の肖像

スミレを持つ少女(1898年)

ほかにも題名不詳だがヴィスピャンスキの作品。

これも自画像かな?

評伝によれば、父親は酒びたりの彫刻家で、母親が病気で亡くなると、父親から引き離されて叔母の養子として育てられようにる。叔母一家はブルジョアのインテリであり、この家には「グルンヴァルドの戦い」の作者でもあった国民的画家ヤン・マテイコがたびたび訪れていて、ヴィスピャンスキはマテイコにその才能を見出され、絵の手ほどきを受けるようになる。

大学で歴史を学ぶ一方で美術学校の学長だったマテイコの下でデッサンを学ぶ。学生のときにはマテイコの勧めで聖マリア教会の内装にも参加している。

その後、フランスを旅行し、そこで出会ったのがアールヌーボーの新しい風だった。パリ滞在中にはゴーギャンの知己も得たという。

帰国後は「若きポーランド」の旗を掲げてモダニズム運動を牽引し、演劇から教会のステンドグラスや家具のデザインと広範な領域にわたってマルチに活躍した。

20世紀ポーランドを代表する国民的詩人ともいわれ、1901年の戯曲『婚礼』はアンジェイ・ワイダによって1973年に戯曲と同じタイトルで映画化もされている。

ほとばしる才能によって、あんまりにすべての分野で張り切っていると、ときには肩の力を抜きたくなることもあるのかもしれない。絵画作品はどちらかというと身近な風景や人々を慈しんで描いているようで、心安らぐものがある。

それにしても、やりたいことはまだまだたくさんあっただろうに、わずか38歳で人生を終えてしまうなんて、その無念さはいかばかりか。

そういえばショパンも39歳で亡くなっている。

ショパンが亡くなったのは1849年。ヴィスピャンスキが生まれたのは、ショパンの死からちょうど20年後のことだった。

 

夜の食事は宿のレストランでポーランドの郷土料理。

左はポーランドソウルフードであるピエロギ。

小麦粉と水を混ぜ、こねてつくった生地を丸く抜き、そこにいろいろな具材をはさんで二つ折りにしてとじる。まさしくギョーザそっくり。ただし皮はギョーザよりも肉厚で、形も丸っこい。

ルーツはやっぱり中国にあり、13世紀にはポーランドで食べられていたといわれている。

伝説によれば、ヤツェク・オドロヴオンズという聖人が現在のウクライナの首都キーフからピエロギのレシピを初めてポーランドに持ってきたのが始まりだという。

その聖人は、1241年、タタール人がそのころポーランドの首都だったクラクフ(現在ポーランド第2の都市、古都であり日本の京都にあたる)に侵攻した際、ピエロギをつくって人々に配り、飢え死にから救ったという逸話が残っているのだとか。