善福寺公園めぐり

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波国・匈国(ポーランド・ハンガリー)の旅 ~その4 動き出す「額縁の中の少女」

ワルシャワ3日目は旧王宮をめざす。

まずは宿のレストランで朝食。

世界遺産に登録されているワルシャワ歴史地区(旧市街)。

その中心にある旧王宮にレンブラントの作品が展示されてある。

薄暗い部屋に並んで飾られていたのは、ポーランド最後の国王スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(1732~1798年)のコレクションだったというレンブラントの「額縁の中の少女」と「初見台の学者」(いずれも1641年)。

中でも傑作とされるのが「額縁の中の少女」だ。

ちなみにこのスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキという王さま、ロシアの女帝エカテリーナ2世の愛人であり寵臣で、彼女の後押しでポーランド国王になったものの、失政続きで結局ポーランド王国を消滅させてしまい、彼女から多額の年金を受けることで晩年を送ったという。

国は滅ぼしても美術品収集には熱心だったみたいで、国王在位中の1777年に、所有していた英国貴族から美術商を経由して2つの作品を購入している。

 

この2つの作品、かつては「ユダヤの花嫁と父親」というタイトルで呼ばれ、対の作品と考えられていたが、様式や技法上の特徴から、現在では対作品として描かれた作品でないことが判明している。

レンブラントがこの作品を描いた1641年というのは彼の画家人生において最も充実した時期にあたり、本作の翌年1642年には代表作である「夜警」(アムステルダム国立美術館所蔵)を完成させている。

「額縁の中の少女」をじっくり観ていて、気づいたことがあった。それは何と、絵の中の少女が動いていることだった!

レンブラントモナリザ」ともいわれる少女の微笑がまず印象的だ。

少女の両手は額縁の上に置かれていて、指先が額縁の外に出ている。そればかりか、右手が額縁から少し浮いていて、さらには、右耳の真珠のイヤリングが揺れているようにも見える。

何と彼女は生きていて、今にも額縁の中から外に出てきそうなのだ。

レンブラントは、何とか生きている人間を描けないかと、少女の動きを表現したのではないだろうか。

「何かをしようとしている生きた人物を描く」、それは当時、レンブラントが掲げていたテーマであり、その集大成が、翌年の大作「夜警」だったのかもしれない。

「夜警」は当時オランダで流行した集団肖像画のひとつだが、普通なら登場人物が勢ぞろいして、いわば不動の姿勢でポーズをとっているのに、レンブラントの「夜警」の登場人物はただ黙ってこっちを向いているのではなく、一人一人が違うポーズでこれから何かをしようと動き出す瞬間が見事に切り取られている。当時、オランダの肖像画界で“何かをする人物”を描いたのはレンブラントが初めてといわれる。

生命感あふれる少女を描いて自信を持ったレンブラントは、今度は集団に命を吹き込もうと「夜警」に取り組んだのであり、飽くなき画家の探求心をそこに見る気がする。

 

夜は、せっかく“ショパンの国”に来たのだからと国立歌劇場でオペラ鑑賞。

演目はプッチーニの「ラ・ボエーム」。

国立歌劇場(TEATR WIELKI - OPERA NARODOWA)はポーランドを代表する歌劇場。「TEATR WIELKI」は「大劇場」の意味で、左翼には歌劇場が、右翼には演劇用ホールがある。

1833年にイタリアの建築家アントニオ・コラッツィの設計で新古典主義建築の劇場として建てられたが、第二次世界大戦ナチス・ドイツ軍によって破壊され、1945年から1965年にかけて再建された。大劇場の舞台サイズは世界最大級を誇るのだとか。

1階は昔風で殺風景。2階はオペラの会場らしく華やかだった。

この日の指揮者はピョートル・スタニシェフスキー。

出演は、ミミ役にアドリアナ・フェルフェッカ、ロドルフォ役に中国系のテノールでロングロングほか。

演奏は ポーランド国立歌劇場の合唱団とオーケストラ。

カーテンコールではブラボーの声。

 

夕食はイタリアンの店でパスタとタルタルステーキ


翌日は3泊した宿を引き払い、ポーランド南部にある古都クラクフへ。ワルシャワ中央駅を8時41分に出発し、クラクフ着は11時05分。およそ2時間半の旅。

クラクフは、11世紀から16世紀にかけて500年以上もの間、ポーランド王国の首都として栄えた古都。第二次世界大戦ではナチス・ドイツ支配下に置かれるが、中世の建築物が残る街並みは奇跡的に戦火を免れている。

市内のあちこちで見る「オブヴァジャネック」と呼ばれるパンの屋台。

ベーグルの原型と呼ばれるものだ。

まずは旧市街の中央広場北東の角に建つ聖マリア教会へ。

星が散りばめられた青い天井が美しい。

今まで見たヨーロッパの教会にはない、とても斬新なデザインだ。

この教会の内部装飾に加わったのは、当時美術学校の学生だったスタニスワフ・ヴィスピャンスキだった。青い空から星が降ってくるようなデザインは彼のアイデアによるものかもしれない。

 

聖マリア教会は、塔から1時間ごとにラッパが吹き鳴らされることで知られている。しかもメロディーは必ず途中で途切れて終わる。

ポーランドは13世紀のころ、モンゴル帝国の侵攻を何度も受けている。

モンゴル軍がクラクフを襲撃した際、敵が迫る塔の上からラッパ吹きが命懸けでラッパを吹き、人々に急を知らせた。しかし彼は、モンゴル兵にのどを射抜かれ絶命。そのため曲も途中で終わってしまった。

そのことを忘れないため、毎時、聖マリア教会の塔の上から、南の王宮に向かってまず吹き、南西北東に向かって同じメロディーを吹く。絶命したラッパ吹きが演奏を止めたところで、いつもラッパは終わる。

現在では、地元消防隊の隊員が24時間勤務による2交代制でラッパを吹いているという。

曲は「ヘイナウ・マリアツキ」(Hejnał Mariacki、聖マリアのトランペットコール)と呼ばれ、1392年の公文書に記載されているものが最古の記録というから長い歴史を持っている。

 

モンゴル軍のクラクフ侵攻はよほどクラクフ市民の記憶に深く刻まれたのだろう、毎時、ラッパの音が生演奏で鳴り響くだけではない。

毎年、聖体の祝日からちょうど一週間後、クラクフではライコニック(Lajkonik)というお祭りが行わる。カラフルでオリエンタルな衣装に身をつつみ、作り物の馬にまたがったライコニックと呼ばれる男性がパレードをするものだが、ライコニックとはポーランドに侵攻してきたモンゴル軍をさす。

こんな伝説がある。

モンゴル軍がポーランドに侵攻し、クラクフの門の目の前までやってきたが、夜になったたので兵士たちはヴィスワ川のほとりにあるズヴィェジニエツという小さな村で休んでいた。そんなモンゴル軍の存在に気づいた村人がいた。彼は恐怖に駆られながらも他の村人たちを集め、力をあわせてモンゴルの兵士たちを退治した。それから村人たちはどうしたか、喜びのあまりモンゴルの兵士たちの服に着替え、彼らから奪った馬に乗り、勝利を伝えようと勇んでクラクフへ向かった。

ライコニックのパレードはこの伝説と同じように、中世のクラクフの衣装とモンゴル軍兵士の衣装に身を包んだ人たちがズヴィエジニツからクラクフ中央広場までを歩くもので、中央広場では行進のあとさまざまなイベントが行われる。

ライコニックたちは杖を持っていて、見物客をそれで叩きながら歩く。この杖で叩かれた人は幸せになると信じられているのだとか。

モンゴル軍はポーランドに侵攻してきても居すわることはなく、東方に去って行った。

結局はモンゴル軍を撃退したと信じたいのか、モンゴル軍を茶化すようなこんな伝統行事が行われるようになったようだ。

クラクフを走るトラムに描かれたライコニック。

車内の座席にもライコニックのデザイン。

馬に乗っていて、いかにもモンゴル風。ポーランドの人たちは、今ではまるでモンゴル軍の侵入を懐かしんでいるかのようで、意外とモンゴル人に親近感を持ってる?

そういえば、ポーランド国民にとってのソウルフードであるピエロギは、ほとんど中国の餃子と一緒。ルーツも中国だそうで、食の歴史に詳しい歴史学者によれば、中国起源の餃子などの食べ物が分布する地域は、13世紀後半に中央アジアから東欧の一部まで支配したモンゴル帝国の版図とほぼ一致しているという。ひっとしたら、モンゴル帝国が餃子を世界に広める一翼を担ったといえるのかもしれず、一方のポーランド人も、食を通してモンゴルの文化を巧みに取り入れ、ちゃっかり自分たちの文化にしちゃっているのかもしれない。

 

旧市街にあるアッシジ聖フランシスコ教会。

隣接してフランシスコ会修道院が建っている。

アール・ヌーヴォーのステンドグラスが美しい。

「父なる神 復活」と題されたこのステンドグラスはスタニスワフ・ヴィスピャンスキが制作した。

教会の歴史は13世紀にさかのぼる。アウシュビッツで被収容者の身代わりとなって殺されたコルベ神父は1919年にここで修道士となった。ポーランドロシア帝国からの独立を回復した際、この教会で最初の礼拝を執り行ったのがコルベ神父だったという。