善福寺公園めぐり

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波国・匈国(ポーランド・ハンガリー)の旅 ~その7 アウシュビッツとピルケナウ

朝、クラクフからバスで約1時間半ぐらいのところにあるアウシュビッツへ。

ここは大量虐殺の現場であり、同時に多くの被害者たちの鎮魂の場でもある。

ここでなくなった人たちの名前がえんえんと呼ばれていた。

正式名称は「アウシュヴィッツ=ビルケナウ-ドイツ・ナチの強制・絶滅収容所」といって、ナチス・ドイツによる残虐極まりないホロコースト(大量虐殺)が行われたところ。ポーランドに行ったからには、ぜひともここに行って人種差別の行き着く先がどんなに陰惨なものであるかをしっかりと目に焼き付けねばと思っていたので、唯一の日本語公認ガイド・中谷剛さんのグループツアーに参加する。

アウシュビッツというのはドイツ語で、当時のナチス・ドイツが自分たちが呼びやすいようにつけたものだが、正しくはオシフィエンチム(Oświęcim)という村にある。

1940年、ドイツ軍が接収したポーランド軍兵営の建物をナチスが譲り受け開所。始めはソ連軍の捕虜やポーランド政治犯が収容されていたが、やがてユダヤ人を中心に100万人以上に及ぶ人々の命を奪ったヨーロッパ最大のホロコースト(大量虐殺)のための絶滅収容所となっていく。

対象となったのはユダヤ人などの「劣等民族」だけではない。労働に適さない女性・子ども・老人、ロマ(ジプシー)や精神障害者身体障害者、同性愛者、聖職者、さらにはこれらを匿った人などが次々と送り込まれてきては虐殺された。

並ばされたロマの人たち。

絶滅収容所に送られたユダヤ人の圧倒的大多数は、到着してほぼすぐに毒ガスで殺された。

ナチスの将校がやってきたユダヤ人を一目見るなり「お前はこっち」「おまえはあっち」と選別している。

「お前はこっち」といわれた人はそのままガス室に送られたという。

こうした人たちを「絶滅」の対象としたのは、人はみな平等ではなく、自分たちドイツ民族こそが優秀な民族という考え方があり、社会とは、強い者のみが生き残り、弱い者や劣った者は消えていって当然だとする「優性思想」がその根底にあったのは間違いないだろう。

 

ナチスが犠牲者たちから没収した私物(身分証明書、写真、旅行鞄、眼鏡、杖、靴、宝飾品など)、義手・義足、髪の毛の山など。

女性のハイヒールもあった。ハイヒールを履いてここにやってきた女性は、まさか自分がここで殺されるとは思ってもみなかったに違いない。

 

収容所の入り口に掲げられている看板には「ARBEIT MACHT FREI」と書かれてあった。

「働けば自由になる」という意味だそうだが、実際は全くの逆だった。

 

緑が繁る向こうにあったのが、アウシュビッツの所長でナチ親衛隊幹部だったルドルフ・フェルディナント・ヘスの住宅。

残虐なホロコーストを指揮する一方で、隣にあった住宅で家族たちは“牧歌的”に暮していたと映画「関心領域」にも登場している。

ドイツ敗戦後に捕らえられ、彼がホロコーストを行ったアウシュビッツの地で絞首刑に処せられた。

それにしても思うことは、あれほどの大量虐殺がアウシュビッツやピルケナウで行われたのに、戦争が終わるまで、世界はそのことをまるで知らなかったのか?という疑問だ。

終戦直前、ナチスは自分たちの蛮行を隠すためにガス室や死体焼却場を徹底的に破壊し、重要書類の処分を行い、歩ける収容者をドイツ方面へと連行していったというから、さすがに公にできないことをやっていたという“罪の意識”はあっただろう。

しかし、1942年のはじめには、イギリスのBBCはラジオで「ユダヤ人がヨーロッパ内部の強制収容所に送られ、多数が殺害されている」と報じているという。

それなのになぜ、戦争が終わる前に救いの手が及ばなかったのだろうか?

アメリカを始めとする連合軍は、1944年春にはアウシュビッツ・ピルケナウ絶滅収容所に関する明確な情報を受け取っていて、ユダヤ人指導者の中には空からの爆撃を呼びかける人もいたという。しかし米軍は、技術的な問題などを理由にアウシュビッツを爆撃しないことを決定したといわれる。

 

ナチスドイツは、ホロコーストを単独で行なったのではないともいわれている。同盟国や協力者の支援もあったのだという。「同盟国」といえば日独伊防共協定(のちに日独伊軍事同盟)を結んでいた日本も含まれるが、まさかとは思うが、日本も暗黙のうちに協力していたのだろうか?

一方で、リトアニア領事代理だった杉原千畝が、ユダヤ人にビザの発給をしてシベリア経由で日本に入国させていた例があるから、外交官の中にはユダヤ人問題に関して人道的立場からナチスに対して毅然とした態度をとっていた人たちがいたのもたしかだ。

フランスでは、事実上のナチス・ドイツのかいらい政権だったヴィシー政権が独自の反ユダヤ的な法律を制定し、ドイツに協力していた。

第二次世界大戦が始まった1939年にはパリには15万人ほどのユダヤ人が住んでいたといわれるが、ドイツ占領下でヴィシー政権によるユダヤ人迫害が始まり、1942年7月、フランスの警察官ら4500人以上を動員してパリ市内で大規模なユダヤ人狩りを行い、このとき約4000人もの子どもを含め約1万3000人ものユダヤ人が検挙されたという。

子どもがいる家族はパリ市内にある自転車競技場に収容され、独身者や子どもがいない人たちはパリ郊外の強制収容所に入れられた。さらに人々はアウシュビッツをはじめとする各地の絶滅収容所へと送られ、終戦までに生き延びたのは100人に満たない大人のみで、子どもは生き残らなかったといわれている。

また、オランダなどもユダヤ人の検挙、収容、強制移送に協力していて、「アンネの日記」のアンネ・フランクは、ナチス占領下のオランダで迫害を恐れて隠れ家に潜んでいたところを見つかり、アウシュビッツへと送られていった。

ナチスに手を貸したフランスのヴィシー政権の流れをくむのが極右政党の「国民戦線」(現在の国民連合)だ。現党首のマリーヌ・ル・ペンの父親ジャン・マリー・ル・ペンは反ユダヤ主義、排外主義、人種主義といった思想を公然と掲げ、「ナチスユダヤ人虐殺は第二次対戦史の末梢事」と平気で語っていた人物。今、娘が党首の時代になって人気取りのため穏健主義を掲げているみたいだが、根本の考えは変わっていないだろう。

そんな、人種差別に凝り固まった極右政党が、今度のフランスの国民議会選挙で第一党に躍り出るというのだから、寒々しい気持ちになるのは私だけだろうか?