善福寺公園めぐり

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波国・匈国(ポーランド・ハンガリー)の旅 ~その8 ハンガリーのガウディ レヒネル・エデン

クラクフ駅から夜行列車で南に向かう。

めざすはスロバキアを飛び越えてハンガリーブダペスト

クラクフ22時04分発で、ブダペストの到着予定は翌朝の8時29分。

ホントは寝台に乗りたかったが、予算の都合でただの深夜列車。

定員6人のコンパートメントだが、運のいいことに乗客は3人しかいなかったので1人で2つの席を使えて、多少足を伸ばすことができた。

夜が明けて、車窓の風景。

それでも列車は遅れに遅れて、結局2時間以上も余計にかかってブダペスト到着は11時ごろ。

「遅れてすみません」のお詫びは一切なし。

 

ブダペストで、ぜひとも行きたかったところ、レヒネル・エデンの建築をめざす。

 

レヒネル・エデン(1845~1914年)は、今から100年ぐらい前の19世紀末から20世紀初頭、ブダペストアール・ヌーヴォーの建築を多く残し、スペインのガウディとも呼ばれるハンガリーを代表する建築家。

ちなみにハンガリーは日本と同じに姓が先でそのあとにファーストネームが続くので、エデン・レヒネルではなく、レヒネル・エデン。

スペイン・カタルーニャ出身の建築家アントニ・ガウディは1852年生まれで、レヒネルのほうが7歳年上だから、ガウディよりも早くアール・ヌーヴォーにめざめた建築家といえるかもしれない。

ブダペストで、まず最初に見つけたのがレヒネルの代表作のひとつ、郵便貯金局(1901年完成)。

遠くからでも、うねうねとした曲線モチーフの金色の屋根が見える。

近づいてみると、「これがお固い郵便貯金局?」と思うほどの斬新なデザイン。

一見するとガウディそっくり、いや、ひょっとしたらガウディを超えているかもしれない。2人はほぼ同時代に活躍した建築家だが、互いに出会ったことはないといわれている。それでもこれほどまでにデザインが似るものなのだろうか?

現在も貯金局として使用されているので内部見学はできないが、外から見てもレヒネルの独特の世界観がよく分かる。

特にレヒネルの、屋根というか屋上へのこだわり。地上からはまるで見えにくいのに、何でここまで屋根の上部にこだわるのか?

「鳥が見るじゃないか」というレヒネルの言葉が残っているのだとか。

 

レヒネルは、自分のアイデンティティであるマジャール民族の伝統を踏まえつつ、同時代のアール・ヌーヴォーオリエンタリズムを積極的に取り入れて、それとの融合をめざし、独自の建築の世界に挑んだ建築家だった。

レヒネルが活躍した時代、そもそもハンガリーにはアール・ヌーボーを積極的に受け入れる雰囲気があったことも事実のようだ。

世界で一番アール・ヌーヴォー建築が多いのがブダペストだといわれる。

アールヌーヴォー建築とは1890年~1915年にかけて爆発的に広がった建築様式。“新しい芸術”を意味し、花などの有機的なモチーフを建物に活かしたり、独自の装飾性を持った建築とされている。19世紀後半から第一次世界大戦がはじまるまでに隆盛を極めたが、第一次大戦をきっかけに過度な装飾を否定し幾何学的な曲線を取り入れたアールデコへと流行は移り変わっていく。

アールヌーヴォー建築が隆盛したのが20年から30年ぐらいという短い期間だったこともあり、現存している建築物の分布は非常に偏っていて、アールヌーヴォー建築の半数以上は旧ハプスブルク帝国領(オーストリアハンガリーチェコ)にあるといわれている。

都市別にアールヌーヴォー建築の保有数をランキングでみると、第1位はブダペストで989、第2位リガ(ラトビア)800、第3位オーレスン(ノルウェー)612、第4位ブリッセル260。

ハンガリーでアールヌーヴォー建築が多いのは、ハンガリーの独立機運をおさえるためにハプスブルク帝国自治を認め、街に人とお金が流入する機運が熟したことがあり、それが起点となってアールヌーヴォーの流行に乗り、多数の建築物がブタペストに建った――といわれているんだとか。

しかし、レヒネルがめざした建築は、そうした流行に乗り遅れまいとすることよりも、あくまで彼がめざした“文化の融合”にほかならなかった。

彼は文化の融合こそが真のルネッサンスを生むと考えていて、アールヌーヴォーの先進地、フランスでいろんな建築を見て回ったが、「マジャール民芸の素朴な粗さと、洗練されたフランスの文化は合わない」と悟った、とも語っている。

むしろ彼が興味を持ったのがイギリスの建築だった。とりわけ強い影響を受けたのがイギリスの植民地での建築手法で、イギリス人が植民地に何か建てるときには土着の文化に合わせたヒンドゥー風に建てるということだったという。

レヒネルは「回想録」と題する自著の中で、イギリス人は非常に進歩的で、彼らは植民地の文化を取り入れて自分たちの文化とブレンドすることを恥ずべきことだとは思っていない、と語っていて、次のように述べている。

「マジャルの民芸を勉強するとすぐ、アジア人と美術との新しい相似関係が浮かび上がりました。主にペルシャヒンドゥーの美術に目立ったこの東方の関連性こそ、とりわけ興味の対象でした。・・・かくして私はオリエント美術に没頭したのです」

こうしてレヒネルは、ハンガリーとオリエントという東西文化の融合のうえに新しいハンガリー文化の創造に取り組み、次々と独自の建築を生み出していったのだった。

そういえば、スペインのガウディの考え方にも西洋と東洋の文化の融合があり、彼が生まれたカタルーニャ地方の歴史や風土にくわえて、ヨーロッパのゴシック建築、スペインならではのイスラム建築(スペインは約800年にわたりイスラムの支配を受けてきた歴史があり、アルハンブラ宮殿などはそのなごり)などの融合がサグラダ・ファミリアに至ったのだといわれている。

 

次に行ったのが応用美術館。

まるでイスラム教あるいはヒンドゥー教のお寺みたいな外観。

ドーム形式の釣鐘みたいな形など奇抜なデザインが目につく。

あまりに斬新なので建設当初は「ジプシー王の館」と揶揄されたりしたんだとか。

 

さらに独特なのが国立地質学研究所。

これもレヒネルの代表作のひとつで、屋根も壁の装飾もうねうねしていていかにもアール・ヌーヴォーという感じだ。

内部を見ることはできなかったが、警備員さんのご好意で、ちょこっとだけ見せてもらった。

天井が貝殻みたいに見えるのは「地質」を意識しているのだろうか?