善福寺公園めぐり

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波国・匈国(ポーランド・ハンガリー)の旅 ~その6 何と再びスタニスワフ・ヴィスピャンスキ

クラクフ3日目は、1596年までポーランド王国の首都だったクラクフの王宮、ヴァヴェル城へ。

ポーランド王カジミェシュ3世の命により970年に建てられたという。

世界にその価値を認められている世界遺産。1972年にユネスコ総会で採択された世界遺産条約に基づいて決められたもので、現在では1000件以上が登録されているが、第1号となったのは1978年に登録された12件で、ポーランドはそのうち2件が選ばれている。

1つはクラクフ歴史地区であり、もう1つはクラクフの近くにあるヴィエリチカ・ボフニア王立岩塩坑。

クラクフ歴史地区には王の居城だったヴァヴェル城も含まれているから、ヴァヴェル城は栄えある世界遺産第1号ということにもなる。

 

ヴァヴェル城では、ちょうどスタニスワフ・ヴィスピャンスキの特別展が開かれていた。

「彼の目を通して丘を眺める」と題したこの展覧会は、ヴィスピャンスキの作品に描かれたヴァヴェル城のモチーフに焦点を当てた大規模で多次元の展覧会なのだとか(3月22日から7月21日まで開催)。

ヴィスピャンスキの自画像ほか。

ヴィスピャンスキは、ちょうど120年前の1904年春、ヴァヴェル城の大聖堂を舞台にした劇「アクロポリス」を書いていて、秋には仲間の建築家とともにヴァヴェル城を再構築するアクロポリス・プロジェクトに取り組んでいた。

アクロポリスとは古代ギリシャのシンボルとなった小高い丘をさすが、アクロポリスはもとも「小高い丘の上の都市」を意味していて、ヴィスピャンスキはヴァヴェル城のアクロポリス化を計画したのだろうか。

970年創建のヴァヴェル城が現在のような大規模な城塞となったのは14世紀のころで、その後も建物群の増改築が繰り返されたが、火災や戦災による破壊、さらに1596年、王都がワルシャワへ遷都されたこともありヴァヴェル王城は徐々に荒廃していった。

1795年の最後のポーランド分割後、ポーランド王国は完全に消滅し、ヴァヴェル城塞はオーストリア帝国の管理下に組み込まれ、軍事基地へと変貌する。このタイミングでさらなる大規模破壊が進み、大聖堂も破却されたという。

しかし、クラクフの市民から城塞の丘の返還請求がオーストリア帝国軍にたびたび提出され、ヴィスピャンスキがヴァヴェル城の大聖堂を舞台にした劇「アクロポリス」を書いた1904年ころはその機運が一気に高まったころという。

ヴィスピャンスキは、占領軍の手から何とかヴァヴェルの丘を取り戻すとともに、ヴァヴェルを再びポーランドの中心にしようと構想を練っていたようだ。

しかし、それから3年後の1907年、ヴィスピャンスキは38歳の若さで亡くなり、彼の夢も幻となってしまった。

 

ヴァヴェル城のあとはチャルトリスキ美術館へ。

1801年にイザベラ・チャルトリスカ公爵夫人によって創設されたポーランド最古の美術館だが、この美術館が所蔵しているのが、「モナ・リザ」と並び称されるレオナルド・ダ・ヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」(1490年ごろ)。ダ・ビンチが描いたとされる女性の肖像画で現存しているのは4作品のみとされていて、そのうちの一点が本作だ。

たぐい稀な美貌と知性でミラノ公ルドヴィコ・イル・モーロの寵愛を受け、また宮廷のミューズと讃えられた女性チェチリア・ガッレラーニを寓意的に描いたものといわれている。

ちなみにダ・ヴィンチ作品で一人の女性を描いたほかの肖像画は、パリ・ルーブル美術館所蔵の「モナ・リザ」「ミラノの貴婦人の肖像」、ワシントン・ナショナルギャラリー所蔵の「ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像」。

「白貂を抱く貴婦人」は数奇な運命をたどったことでも知られる。

もともとポーランドのチャルトリスキ公爵家1798年に購入したが、ポーランドでは1830年ロシア帝国からの独立をめざした11月蜂起が起こって、これを鎮圧しようとしたロシア軍の侵攻から守るために隠匿を余儀なくされ、いったんはドレスデンに送られ、さらにはパリに運ばれる。最終的にクラクフに戻ったのは1882年になってからという。

第二次世界大戦が起こると、ナチス・ドイツポーランド侵攻によって1939年、ナチスに強奪され、ベルリンへと送られる。その後は行方がわからなくなっていたが、第二次世界大戦終結時に連合軍兵士によってバイエルンにあるナチスの高官(ポーランド総督をしていた)の家で無事発見され、現在は元通りクラクフのチャルトリスキ美術館に展示されている。

 

その後はユダヤ人街を歩く。

途中見つけたベトナム料理の店で食事。

 

クラクフ滞在4日目は、もう1つの世界遺産登録第1号であるヴィエリチカ岩塩坑へ。

クラクフの南東約15kmに位置する小さな町ヴィエリチカにあり、1250年ごろから1950年代まで、地下奥深くで約700年稼働していた世界最古級の岩塩採掘場だ。

深さ300m以上、総延長300km以上もある坑道が、地下8層ほどにわたって広がっていて、地下約135mまでの全長約3kmの坑道が一般公開されている。

坑内のハイライトは地下約101mに位置する採掘後の空間を利用して造られた聖キンガ礼拝堂。

祭壇も壁のレリーフも全て坑夫たちが岩塩を彫り出したもの。クリスタルシャンデリアの明かりが神秘的な輝きで坑内を包み込んでいる。坑夫たちが手仕事で作ったとは信じがたいほど精巧かつ芸術的な空間に感嘆の声をあげるばかりだった。

夜は、ワインを買って帰って宿で乾杯。