東京・上野の東京国立博物館で3日まで開催の「横尾忠則 寒山百得(100 Takes on Hanshan and Shide)」展を観る。(Hanshan は寒山、Shideは拾得の意味)
本展は現代美術家の横尾忠則が寒山拾得を独自の解釈で再構築した「寒山拾得」シリーズの新作102点を一挙初公開するもの。
寒山(かんざん)と拾得(じっとく)は中国、唐時代に生きた伝説的な人物。
寒山は寒巌幽窟に住んでいたため寒山と呼ばれ、拾得は天台宗の国清寺の僧、豊干(ぶかん)に拾い養われたので拾得と称した。豊干は2人を悟りに導き、国清寺に出入りするようになった2人は食事係となって衆僧の残した残飯や野菜クズを拾い竹の筒にたくわえて食料とし、貧しい暮らしを平気で送った。
ときに奇声・叫声・罵声を発し、放歌高吟したりして非僧非俗の風狂の徒だったが、仏教の哲理には深く通じていて、2人とも詩作をよくし、ことに寒山は「寒山子詩」と呼ばれる多数の詩を残した。
本来なら、戒律を逸した行動は破戒として否定されるものだが、世俗を超越した2人の奇行ぶりはむしろ悟りの境地に達したものとして肯定的に評価され、その境地は禅宗とともに日本にも伝わり、風狂を体現した僧としては一休宗純が知られる。
寒山拾得の伝説は後世に伝わり、2人の生き方に憧れる禅僧や文人たちの格好の画題とされてさまざまな作品が残っているが、新型コロナウィルス感染症の流行のもと、横尾もまた、俗世から離れたアトリエで創作活動に勤しむ中で、寒山拾得が達した脱俗の境地に至ったようで、彼は毎日のように筆をとり、まるで「百面相」のような寒山拾得の絵画作品を描き続けていった。
いかにもグラフィック・デザイナー出身でコラージュが得意な横尾らしい作品の数々。
便器に座ってトイレットペーパを手にする寒山の姿がたびたび出てくるが、これは、寒山がいつも手にしている経典の巻物をトイレットペーパーに変えたものだとか。
あるときはマネの「草上の昼食」ふうに。
ほかにも・・・。
ところで、展覧会の会場となったのはトーハク(東京国立博物館)の表慶館だが、現在トーハクの敷地内にある展示館の中で最も古い建物が表慶館だという。
「慶びを表す」という名のとおり、1900(明治33)年、のちに大正天皇となった当時の皇太子の成婚記念で建設が計画され、1909(明治42)年に開館。
建物自体がまるで美術作品のようで、外観は美しいドーム屋根をいただくネオ・バロック様式で、入口に鎮座する2頭のライオンは一方が口を開き、もう一方が口を閉じた"阿吽"の形。
中に入ると、ドーム天井には見事な装飾レリーフ、と思ったら、巧みな陰影を施して立体的に描かれた絵だという。
1階から2階へと続く階段の優美な曲線美。
表慶館明治末期の洋風建築を代表する建物として1978(昭和53)年、重要文化財に指定されている。
横尾忠則展のあとは、せっかく来たのだからと、6月にインド最北部のラダックを旅行したこともあり、インド、中国、西域などアジアの美術品を陳列している東洋館を見て回る。
その前に、小春日和の日差しを浴びながらトーハクの野外ベンチで昼食。
敷地内で営業中のキッチンカーで売っていたジャークチキンサンドにパクつく。
東洋館で目に飛び込んできたのが美しい仏像の数々だった。
主に中国の仏像だが、インドから西域を通って中国に仏教が伝わったのは漢の時代。その後、仏教が定着していったのは南北朝時代以降で、仏像の最盛期である南北朝時代から唐時代のものが主に展示されている。
ほほえみをたたえた菩薩頭部。
6世紀の北魏時代のものという。
土曜日の午後とあって上野駅周辺はたくさんの人出。
上野公園の噴水前広場では全日本錦鯉振興会の関東甲信地区錦鯉品評会が開かれていて、優勝した錦鯉が生け簀の中で泳いでいた。
全体総合優勝に輝いた錦鯉。
オスの部で総合優勝の錦鯉。
太くて大きくて、紅白の模様が鮮やかな錦鯉だった。