善福寺公園めぐり

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「シラノ・ド・ベルジュラック」にみる異化効果

池袋駅の駅ビル・ルミネ8階にある映画館「シネ・リーブル池袋」で、ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)として製作された「シラノ・ド・ベルジュラック」を観る。

 

ナショナル・シアター・ライブ(NTLive)とは、イギリスの国立劇場であるナショナル・シアターがイギリスで上演された舞台の中から厳選した作品を収録して各国の映画館で上映するプロジェクトのこと。

現在「シネ・リーブル池袋」で上映中の「シラノ・ド・ベルジュラック」はプレイハウス・シアターで上演されたもので、エドモン・ロスタン作のフランス語の戯曲をマーティン・クリンプが英語で脚色、演出はジェイミー・ロイド、出演はジェームズ・マカヴォイほか。

 

演劇は劇場に出かけていってナマで観てこそおもしろいという先入観があるからか、ナマで観るべきものを映像で観て果たしてどれだけ芝居の醍醐味を味わえるだろうかと半分疑う気持ちを抱きつつ観たが、とてもよかった!

 

NTLiveの映像のつくり方が実にうまい。映画館のスクリーンに映し出される舞台は、どの作品も現地で観劇する一般の客と一緒に公演中に収録されている。カメラはもちろん何台も用意されていて、その設置位置は劇場の空気をしっかりと捉えられるよう慎重に決められるという。

だから全景を見たいときは後ろの席で、役者の表情をジックリ見たいときはツバが飛んでくるような最前列の席でと、好きな席に座ってる感じ。実際の上演と同じ時間経過で上映されるので、途中の休憩も実際の舞台とまったく同じで、劇場にいる気分にさせてくれる。

(休憩中の劇場内が映し出されている。休憩の残り時間も表示)f:id:macchi105:20201209150625j:plain

しかも、きのう観た「シラノ・ド・ベルジュラック」は今年のローレンス・オリヴィエ賞の演劇部門のBEST REVIVAL賞(リバイバル作品賞)に輝いた作品。

ローレンス・オリヴィエ賞はイギリスで最も権威があるとされていて、その年に上演された優れた演劇・オペラに与えられる賞。イギリス版のトニー賞とも称されるが、当初、授賞式は4月に予定されていたが新型コロナウイルスの影響で延期になって、10月に発表された。

 

シラノ・ド・ベルジュラック」は17世紀のフランスに実在したシラノ・ド・ベルジュラックを主人公にした作品で、初演は1897年。

あらすじは・・・。

シラノは、詩人で理学者で剣客で、豊かな才能と強い正義感を持った武勇者だが、生まれついての大きくて醜い鼻ゆえに従妹のロクサーヌへの恋心をじっと胸の奥に押し隠していた。そんなある日、シラノはロクサーヌから、同じ青年隊に所属している若い男クリスチャンに一目惚れしたことを打ち明けられ、クリスチャンからもまた、ロクサーヌへの恋心を打ち明けられる。

心ならずも2人の恋の仲介役をつとめることになったシラノだが、クリスチャンは美男ではあるものの詩をつくる才能も雄弁さも持っていなかった。そこでシラノが教えた通りに愛の言葉をクリスチャンがささやくと、たちまちロクサーヌはメロメロになり、めでたく結婚。ところが、ロクサーヌに横恋慕していた伯爵の策略によってシラノとクリスチャンは戦場に送られてしまう。

戦場でもシラノはクリスチャンになりかわってロクサーヌに恋文を毎日のように送る。しかし、クリスチャンはそのことを知らない。恋文に惹かれてロクサーヌは、何と戦場にまで慰問にやってくる。ロクサーヌが愛しているのは、もはやクリスチャンの美しい姿かたちではなく、彼が「書いた」恋文の内容だった。そしてシラノも、クリスチャンからの愛の言葉のうしろ盾をしていたはずだったのが、いつしかその言葉はシラノ自身のロクサーヌへの想いを重ね合わせているのだった。

やがてそれは悲劇へとつながっていく・・・。

 

かなり現代風にアレンジした芝居だった。

三方を白い壁で囲んだだけの舞台装置で、登場人物はジーンズをはいたりしてみんな普段着のまま。シラノ役のジェームズ・マカヴォイは作り物の鼻をつけるでもなく、多少メイクはしてるだろうがそのまんまの姿。ロクサーヌは黒人女性で、やっぱり普段着で登場。

しかもみんなヘッドセットをつけていて、マイクスタンドや手持ちマイクを使ったりしてセリフをしゃべるので、まるで演説会場にでもきたみたい。

ところが芝居が始まると、まさしくそこは17世紀のフランスであり、「シラノ・ド・ベルジュラック」の世界になっていくから不思議だ。脚本と演出の見事さ、そして役者たちの演技力によるものにほかならないだろう。

もともとのエドモン・ロスタンの戯曲もフランス語の韻文だったらしいが、英語のセリフも見事に韻を踏んでいた。

そのセリフに合わせて、ときおりラップのリズムを刻む音が入る。

「韻」のことを英語で「ライム(ryme)」というらしいが、ラップ(rap)も歌の頭や終わりに韻を踏むことが多いのが特徴。共通しているところがあるようだ。

 

役者たちは演技中、対話する場面でも向き合うのではなく、客席の観客を向いてセリフをいうシーンが多かった。役者たちが並んでまるで合唱でもしているようにセリフをいう場面もあった。

まるでブレヒトの異化効果というか、叙事的演劇を見るようだった。

それは、ただ三方白い壁だけの舞台装置や、普段着のままの役者たちにもいえるのかもしれない。いかにもそれらしい舞台装置や着飾った衣裳により17世紀のフランスを再現し、役者が役に成りきることで観客をドラマに引きずり込むのではなく、どこか観客を突き放すような舞台や演技によって観客に違和感を持たせ、むしろ観客に何かを気づかせる。

それがきのうの舞台ではなかったか。1日たってそんな思いに浸っている。