善福寺公園めぐり

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古川日出男作「ローマ帝国の三島由紀夫」

東京・中落合にある「シアター風姿花伝」(全100席)で、古川日出男作の1幕劇「ローマ帝国三島由紀夫」を観る。

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岸田國士戯曲賞にノミネートされるほどの評価を得ながら、なぜかどの劇団もやろうとしない戯曲の上演、というので出かけていく。

客席は満員、しかも、似たような雰囲気の(演劇志望か?)若い女性が圧倒的に多い。

 

「一般社団法人銀座舞台芸術祭」により開催中の「東京crossing舞台芸術祭」の一環として上演されたもので、演出・木村龍之介、出演・成河、七味まゆ味、舘野百代、貴島豪、岩崎MARK雄大、武谷公雄。

演出の木村は、シェイクスピア作品の連続上演を行っているシアターカンパニー・カクシンハンを主宰。成河(そんは)は舞台とともにテレビや映画にも出演していて、来年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも出演するらしい。

本作品は、「新潮」2018年10月号に掲載され、19年3月、第63回岸田國士戯曲賞最終候補の8作品に残ったもののいまだに上演されてこなかったのを、リーディング公演として舞台化した。

 

舞台には折り畳みイスが並び、背景は薄いビニールが全面を覆いヒラヒラしてるだけだが、照明によって劇的に変化していく。

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折り畳みイスは役者が座るだけでなく、車の座席となりドアとなる。

 

ときは現代。イタリア・ローマの地底。4ドアの車があり、そこに1組の男女が登場するところから物語は始まる。

女はローマ観光の日本人ガイドで、道路の陥没事故で地底に落ちてきた。そして男は彼女のストーカーでここまで追ってきたらしく、やがて女の名は三島由紀子と明かされる。家禽であるニワトリを名乗る男や、迷い込んできた旅行中の老夫婦、斧を持つ亡霊の男があらわれ、オスカー・ワイルドの「サロメ」の世界と三島由紀夫の世界が交錯していく・・・。

 

リーディング公演らしく、役者たちは台本を手にして読みながら進行していくのだが、実際には衣裳をつけ、飛んだり跳ねたりして演技していて、純粋な読んで聞かせるだけのリーディングとはほど遠い。

役者たちはト書きまで読んでいくが、聞いていくうちに、なぜこの作品が2018年に発表され、岸田國士戯曲賞にノミネートされながらいまだ上演されないかわかった気がした。

たとえば、芝居はこんなト書きから始まる。

「幕が開いた瞬間が《始まり》ではない。それ以前に、すでに物事は始まり、継続――し且つ継起――している。同様に幕が下りる瞬間が《終わり》ではない。しかしとりあえず幕は上がる」

これを演出家はどう演出したらいいのだろうか?

古川日出男は小説家であり、数々の賞を受賞しているが、一方で戯曲も書いている。実は彼の戯曲は「ローマ帝国三島由紀夫」と、もうひとつ「冬眠する熊に添い寝してごらん」がダブルで岸田賞の候補となっていて、「冬眠する熊に添い寝してごらん」は最初から上演を目的として書かれ、蜷川幸雄演出により上演されている。

しかし、本作はどうやらより小説っぽい感じで、「上演できるものならやってみろ」と演劇側に“挑戦状”を叩きつけるみたいな感じで書かれたらしい。

たしかに本来、戯曲とは上演のための台本であるはずだが、読み物としての戯曲というのもあってもいいはずで、そういうのを上演しようとすれば、これまでとは違った新しいチャレンジ、演劇的な“冒険”が必要となるかもしれない。

本作の上演にあたって演出の木村も、当日配られたチラシ(フライヤー)に、「演劇になることが前提とされない戯曲、演劇に近い人が一番遠ざけたいと思う戯曲」であるがゆえに、「だから燃えるのだ」というような意味のことを書いている。

 

たしかに、物語は複雑というか、理解不能というか、だから何がいいたいの?といいたくなる展開と結末だった。

三島由紀夫とローマ、そしてサロメの世界の共通項としてあるのは、斬首、バルコニー、そして天皇(王)だ。

45歳のときに起こしたいわゆる「三島事件」で三島は、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地のバルコニーから「自衛隊天皇にお返しするため」として憲法改正を訴えて自衛隊の決起をうながす演説をしたあと、皇居に向かって「天皇陛下万歳」を三唱。割腹自殺をとげて自分の首を切らせた。

ファシスト政権下のイタリアでムッソリーニが民衆に向かって演説したのがローマのベネチア宮殿2階のバルコニーからだった。

サロメ」は、ユダヤの王妃ヘロディアの娘サロメが、ヘロデ王の前で踊ることで預言者カナーンヨハネ)の斬首を求め、その首に接吻することで恋を成就させようとした物語。

これらのエピソードが複雑に入り組み、重なり合いながら芝居は展開していて、途中、オスプレイが飛んできて沖縄の問題まで飛び出してくる。

 

小説なら気になったところを読み返すことができるが、1回こっきりの芝居はそんなことできない。一期一会の真剣勝負なのだが、あまりに文学的すぎると、わけがわからないまま芝居は終わり、劇場からおっぽり出されるしかなくなってしまう。

それでも、役者はさすが厳選されたらしくて、みんなうまい。笑わせるところもあって、おもしろく見ることができた。

おそらく、戯曲を小説ふうに演じる、つまりリーディング公演にしたのがよかったのではないか。新しいリーディング劇をつくることで、少なくとも演劇になることが前提とされない戯曲を演劇にすることはできた、とはいえるだろう。