池袋駅西口・メトロポリタン8Fにあるシネ・リーブル池袋でナショナル・シアター・ライブ(NTLive)「ジェーン・エア」を観る。
イギリスの国立劇場ロイヤル・ナショナル・シアターで上演された舞台を映像収録し、映画館のスクリーンで上映する企画の中の1作で、シャーロット・ブロンテの小説「ジェーン・エア」を舞台化したものだが、久々に感動し興奮した舞台だった。
劇場でナマで観てたら、立ち上がって「ブラボー!」と叫びたいところだった。
とにかく芝居のつくり方がすばらしかった。
上映されたのは2015年の舞台の上演映像。演出サリー・コックソン、トム・モリス。出演マデリン・ウォーラル、ローラ・エルフィンスほか。上映時間3時間半(休憩含む)。
イギリスの作家シャーロット・ブロンテが1847年に書いた「ジェーン・エア」はあまりにも有名で、孤児となった少女ジェーン・エアが、周囲の人々の意地悪や当時の社会の因習に真正面から立ち向かい、自分の心にしたがって、間違ったことには「間違っている」とはっきり声を上げながら成長し、最後には家庭教師として住み込んだ屋敷の主人と結婚するという物語。
舞台は、その不朽の名作を原作に、自由を求めて戦うひとりの女性の姿を生き生きとダイナミックに描いている。
舞台装置は至ってシンプルで、舞台中央に白木の角材や木の板でつくられた足場とスロープ、階段などがあり、何本ものハシゴがかけられている。
ぐるりはカーテンがあるだけで、音楽のピアノやギター、ドラムなども舞台中央の足場の陰で奏でられる。
舞台装置がシンプルなだけではなく、役者も、音楽の演奏者も含めてたった10人で、ジェーン・エアは1人の役者が演じるものの、ほかの役は交代で演じられる。
ジェーン・エアの生まれたときからの物語なので、赤ん坊のときは泣く声だけで、布を丸めたものが赤ちゃんとなり、舞台の上で着替えるたびに子どもから大人へと変わっていく。役者は出ずっぱりで舞台から引っ込むことはないのに、見ていてホントにジェーン・エアが成長していくようで、それを衣服を変え、髪型をちょっと変え、表情を変えるだけでわからせる表現力のすばらしさ!
ジェーン・エアが旅をする場面も、彼女を中心に出演者が集まり、その場駆け足をしながら通過する地名を読み上げていくだけなのだが、それだけで彼女が長い旅をしているのがわかる!
何もない、ただ空間があるだけの舞台の上で、役者の演技だけで旅の世界が広がっていく。役者がつくり出す「創造の世界」がそこにある。しかし、役者だけで創造しようとしても観客がそれをわからなければ創造にはならないので、同じ世界を観客も共有していて、役者と観客とが一緒になって「創造の世界」はつくられていく。
そして、創造とは想像でもあることを実感した舞台でもあった。
圧巻は、最後に結ばれることになるロチェスターとの出会いのシーン。ロチェスターは愛犬で大型犬のパイロットとともに馬に乗って自分の屋敷に帰る途中、落馬したところをジェー・エアが助けて知り合うのだが、馬なんか舞台にいないのにちゃんと馬がいて、ロチェスターが乗っている。愛犬のパイロットはというと役者が犬を演じていて、鳴き声から動きから見事なこと!
別の場面ではロチェスターの手に小鳥がとまるのだが、鳥なんかいないのにちゃんと飛んでいるのだから不思議だ。
そういえばシェイクスピアが活躍したエリザベス期の時代の舞台というのも、青空天井で照明は一切なく、役者が「今は夜」といえばそれが夜となった。舞台装置もほとんどなく、椅子を真ん中に置けばそれが玉座というような感じだったという。
日本の能・狂言の世界も、何もない四角い空間での役者の動きだけで、あらゆる世界が表現されていた。
今回観た「ジェーン・エア」は、そうした演劇の原点に立ち返るものではなかったか。
映画の途中、休憩時間に監督と役者へのインタビュー映像が流されたが、その中で、この芝居は即興劇だが、セリフは原作である小説に忠実にしゃべった、というようなことをいっていた。
演技はかなり稽古に稽古を重ねたと思うが、セリフは台本にはなく、役者たちは原作を読み込んで、その上で即興的にしゃべっていたのだろうか。
なるほどそれだから、台本通りにセリフをいうのではなく、自分の動きから出てくる自然な言葉が、おのずとセリフになっていたのかもしれない。