善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「暗殺の森」「ライトハウス」「サイドウェイ」

スペインの赤ワイン「クリアンサ(CRIANZA)2018」

(写真はこのあと牛のサーロインステーキ)

スペイン・ソモンターノ地方でワインづくりを行っているエナーテの赤ワイン。

ソモンターノはスペイン北東部、カタルーニャ州の隣のアラゴン州にあり、ワイン産地として知られるところ。ソモンターノは「山麓」という意味で、その名の通り州北部ピレネー山脈のふもとに位置している。

ブドウ品種はスペインの土着品種のテンプラニーリョ、それにカベルネ・ソーヴィニヨンブレンド

 

ワインの友で観たのは、民放のCSで放送していたイタリア・フランス・西ドイツ合作の映画「暗殺の森」。

1970年の作品。

原題「IL CONFORMISTA」

監督ベルナルド・ベルトルッチ、出演ジャン=ルイ・トランティニャンドミニク・サンダ、エンツォ・タラシオ、ステファニア・サンドレッリほか。

イタリアの小説家アルベルト・モラヴィアの「孤独な青年(原題IL CONFORMISTA)」を原作に、過去の罪にとらわれファシズムに追随して生きる道を選んだ男の物語。2015年にデジタルリマスター版に修復されてリバイバル公開された。

 

1938年の第2次世界大戦前夜、ムッソリーニに率いられたファシスト党の時代のイタリア。

哲学講師のマルチェロジャン=ルイ・トランティニャン)はファシスト党の一員となる決心をする。彼は13歳のとき、同性愛者の男に襲われ男に拳銃を発射した過去がある。それがトラウマになり罪悪感にさいなまれていたマルチェロは、異端になることを恐れて体制順応者として生きようと、世間の流れに乗ってファシズムを受け入れるのだった。

そんな彼に、パリ亡命中で反ファシズム運動を展開している大学時代の恩師ルカ・クアドリ教授(エンツォ・タラシオ)を調査するよう密命が下る。ハネムーンを口実にパリに赴いたマルチェロと妻ジュリア(ステファニア・サンドレッリ)は快く教授に迎え入れられるが、恩師の若妻アンナ(ドミニク・サンダ)には目的を悟られてしまうが、マルチェロはアンナの美しさの虜になり、アンナもまた彼を誘惑する。

そんな中、組織の指令は、身辺調査から教授の暗殺へと変わっていき・・・。

 

のちに「ラスト・タンゴ・イン・パリ」「ラストエンペラー」などの作品を世に送り出すベルトルッチ監督29歳のときの作品。

少年のころの忌まわしい記憶を葬るためファシズムに追従して生きる主人公の運命を、ときにアングルを変え、光と影が織りなす官能的ともいえる映像美で描く。

ナイトクラブでのダンスシーンなどの名場面も印象的だが、強烈な光と影に彩られていて、映像が主役の映画といっていいほどの作品。

映像が物語を“語って”いて、反ファシズムファシズムも光と陰で表現されている。

象徴的なのが、マルチェロが大学時代の恩師クアドリ教授と会うシーン。「先生は教室に入ると窓を閉めていたのを覚えていますか?」とマルチェロが話しながら窓を閉めると、室内は闇に包まれ、片方の窓からの光に照らされて反ファシズムの教授の姿がシルエットで映し出され、ファシズムに味方するマルチェロの姿は闇に包まれて見えない。反ファシズム=光、ファシズム=闇が明確に対比されている。

 

本作は魅惑的な映像美もさることながら、重要なメッセージが込められていることも見逃してはいけないだろう。

それは「IL CONFORMISTA」という原題からも明らかだが、その意味するところは「同調者」とか「対従者」ということになる。

子どものころの性犯罪のトラウマにさいなまれたマルチェロは、異端を恐れて、なるべく世間の動きに順応になろう、普通で正常な生き方をしようと、そのころのイタリアを支配していたファシズムに身をゆだねる。

世の中の動きに逆らってといけないという体制順応、他者追随の生き方が、結果的に自分も含め人々をいかに不幸に追いやるかを明らかにしているのだ。

そもそもファシズムの語源からして、イタリア語の「ファッショ」に由来していて、「ファッショ」とは「束(たば)」「集団」「結束」の意味だというから、人々を縛りつける意図が根底にはあるのかもしれない。

イタリアだけでなく、ドイツでも、日本でもそうだったが、人々が「縛られた人」となって体制に順応していった先が、何千、何百万人もの人の命を奪った戦争の惨禍だったことは歴史が明らかにしている。

日本でも、ファシズムという「異常」は「正常」なこととされ、ファシズムに反対することは「異常」「異端」とされた。やがてファシズムに反対しなくてもその政策を批判するだけで「異端」とされ、「戦争反対」などと口にすれば官憲からだけでなく同じ国民同士のまわりからも「国賊」といわれ、少しでも厭戦気分など見せようものなら「非国民」といわれるようになっていった。

その意味では、本作の主人公のマルチェロは観客にとっての“写し鏡”だったかもしれない。

 

ついでにその前に観た映画。

民放のCSで放送していたアメリカ映画「ライトハウス」。

2019年の作品。

原題「THE LIGHTHOUSE」

監督・脚本ロバート・エガース、出演ウィレム・デフォーロバート・パティンソンほか。

外界から遮断された孤島を舞台に、2人の灯台守が次第に狂気と幻想の中にさまよい、人間としての極限状況に至る姿を描いたホラー&スリラー。

 

1890年代、ニューイングランドの孤島に2人の灯台守がやってきた。 彼らにはこれから4週間、灯台と島の管理を行う仕事が任されていた。だが、年かさのベテラン、トーマス・ウェイク(ウィレム・デフォー)と未経験の若者イーフレイム・ウィンズロー(ロバート・パティンソン)はそりが合わず、初日から衝突を繰り返す。 険悪な雰囲気の中、やってきた嵐のせいで2人は島に閉じ込められてしまう・・・。

 

1801年に起こった2人の灯台守をめぐる悲劇を元にした映画という。

実話の舞台なったのはスモールズ・ライトハウスというイギリス・ウェールズにある灯台。2人の男が灯台守として派遣されたが、仲が悪く、しょっちゅうケンカしていて、1人は途中、事故で死んでしまう。そこに嵐がやってきて、閉じ込められた男は腐乱していく死体と何カ月もすごすはめとなる。嵐が去って職務から解放されたとき、彼の精神は破壊されていた。この出来事以来、当局は規則を変更し、灯台守を2人から3人体制に変更したという。

本作は、この実話を元に、神話や古典文学のエッセンスを混ぜ込んで、おどろおどろしい狂気と幻想の世界をつくり上げた。

 

モノクロで、しかも横長ではなく昔の映画と同じスタンダードサイズの画面。

映画が始まって最初のころは無言の場面が多く、若い灯台守が重い荷物をかついで黙々と歩くシーンを見て「この映画は新藤兼人監督の『裸の島』だ!」と思った。

2人が諍い、罵り合い、狂気に走るところはやはり新藤監督の「人間」「鬼婆」を彷彿させた。

「裸の島」(1960年)は、瀬戸内海に浮かぶ小さな、それこそ何もない丸裸の島で暮らす家族の過酷な日々を、セリフのない、映像だけで描いたモノクロ作品。この映画が評価されたのは日本国内より海外で、61年のモスクワ国際映画祭グランプリ受賞を始め、さまざまな国際映画祭で賞を受けた。

痩せたこの島には水がないため、毎日、手漕ぎ舟で隣の島から水を運んできては畑に水をやらなければならない。急斜面を天秤桶を担いで運ぶ女(乙羽信子)の姿は、「ライトハウス」でよろよろと重い荷物を運ぶ若い灯台守の姿そのままだった。

やはり新藤兼人の作品である「人間」(1962年)は、食料はおろか水まで失ってしまった難破船に乗り合わせた4人の漁民の物語。不安と飢餓の中、自分だけ生き抜こうと壮絶なたたかいが始まり、人間の恐ろしいまでの業が描かれている。

「鬼婆」は、戦国時代を舞台に、落ち武者を殺しては武具・甲冑を売りさばく姑と嫁の物語。嫁が若い男と懇ろになったことから、嫉妬した姑は般若の面をつけて2人を恐怖に陥れる。ところがその般若の面が取れなくなってしまう・・・という仏教説話が元になったホラー映画。

新藤監督は「原爆の子」など社会派の作品でも知られるが、日本のインディペンデント映画の先駆者であり、性のタブーに挑戦したりして冒険的な作品も発表していて、表現の自由や思想の自由をとことん追求した人。

彼は32歳のときに招集され二等水兵として戦争を体験。このときに感じた「人間とは何か」「人はどう生きるか」が映画づくりの原点となったと語っていて、人間の苦悩と生きる力を描いた映画を発表し続け、2012年に満100歳で亡くなった。98歳で監督した「一枚のハガキ」が遺作となった。

新藤監督の作品の中でも「裸の島」や「人間」「鬼婆」は本作とも通じるところがあり、きっと監督のロバート・エガースは新藤作品を観ているはずだ、スタンダードサイズのモノクロ映画にしたのも新藤作品からの影響ではないか?と思ったら、実は何と、彼は「観るべき世界のホラー映画10作品」の中に新藤監督の「鬼婆」をあげていた。

彼はアメリカ・ニューヨークの生まれだが、6歳のとき、家族とともにニューハンプシャー州に移住している。ニューハンプシャー州はカナダのケベック州と国境を接しているが、そのカナダでは新藤の人気がとても高く、「裸の島」はカナダで最も上映回数の多い日本映画といわれていて、「鬼婆」は映画の古典と評価されている、という話が、「キネマ旬報1984年11月号のモントリオール国際映画祭報告の中に書かれているとWikipediaが紹介している。

カナダでの人気は隣国アメリカにも伝わっていって、エガース監督もいつのころか「裸の島」や「人間」「鬼婆」を観ていたかもしれない。少なくとも「鬼婆」から影響を受けているのは、本人が語っていることだから間違いないが。

 

民放のCSで放送していたアメリカ映画「サイドウェイ」。

2004年の作品。

原題「SIDEWAYS」

監督・脚本アレクサンダー・ペイン、出演ポール・ジアマッティトーマス・ヘイデン・チャーチヴァージニア・マドセン、サンドラ・オーほか。

ワイン・テイスティングの旅に出た中年男性2人組が織りなす人生の寄り道と恋愛模様をユーモラスにつづったロードムービー

 

カリフォルニア州ロサンゼルスに暮らす高校教師で、国語を教えているマイルス(ポール・ジアマッティ)は、小説家志望だがなかなか芽が出ない。ワイン通の彼は、親友で1週間後に結婚を控えているイマイチ売れない俳優、ジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)を誘ってカリフォルニア州サンタバーバラ郡のワイナリーを巡る旅に出る。

しかし、独身最後のひとときを極上のワインとゴルフで楽しもうというマイルスの思いをよそに、プレイボーイのジャックは女をひっかけることしか頭になく、ワイナリーで知り合ったステファニー(サンドラ・オー)と関係を持ってしまう。

一方、マイルスはステファニーの友人でワイナリーで働くマヤ(ヴァージニア・マドセン)に惹かれるが、彼は離婚の傷を引きずっていて、積極的になれずにいるうち・・・。

 

ピノ・ノワールの生産地として知られるサンタバーバラが舞台。それまでカリフォルニアワインといえばカベルネ・ソーヴィニヨンが主流だったのが、アメリカ市場にピノブームを巻き起こした地域。映画では、サンタバーバラの実在のワイナリーやレストラン・バーなどが登場していて、この映画のおかげでサンタバーバラがますます有名になったといわれる。

映画の中でのピノ・ノワールの持ち上げ方がなかなかニクイ。

カベルネは放っておいてもちゃんと成長するけど、ピノは手が掛かる育てるのが厄介で気難しい。だけど、愛情を注いで手間暇をかけた分だけ報われる」

登場人物たちの“ピノ愛”が熱いが、ワイナリーに勤めるマヤのこんなセリフも。

「ワインは生き物よ。わたしはブドウの成長に沿って1年を考える。太陽は照ったか、雨はどうだったか。ブドウを摘んだ人々のことを考える」

「きょう開けたワインは、別の日に開けたものとは違う味がするはず。どのワインも生きているからよ。日ごとに熟成し、複雑になっていく。ピークを迎える日まで。そしてピークを境に、ワインはゆっくり坂を下り始める。そんな味わいも捨てがたいわ」

 

本作は、アカデミー賞で脚色賞を、ゴールデングローブ賞で作品賞を受賞している。

原題は「SIDEWAYS」。単数形だと「脇道」「横道」という意味でしかないが、Sがつくと「横向き「斜めに」さらには「好色な流し目で」みたいな使われ方もするようだ。

人生は真っ直ぐじゃなく、横道、脇道を通って、横を向いたり斜めに向いたりもするし、ときには流し目を使うときだってあるかも、といいたいのかもしれない。

ワインオタクといっていいほどワインに詳しい中年男のマイルスだが、離婚した妻は別の男と結婚して子どもも生まれるみたいだし、書いた小説を出版社に送ったもののボツになってしまい、作家として生きていく自信もない。彼がワインに夢中になるのも、やり場のない人生の憂さを晴らすためでもある。そんな彼が旅で出会ったのが、彼と同じぐらいワイン愛に燃えるマヤ。彼女とのワインについての語らいは、いつしか人生についての語らいになっていって、ワイナリーをめぐる旅はいつしか自分の人生を見つめなおす旅に変わっていく。

 

観ていて、本作の前に紹介した「ライトハウス」同様、「どこかで観たことのあるなー」としばしばデジャブ感(慨視感)に襲われたが、今回は小津安二郎の映画だった。

普通の人が主人公で、どこか人生を語っているふうな映画というのも「小津」らしいし、長回しとか、カメラに向かって正面に近い角度でセリフをしゃべる正面向きのショットなど、随所に「小津」が出てきた。

それで気になって、観終わったあとに脚本も書いたアレクサンダー・ペイン監督について調べた。すると、カリフォルニア在住の映画評論家・町山智浩氏によれば、ペイン監督にとってのベストワンの映画は小津の「東京物語」であり、彼は小津安二郎映画を撮りたくて映画監督を始めたのだそうだ。

ペイン監督は来日すると、毎回、小津監督と、もう一人敬愛する黒澤明監督の墓参りに行くことにしているという。

それだけ傾倒していれば、自分がつくる映画にもどうしたって小津の影響が出るだろうし、実際そう願いながら映画づくりをしているのかもしれない。