善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「晩春」「宗方姉妹」「麦秋」

イタリアのスパークリングワイン「フランチャコルタ・ベラヴィスタ・ブリュット(FRANCIACORTA BELLAVISTA BRUT)2018」

(写真はこのあとオイスターとマッシュルームのパン粉焼き、牛ステーキ)

「フランチャコルタ」は、北イタリア・ロンバルディア州東部のフランチャコルタ地方で瓶内二次発酵方式によりつくられるスパークリングワイン。

ミラノのスカラ座とのコラボでつくられたのでスカラ座ファサードが描かれたボックス入り。

シャルドネ75%、ピノ・ネロ25%で、フレッシュな甘さとほどよい酸味でフランスのシャンパンとはまた違ったおいしさ。

 

映画監督の小津安二郎の生誕120年、没後60年を記念して、「晩春」(1949年)「宗方姉妹」(1950年)「麦秋」(1951年)の3作品がテレビで放送されていたので収録しておいて、製作順に観る。「晩春」は彼の監督人生の中での後期の小津スタイルが確立された最初の記念碑的作品であり、その路線を確かにすべくつくられたのが「宗方姉妹」と「麦秋」だった。

 

「晩春」(1949年の作品)。

監督・小津安二郎、脚本・小津安二郎野田高梧、出演・笠智衆原節子月丘夢路杉村春子青木放屁宇佐美淳三宅邦子三島雅夫ほか。原作は広津和郎の小説「父と娘」。

大学教授の周吉(笠智衆)は早くに妻に先立たれ、娘の紀子(原節子)と2人きりで鎌倉に住んでいる。紀子は家事手伝いをしているが、戦争中の無理がたたって一時体を害した時期があったため、27歳になっても独身でいる。

親友の北川アヤ(月丘夢路)から、結婚したものの夫のひどい仕打ちに今は出もどりという話を聞いたり、父親の昔からの友人である京都の大学教授・小野田(三島雅夫)が上京した折り、後妻をもらったと聞いて、「そんなの不潔よ」という紀子は、結婚しないでずっと父といるつもりで、父もまた娘の面倒を何にくれとなくみてやっていた。

周吉の妹まさ(杉村春子)が盛んに縁談を勧めるが、紀子は頑なに受け入れようとしない。このままでは娘は一生独身のままだと心配した周吉は、紀子に自分も再婚を考えていると告げる。それを聞いて、ずっと父と2人で暮したかった紀子だったが、ついに縁談を承諾。紀子は結婚し、結婚する気のなかった周吉は一人ぼっちになる。

 

「宗方姉妹(むねかたきょうだい)」(1950年の作品)。

監督・小津安二郎、脚本・小津安二郎野田高梧、出演・田中絹代高峰秀子上原謙山村聡笠智衆高杉早苗、斉藤達雄ほか。

文芸路線に力を入れていた新東宝から招かれ、小津安二郎が初めて松竹を離れて製作した作品。戦後の一時期、映画界には五社協定(松竹、東宝大映、新東宝東映)というのがあり、専属の監督や俳優は自由に他社の作品を監督したり出演することはできなかったが、五社協定が結ばれるのは1953年なので、他社との交流も容易だったのだろう。

原作は大佛次郎

 

京都に住む宗方忠親(笠智衆)には2人の娘がいた。長女の節子(田中絹代)は結婚しているが夫の三村(山村聡)は失業中で、節子がバーを経営して家計を支えていた。妹の満里子(高峰秀子)は未婚で、姉夫婦と一緒に暮らしているが義兄を嫌っている。

忠親はがんで余命半年と宣告されたが、妹の面倒を見たり、失業中の夫を抱えてバーで働く姉の身の上を案じていた。

何ごとにも保守的な姉・節子と、新しいもの好きで奔放に生きる妹・満里子。その2人の前にパリ帰りの田代(上原謙)がやってくる。彼は姉の節子の元カレだった。

満里子は、なぜ田代と結婚しなかったのかと節子に聞く。すると彼女は、自分の気持ちに気づくのが遅かったからと答える。満里子は、どうにかして姉を義兄と別れさせ、もう一度2人をやり直させたいと願い、三村に「姉さんが可哀想だ」と啖呵を切る。

ついに三村は節子に離婚話を持ちかけるものの、心臓発作で急死してしまう。これで節子と晴れて田代と結ばれるかと思われたが、節子は、夫の死を背負ったままでは再婚できないと打ち明けるのだった。

 

麦秋」(1951年の作品)。

監督・小津安二郎、脚本・小津安二郎野田高梧、出演・原節子、菅井一郎、東山千栄子笠智衆三宅邦子杉村春子、二本柳寛、淡島千景佐野周二ほか。

間宮周吉(菅井一郎)は北鎌倉に住む老植物学者。長男の康一(笠智衆)は医師で東京の病院に通勤し、康一の妹で28歳の紀子(原節子)は丸ノ内の貿易会社の専務・佐竹(佐野周二)の秘書だった。

彼女は佐竹から、40歳という年齢だが四国の名家の次男との見合いを勧められる。母親の志げ(東山千栄子)は相手の年齢を気にするが、康一は紀子の年齢ならぜいたくはいってられないという。紀子も幾分その気になるが、古くから間宮家と親しい矢部たみ(杉村春子)の息子で、康一と同じ病院に勤める医師の謙吉(二本柳寛)が、急に秋田の病院へ転勤すると決まったとき、謙吉こそ自分の結婚すべき相手だったことに気がつく。謙吉は間宮家の戦死した次男の友人で、紀子の幼なじみだった。

謙吉には亡き妻との間に3歳の女の子がいた。間宮家では、連れ子のいるところより40歳だが初婚で資産もありそうな見合い相手のほうが相応しいと考えたが、紀子の意思は固かった。紀子は結婚して秋田に去り、周吉夫婦も大和に隠居することにし、間宮家はバラバラになる。初夏、大和に引っ込んだ老夫婦は、豊かに実った麦畑を眺めながら、今までのことを思い出すのだった。

 

「晩春」は、娘の結婚や親の孤独を題材にした家庭劇(ホームドラマ)を小津が初めて描いた作品であり、「小津調」といわれる製作手法も含め小津映画のスタイルを決定した作品。

小津が原節子と初めてコンビを組んだ作品でもあり、本作および「麦秋」(1951年)、その後の「東京物語」(1953年)で原節子が演じたヒロインはすべて「紀子」という名前であり、この3作品をまとめて「紀子三部作」と呼ぶこともある。

また、3作品の脚本を小津と共同で書いた野田高梧は、小津の監督デビュー作(「懺悔の刃」1927年)でも脚本を担当していて、以来つながりは深いが、戦後になって最初に小津映画で共同で脚本を書いたのが「晩春」だった。その後、小津作品のすべての脚本を小津と共同で書いている。

 

小津作品について、日本映画を研究・評論し日本映画を海外に紹介した業績でも知られるドナルド・リチーが「小津安二郎の美学 映画の中の日本」で書いていることが興味深い。彼はいう。

「(小津は)主要な題材としては日本の家庭、主要なテーマとしてはその崩壊しか扱わなかった。彼が監督した五十三本の劇映画に、崩壊しつつある日本の家庭があらわれている」

さらにリチーはこう述べる。

「小津作品には幸福そうな家庭が少ない。初期の作品では、家庭の危機が克服されるのが時おり見られるが、円熟期のほとんどの作品では家族の別離が見られる。

小津作品の登場人物はたいてい、自分の生活にごく満足しているが、そこにはいつも、家族がまもなく今までとは違った状況になるだろうという兆(きざ)しがある。娘が結婚し父か母かが一人ぼっちになる。親が不意にやってきた子供たちと一緒に暮らすことになる。母か父が死ぬ、などである。

家庭の崩壊は破局である。というのは、アメリカでは家族から離れるということは成熟の証拠であるが、日本ではこれと対称的に自我の意識が、ともに生活し、学び、働く人たちにかなり依存しているからである。家庭(あるいは氏族、国家、学校、そして会社)を自己と同一視することは、自己認識にとって必要なのである」

 

たしかに、戦前の明治憲法下の日本では、一家の長である家長(男)が家族に対して絶対的な支配権を持つ家父長制や、男尊女卑の家族制度が基本であり、人々は「家」に縛りつけられてきた。その考えはそのまま国家形態にも持ち込まれ、国家を家族の集合体とみなして天皇が“家父長”となり、家族の成員(つまり国民)に対して絶対的な支配権を持ってきたのが戦前の日本という国だった。

戦後になって、そうした旧来型の親と子や家族についての考え方は変わっていく。リチーがいうような小津が描く「家庭の崩壊」とは、そうした旧来型の親と子や家族の崩壊をいっているのだろう。

「晩春」では、母はすでに亡くなっていて、娘の結婚により一人ぼっちになった父親の孤独が描かれる。

「宗方姉妹」では、不幸な結婚をした長女の家庭の崩壊が描かれている。

麦秋」でも、娘は秋田に嫁に行き、兄は鎌倉に残り、年老いた両親は大和に引っ込んで、娘の気持ちとは違って親も兄ももっと良家のお嫁さんになれたのにという忸怩たる思いのまま離れて暮らすようになる。

 

小津自身は自分の作品について何といってるかというと、しばしば「もののあわれ」という言葉を口にしていて、「私の映画は、もののあわれということだ」というようなことをいっている。

もののあわれ」とは、もともと本居宣長が提唱した平安時代の文芸の美的理念のことで、優美・繊細・沈静・観照的の理念とされる。古くは喜怒哀楽のすべてにわたって発せられる言葉だったようだが、今は「物の哀れ」と書くように「哀」の意味合いが強い。

小津が「もののあわれ」というとき、そこには旧来の「家」や「家族」に対する哀惜の気持ちや、諦観といったものが滲んでいるのかもしれない。