善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

大阪・中之島美術館モディリアーニ展+魚はん・山下食堂

仕事で大阪へ。ついでに1泊して、今年2月にオープンしたばかりの中之島美術館で開館記念特別展「モディリアーニ‐愛と創作に捧げた35年‐」(4・9~7・18まで)を観る。

 

まずは前日、泊まった心斎橋の宿近くにある「魚はん」でイッパイ。

生ビールのあとは日本酒。

料理はコース料理をいただく。

魚は新鮮、親方も笑顔を絶やさずきびきびと働いていて、楽しいひとときをすごす。

先付けはタケノコとマダラ卵の炊き合わせ、豆腐、ヤマイモのウニ乗せ。

カツオの生とタタキ。

刺身盛り合わせ(マグロ中トロ、桜ダイ、甘エビ、アワビ)。

里芋だんご(中にエビ)のあんかけ。

タチウオの塩焼き。

タイのカブト煮。

ポテトサラダ(ホタテ入り)。

ホタルイカ富良野のアスパラの天ぷら。

タイと新ショウガの炊き込みご飯。

ミツバとシジミの味噌汁。

最後にこの時期としては珍しいホオズキまでいただく。

おいしい料理とおいしい酒を堪能した夜だった。

 

翌朝は中之島へGO!

途中、スズメがたわむれていた。

中之島は川と川にはさまれた中州にできた街だが、その歴史は徳川方と豊臣方で争った大阪の陣の時代にさかのぼる。大阪の陣のあと、大阪屈指の豪商・淀屋によってこの地域の開発が始まり、土地の利を生かして諸藩の蔵屋敷が集中したことから「天下の台所」と呼ばれ大阪の中枢を担うようになる。

世界初の先物取引所といわれる「堂島米市場」があったのもこのあたりだ。

明治になると諸藩の蔵屋敷は払い下げられ、大阪のビジネスの中心地となっていく。

同時にこの地域には大阪府中之島図書館や大阪市中央公会堂大阪帝国大学などもあり、ビジネスと文化が融合する地域ともなっていった。

 

午前9時オープンの中之島図書館内にある「スモーブローキッチン・ナカノシマ」で朝食。

中之島図書館は1904年(明治37)竣工で建物は重要文化財に指定されている。その中にできたお店というので、シックで落ち着いた雰囲気。

「スモーブロー」とはデンマーク料理のひとつだそうで、デンマーク語で「バターとパン」を意味していてデンマークをはじめ北欧でよく食べられているオープンサンドのことだという。

食後は図書館の中を見て回る。

あらためて外観を見る。さすがに立派だ。

 

中之島図書館のすぐそばにあるのが、2月に開館したばかりの中之島美術館。

ここはもともと広島藩蔵屋敷があったところで、その後は大阪大学医学部がここにあり、同大学が吹田市に移転したのち、その跡地に計画されたのが中之島美術館だった。

同美術館建設の計画は今から40年近く前の1983年に、大阪市制100周年記念事業の1つとして始まり、1989年、美術館の目玉にしようとモディリアーニの「髪をほどいた横たわる裸婦」を19億3000万円で購入。

当時はまさにバブルの時代。「税金の無駄遣いだ」という批判の声も何のそのだったようだが、バブルがはじけて建設計画は遅々として進まず、40年かけてようやく開館に漕ぎ着けたようだ。

オープンを記念する特別展を「モディリアーニ展」したのも、何となくうなずける。

展示作品は撮影禁止だったが、撮影オーケーだったのが同館所蔵の「髪をほどいた横たわる裸婦」(1917年)。

購入当時19億3000万円だったのが、今では10倍の評価額にはね上がっているとか。

 

同じく撮影オーケーだったのが女優のグレタ・ガルボが所蔵していた「少女の肖像」(1915年ごろ)。

グレタ・ガルボスウェーデン生まれでハリウッドのサイレント映画、トーキー映画の初期に大活躍した女優。映画界を引退してから美術品収集に力を入れたという。

 彼女のニューヨークの広大な住宅の壁一面に約100点の絵画があったと伝えられている。

今回の展覧会は、フランス、イギリス、ベルギー、デンマーク、スイス、アメリカなど国外から、さらには日本国内の美術館や個人所蔵の作品など約40点のモディリアーニの代表作が展示されている。

日本初公開作品もあり、さらにモディリアーニが生きた時代の解説も詳しいし、彼と同時代なおかつ一緒に活躍した作家の作品も展示されていて、モディリアーニの世界を深く知ることのできる展覧会だった。

 

モディリアーニについて、今まで知らなかったことがわかったのが大収穫だった。

アメデオ・モディリアーニ1884年1920年)はイタリア・トスカーナ地方のユダヤ人の家庭に生まれ、主にパリのモンパルナスで活躍しエコール・ド・パリ(パリ派)の画家の1人に数えられている。

彼の作品の特徴は、顔と首が異様に長いプロポーションで、目には瞳を描き込まないことが多いが、その理由の1つは、彼がもともと彫刻を学んだことだといわれている。

モディリアーニの写真も残っているが、顔が長いわけでもひょろ長い背丈でもなく、とてもいい男でたくましそうで、女性にモテそうな感じだ(実際には若いころに結核を患っていて体が弱く、彫刻家になろうとして断念したのは体力がなかったからといわれている)。

 

そしてもう1つ、何より重要なのは、モディリアーニはアフリカの仮面の影響を強く受けていたことだ。

この時代、パリの画家たちはそれまでの西洋絵画に飽き足らず、非西洋の表現に強く惹かれる風潮があったという。

モディリアーニはパリでアフリカの仮面を観る機会があり、非西洋の素朴で力強い造形に接して衝撃を受けたようだ。

そういえば、モネやゴッホは日本の浮世絵の虜になったし、エゴン・シーレは独特の手の造形をインドネシアの人形劇ワヤンクリから学んでいた。

 

帰宅したあと、アフリカを旅したときに買ってわが家の壁に飾ってあるアフリカの仮面をあらためて見てみると、たしかに細長い。

 

もうひとつ今回の展覧会で知ったのは、モディリアーニはただただ極貧の中で孤独のまま死んだわけではなかったということだ。

本ブログの筆者のモディリアーニについてのイメージは、ジェラール・フィリップとアヌーク・エーメ主演の「モンパルナスの灯」(1958年)という映画に寄るところが大で、生きているうちは絵がまったく売れず、極貧のまま孤独の果てに35歳で亡くなったモディリアーニと、彼の後を追って身重の体で自殺をとげた妻のジャンヌの悲しい夫婦愛が心に残ったままとなっている。

しかし実際には、貧しかったのは事実のようだが、一時期パトロンもいて、個展を開いたりしていて、画家の仲間も数多くいたようだ。

ただし酒癖は悪かったみたいで、飲んだくれてはモンパルナス界隈を徘徊していたとか。

モディリアーニの大の親友だった人物にキスリングがいる。

本展にも何点か出品されていて、どれもいい作品だが、キスリングは仲がよかったもののモディリアーニのような破滅型の人生とはまるで反対で、家庭も円満で幸せな生涯を送ったといわれる。

 

一方、こんなエピソードもある。

彫刻家のジャック・リプシッツは、妻との肖像画モディリアーニに依頼した。値段は1回のポーズに10フランとアルコール少々ということで、リプシッツとしてはモディリアーニを援助するため何日もかけて絵を描いてもらうつもりだった。

ところが、モディリアーニはすさまじい集中力でその日のうちに絵を完成させてしまう。モディリアーニをもっと援助したかったリプシッツはいろいろ注文を出し、モディリアーニは「絵をダメにしたいのなら続けよう」と結局、この絵に2週間を費やしたという。

友情のあかしが2週間の制作期間だった。

モディリアーニが死んだとき、彼のデスマスクを取ったのがこのリプシッツだったという。

 

館内にあった大阪出身の現代アーティスト、ヤノベケンジ作の「ジャイアント・トらやん」(高さ7・2m)

 

建物前の芝生広場で軽い昼食。

芝生広場にある「シップス・キャット(ミューズ)」もヤノベケンジ作で、美術館の守り神としてつくられ、スーツの色は厳島神社の朱をイメージしているという。

 

昼食のあとは、中之島美術館の隣にある国立国際美術館で特別展「感覚の領域 今、「経験する」ということ」とコレクション展「コレクション2:つなぐいのち」をハシゴ。

何しろ国立国際美術館は地下にあるので、地上はモニュメントだけ。後ろに見える黒い建物が中之島美術館。

特別展の「感覚の領域 今、「経験する」ということ」は、現代美術の分野で独自の視点と手法によって、実験的な創作活動を展開している7名の美術家を紹介する展覧会。

作品の1つ、大岩オスカール「Big Wave」。

さすがに1日に3つの展覧会は疲れる。

夕方、伊丹空港から羽田へ。

 

夜はJR西荻窪駅近くの「山下食堂」へ。

大衆食堂みたいな名前だが、おいしい料理とおいしいお酒を楽しめるビストロ。まあビストロだから大衆食堂でいいんだが。

ハートランドビールのあとは赤ワイン。

シェフのオススメの中から選んだのはフランス・ラングドックの赤ワイン「IGP・ペイ ドック・ル・マルセラン・シセロン」。

ブドウ品種はセパージュ。

 

料理はまず、ホタルイカのマリネ、新タマネギのソース。

カマンベールとブドウのサラダ。

タラの芽のフリット、パルメジャーノ。

イワシフキノトウリングイネ

イワシフキノトウがこんなに相性いいなんて!と感動。

 

仕事で行ったはずが、芸術とグルメの楽しい2日間となった。