著者は奈良大学文学部教授で万葉文化の研究家。
小説なのだから空想の世界を描いているのだろうが、学者だけに資料を丹念に読み、それを元に想像力を膨らませているはずで、空想部分も本当のことのように説得力があり、おもしろく読めた。
小説なのだから空想の世界を描いているのだろうが、学者だけに資料を丹念に読み、それを元に想像力を膨らませているはずで、空想部分も本当のことのように説得力があり、おもしろく読めた。
何しろ舞台は今から1200年以上も昔の天平時代。主人公の平群(へぐり)広成は遣唐使の1員として中国に渡ったものの、帰路、船が遭難し、艱難辛苦の果てに日本出発から6年後、遭難からでも5年もたって渤海国経由でようやく帰国。古代の日本人の中で最も広い世界を見たとされる人物の物語。
天平5年(733)に日本をたった遣唐使は、4隻の船で中国に向かった。途中、東シナ海で嵐に遭ったものの何とか4隻すべてが蘇州に到着し、一路、長安へ。当時、日本は諸外国の中でも最下等の扱い。それでも玄宗皇帝に拝謁し、多くの人士を唐から招聘することにも成功、留学していた学生や僧も帰国の途につく。
ところが、帰路は大変なことになり、4隻のうち第1船だけが種子島に漂着、第2船は広州まで流し戻されて帰国は延期、第4船に至ってはその消息はいまだに知れない。
ところが、帰路は大変なことになり、4隻のうち第1船だけが種子島に漂着、第2船は広州まで流し戻されて帰国は延期、第4船に至ってはその消息はいまだに知れない。
当時の航海は遭難が当たり前という感じで、遣唐使の船が4隻なのも、4隻のうち何隻かは遭難するのを見越して何とか1隻でも無事たどりつけるよう数を増やしているのだとか。決死の覚悟とはこのこと。
そして、本書の主人公である平群広成(大使、副使に次ぐ3等官の判官)が乗った第3船は南方は崑崙(いまのベトナム)にまで流され、115人いた乗員は現地人の襲撃や風土病でほとんどが死亡。生き残ったのは広成を含むたった4人だけ。
広成たちは苦労の末に長安に戻り、さらに北方の渤海国を経て帰国するが、広成はなぜか天下の名香「全浅香」を携えていたという。
広成たちは苦労の末に長安に戻り、さらに北方の渤海国を経て帰国するが、広成はなぜか天下の名香「全浅香」を携えていたという。
正倉院のホームページによれば、「全浅香(ぜんせんこう)、分類(用途)は薬物」とあり、「沈香系統の香木。沈香のうち樹脂分の少ないものは水に浮沈が定まらず「浅香」と呼ぶ。牙牌が付属し、その銘文より天平勝宝5年(753)3月29日の仁王会に用いたのち東大寺大仏に献納されたものとされる。国家珍宝帳記載品」と記載されている。
おそらく中国伝来のものだろうから遣唐使の船で持ち帰ったはずで、広成らの遣唐使は733年に出発して広成が帰還したのは739年(天平11年)。
次の遣唐使は752年(天平勝宝4年)に出発して翌753年12月とその翌年にかけて帰国(一緒に鑑真も来日したが、平城京に到着したのは754年1月)。
次の遣唐使は752年(天平勝宝4年)に出発して翌753年12月とその翌年にかけて帰国(一緒に鑑真も来日したが、平城京に到着したのは754年1月)。
全浅香はやはり、広成が持ち帰ったかもしれない。
広成が亡くなったのも、全浅香が仁王会で用いられた753年の正月28日。何か因縁があるのだろうか。
広成が亡くなったのも、全浅香が仁王会で用いられた753年の正月28日。何か因縁があるのだろうか。