東京・練馬区立美術館で開催中の「香月泰男展」を観る(3月27日まで)。
香月泰男(1911~1974)は厳しい抑留経験を描いた「シベリア・シリーズ」で知られる画家。シベリアの体験がなかったとしても昭和を代表する洋画家として名を残した人だろうが、死と隣り合わせの過酷なシベリア抑留を経験したことで、彼の絵はますます私たちの心をとらえて離さないものとなっている。
これまで、ほかの作家たちとともに数点の作品を観たことはあるが、彼の作品だけを集めた個展を観るのは初めて。生誕110年を記念して各地を巡回して開かれている大規模回顧展で「シベリア・シリーズ」の全57点が一挙展示されている、というので出かけていく。
山口県に生まれたが、父母とは小さいころに生き別れている。父は医者の家に生まれ、家業を継ぐべく医学を志すも叶わず、放蕩にふけるようになる。彼が10歳のとき母は香月家を出て、翌年父は朝鮮にて客死。彼は祖父に育てられる。
東京美術学校に入学し、早くからその才能を認められ、卒業後は美術教師として教鞭をとりながらゴッホやピカソ、梅原龍三郎に倣いつつ自らのスタイルを模索していく。
しかし、1942年、31歳のとき召集令状を受け、中国大陸の戦地に動員される。終戦とともにシベリアに抑留され、強制労働をへて47年5月帰国。
戦前の作品も戦後のシベリア抑留から帰ったのちも、明るい色彩と独特の構図に変わりはなく、1948年に最初のシベリア抑留をテーマに描いた作品にもあまり暗さは感じられない。
ところが、1956年ごろから、シベリア・シリーズを本格的に描き始めるころになると絵は一変し、色彩を封印した黒を基調とした世界になっていく。
47年に帰国してから10年近く、シベリアの抑留生活の過酷な記憶を思い返し、思い返しして、シベリアでの生活を絵にするための技法も試行錯誤を繰り返し、ついに木炭と方解末と油彩とをミックスさせた黒一色の重厚な画風にたどりつき、「戦争」と真正面から向き合うようになったのだろう。
シベリア・シリーズのどの作品も、見る者に強烈に迫ってくるものがある。
たとえば「運ぶ人」。
60㎏ものコウリャンを詰めた麻袋をかついで、6キロの道を3往復。凍てつく道を歩かされ、倒れる者も出る。
キャンバスいっぱいに広がる重いかたまり。そこから2本の足が生えていて、よくみると亡霊のような人の顔がかたまりの中から浮かんでくる。
香月泰男は1974年3月、心筋梗塞のため自宅にて死去。享年62。
アトリエのイーゼルには、シベリア・シリーズの最後の作品である「渚(ナホトカ)」がかけられていたという。
ナホトカは、シベリア抑留から解放され引揚げ船が出た港。彼はこの絵についてこう書き記している。
「1947年5月初旬、私たちはナホトカの渚に下車、ようやくたどり着いたといえよう。ああ、この塩辛い水のつながる向こう岸に日本があるのかと舌でたしかめたものだ。私たちは一晩砂浜で寝た。そのときの情景を描いたつもりだが、何だか日本の土を踏むことなくシベリヤの土になった人たちの顔、顔を描いているような気がしてならぬ。20数年たった今の、単なる私の感傷だろうか」
絵をよく見ると、真っ黒いところに無数の顔が描かれている。帰国を待つ人たちの顔だけでなく、死んでいった人たちの顔も浮かんでくるようだ。
より鮮烈な印象を受けるのが「1945」。
強制労働から解放されて日本に帰る途中の中国での鉄道沿線で見た遺棄された死体の絵。
この絵について彼は次のようなことを語っていて、その言葉が忘れられない。以下、その大意。
奉天を出てしばらくいったところで線路のわきに屍体が転がっているのを見たが、それは満人(中国人のこと)たちの私刑を受けた日本人に違いない。衣服を剥ぎとられた上、皮を剥がれていたらしく、生皮を剥がれたのか、殺されてから剥がれたのか、溝に半身を落し、かすかに持ちあげられた片腕が空をつかむようなかっこうをしていた。
日本に帰ってきてから、広島の原爆で真黒焦げになって転がっている屍体の写真を見た。そのとき私の頭に、満州で見た皮を剥がれた赤い屍体が浮び、赤と黒の二つの屍体は頭の中で重なり合ってくるのだった。一九四五年をあの二つの屍体が語りつくしている。
戦後二十年間、黒い屍体は語りつがれ、ヒロシマはアウシュヴィッツとならぶ大戦の二つの象徴となった。黒い屍体によって日本人は戦争の被害者意識を持つことができた。
赤い屍体は加害者の死としての一九四五年だった。私たちは強制的に無理やり戦争にひきずりこまれ、無理やりその一部をになわされてきた。そして今また、無理やり身をもってそのあがないをさせられようとしている。赤い屍体は、正にその無理やりずくめの運命そのものを暗示しているようだった。
赤い屍体になるべきなのは、もっと別の奴らだ。どこかで未だにぬくぬくとしている奴らだ。そうも思えた。しかし同時に、仕方がないという気持もあった。仕方がないと思って戦争がはじまるのを見ていた。私たちシベリヤ抑留者も、いってみれば生きながら赤い屍体にさせられたのだ。
私には、まだどうもよくわからない。あの赤い屍体についてどう語ればいいのだろう。赤い屍体の責任は誰がどうとればよいのか。再び赤い屍体を生みださないためにはどうすればよいのか。私は何をすればよいのか。それを考えつづけるために、”シベリヤ・シリーズ”を描いてきたのかもしれない。
言葉ではうまくいえないが、これだけのことはいえる。戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある。
私にできることは、たかだかそれを絵にすることでしかなかった。絵としては、皮を剥がれた屍体をうまく表現できないので、裸体を条痕でおおった。そして、画面に1945という年数を書き入れた。
一連のシベリア・シリーズは、日本の加害責任を問うために、死んでいった“加害者(にさせられた人たち)”の声を代弁して描かれたのかもしれない。
ところで、美術館前のスペースは「練馬区立美術の森緑地」となっていて、大小さまざまな動植物アートが展示されていて、触って楽しむこともできるという。
高さ4mもある緑で覆われた巨大なクマ。
どこかで見たことあるなーと思ったら、以前(2016年10月)スペインを旅行したときに見たビルバオのグッゲンハイム美術館前のオブジェにそっくり。
グッゲンハイム美術館前のオブジェはクマではなく小犬で名前はパピー。3万8000本もの生花を身にまとい、花咲く巨大な小犬として有名だ。
そのパピーを見た練馬区立美術館の館長さんが、「ぜひわが美術館にも」と希望してつくられたものだとか。
頭だけ植栽で覆われた馬。胴体と脚は練馬大根で、「ネリマーマ」という名前らしい。
美術展を見たあとは最寄り駅の西武池袋線「中村橋」から「大泉学園」で下車し、駅から10分ほどの「手打ちそば むら季」で昼食。
そばを待つ間、生ビールと日本酒。それにつまみ。
日本酒は秋田の「雪の茅舎」と石川の「黒帯」を1合ずつ。
つまみは、まずお通しのキュウリの鶏みそ、梅水晶添え。
わさび菜のお浸し。
しめサバ。
鴨・ネギ焼き。
セイロそば。
あらびきそば。
2人で行ったのでシェアして食べる。
おいしいそばで、ご主人のサービスもよかった。
平和だからこそ食べて呑める幸せをかみしめる。