善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

早くもカワセミの“恋バナ”?

日曜日朝の善福寺公園は快晴。ときおり冷たい風が吹く。

 

上池にはいろんな種類のカモたち。

頭に白いラインがあるのはヒドリガモか。

メスと一緒。

 

するとこちらは、ホシハジロカップル?

いずれにしろ、カモはどれも似たような姿かたちをしているが、ちゃんと種類を間違えず、オスとメスが仲良くしている。

 

下池にまわると、アオサギが1本脚で立っていた。

顔を埋めて、寝てるのかな

下池の端っこの橋の欄干の下にいたのはカワセミのメスのサクラのようだ。

矢のようにダイブしたがエサ獲りに失敗。

「チェッ」と残念がっているところ。

居合わせた人によると、少し前までオスの小四郎らしいのもいて、ゲットしたエサをくわえてサクラの近くに飛んでいったという。

小四郎はサクラにエサをプレゼントしようとしたのか、しかし、サクラは自分でエサを獲って食べてしまい見向きもしなかったので、怒った?小四郎は飛び去っていったという。

オス同士だと近くにいると縄張り争いになるが、オスとメスの場合は、冬が始まる今ごろから“恋バナ”が始まるのだろうか。

 

池をめぐっていると、木陰にカワセミが止まっていて、クチバシに大きな魚をくわえている。

しかも、魚の頭を上にするプレゼントポーズで、自分で食べるのではなく、メスにプレゼントする求愛行動だ。

とすると、さっきサクラに冷たくされて飛び去った小四郎だろうか。

サクラがその気になるのを待っているのか、それとも別のメスを探しているのか?

うーむ、わからん。

 

上池に戻ると、いつもカワセミのオスの三郎が根城にしているあたりにカワセミの姿。

三郎のようだ。

 

ボート乗り場には、23日まで開催していた野外アート展「トロールの森2022」に出展されていた「トロールボート」がひっくりかえっていた。

近くの区立桃井第4小学校の児童たちが描いたもの。

期間中は池に浮かんでいたが、ひっくり返したほうがアート作品になっている。

 

ぱちくりオメメのカイツブリ

 

カワセミの縄張り争い今も

土曜日朝の善福寺公園は曇り。風はなく、穏やか。

 

上池を半周して、下池にまわると、サクラらしいメスのカワセミが、きのうと同じようなところにいた。

やっぱりお気に入りの場所というのはあるのか。

 

さらに池をめぐっていると、久々にバンの姿。

もう1羽いたからカップルか?

仲良くヨシの中に消えて行った。

 

池の水が善福寺川に落ちるあたりに、まだ体が黒っぽい今年生まれたらしい若いカワセミ

暗くてよく分からないが、新参者か、それとも小四郎か。

盛んにダイブして小さな魚をゲットしてはすぐに飲み込んでいた。

 

再び上池をめざす。

途中、咲いていた小さくてかわいい野菊。

ノコンギクかな?

 

上池に戻ると、すぐ目の前の葉っぱでわかりにくいところにオスのカワセミ

しきりに背伸びしている。

明らかに威嚇行動だから、近くに別のカワセミがいるのかと探すと、少し離れたところにやっぱりオスのカワセミがいて、こちらも背伸びのポーズ。

このへんは、ちょうど三郎と文二の縄張りの境界付近。

棲み分けができていると思ったが、縄張り争いは今も続いているようだ。

きのうのワイン+映画「ラビング 愛という名前のふたり」ほか

南アフリカの赤ワイン「ルックアウト・ケープ・レオパード・マウンテン・レッド(LOOKOUT CAPE LEOPARD MOUNTAIN RED)2020」

ワイナリーはレオパーズ・リープ。

大手企業グループが所有するワイナリーが多い南アフリカの中でも、家族経営で良質なワインを造り続けているのだとか。

生産地は西ケープ州最大の地区スワトーランド。

ブドウ品種はシラー、サムソ、ピノタージュ。

レオパードとは西ケープ州をすみかとするケープ・マウンテン・レオパード(山ヒョウ)のことで、ラベルにも描かれている。

 

ワインの友で観たのは、民放のBSで放送していたイギリス・アメリカ合作の映画「ラビング 愛という名前のふたり」。               

2016年の作品。

原題「LOVING」

監督ジェフ・ニコルズ、出演ジョエル・エドガートン、ルース・ネッガほか。

 

愛を貫き通すべくたたかった、その名もラビング(LOVING)夫妻の実話を映画化したヒューマンラブストーリー。

 

1958年のアメリカ南部バージニア州。大工で白人のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、恋人で黒人のミルドレッド(ルース・ネッガ)から妊娠したと告げられ、大喜びで結婚を申し込む。

当時、バージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていた。だが、子どものころに出会って育んだ友情が、愛情へと変わっていったリチャードとミルドレッドにとって、別れるなどあり得ないことだった。

このとき、新婦は18歳、新郎は24歳。2人は、法律で許されるワシントンDCで結婚し、地元に戻る。ところが、夜中に突然現れた保安官に逮捕されてしまう。

離婚か、生まれ故郷を捨てるか、2つに1つの選択を迫られる。しかし、愛を貫きたい2人は隠れ家で一緒に暮らし、やがて3人の子どもに恵まれ、ついに行動に出る。

そのころのアメリカは民主党ケネディ大統領の時代となっていた。きっかけは、妻のミルドレッドが1963年、ケネディ大統領の弟であるロバート・ケネディ司法長官に書いた1通の手紙だった。そこには、愛する夫と生まれ故郷で夫婦として暮らしたいという、ごく当たり前の願いが綴られていた。

手紙は、自由権の擁護を目的に活動するNGO団体「アメリカ自由人権協会(ACLU)」にゆだねられ、裁判となって最高裁に持ち込まれることになる・・・。

 

結局2人はバージニア州を相手に裁判で訴え、1967年、最高裁判所は全員一致で異人種間結婚を禁じる法律を無効にした。それ以降、異人種同士の結婚は合法となっている。

それにしてもアメリカでは、今からわずか60年ぐらい前まで、州によっては白人と黒人など異人種間の結婚が法律で禁じられていたというのだから驚きだ。アパルトヘイト下だった南アフリカでも、ナチス政権当時のドイツでもなく、ほとんど現代といっていいアメリカの、それが現実だった。

異人種間の結婚を禁じる理由は、キリスト教の教えに反するからだという。

 

アメリカにおける異人種婚禁止の歴史は1691年に始まるといわれている。イギリスの植民地だった地域で、黒人や白人と黒人の混血、インディアンが白人との間で同衾することによって増加するかもしれない忌まわしい混交と邪悪な出生を防ぐことを目的に、異人種間の結婚は罰せられ、領地から永遠に退去させられると定められた。

この法律は、アメリカがイギリスから独立して合衆国になったあとも存続した。

1800年代後半までに、全米の38州で異人種間結婚を禁止する法律が制定された。当初は黒人などが対象だったが、やがてアジア系も付け加えられていったという。

植民地時代から始まって300年近くもたって、アメリカの国民はようやく自由な婚姻を勝ち取ることになったわけだが、人種差別の意識はいまだに根強く残っているようだ。

アラバマ州では、最高裁の判決後も異人種間結婚を禁じる法律が残っていて、公式に合法化されたのはようやく2000年になってからだった。

2019年9月には、「同性婚や異人種間の結婚はキリスト教の信仰に反する」として、ミシシッピ州の結婚式場のオーナーが黒人男性と白人女性の結婚式を拒否する事件が起こっている。

信仰によって「正しいこと」と信じてしまっているとしたら、その考えを改めるのはかなり大変な努力が必要なのかもしれない。

しかし、そんな現実に、諦め、我慢するのではなく、「そんなのおかしい」と声を上げる人がいるからこそ、自由も得られるのだろう。

 

ついでにその前に観た映画。

民放のBSで放送していたアメリカ映画「ディボースショウ」。

2003年の作品。

原題「INTOLERABLE CRUELTY」

監督・脚本・製作コーエン兄弟、出演ジョージ・クルーニーキャサリン・ゼタ・ジョーンズほか。

 

凄腕でいささか倫理観欠乏気味の離婚訴訟専門弁護士マイルズ(ジョージ・クルーニー)は、離婚して財産と自由を手にしようとするマリリン(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)に勝訴する。彼女は、美貌で男たちを手玉にとり、金持ちと結婚するやすぐに離婚して相手の金をむしりとるという悪女だった。そんな彼女が裁判に負けてそのまま引き下がるはずはなく、リベンジに燃えてマイルズに近づいていく・・・。

 

アメリカには「プリナップ」と呼ばれる「婚前契約」の制度がある。

普通、夫婦が離婚すると財産は折半されるものだが、金持ちの夫たちはそんなことなったら大損だというわけで、離婚したら財産分与はここまで、と決めておく婚前契約書を作成するのだとか(今では金持ちだけでなく一般の人も婚前契約書をかわすケースが増えているらしいが)。

訴訟大国であり、契約社会でもあるアメリカならではの話で、その契約書作成と離婚訴訟でセレブなクライアントを多数抱える弁護士と財産ねらいの美女との、熾烈なバトルと恋の物語。

 

原題の「INTOLERABLE CRUELTY」とは、直訳すれば「耐えられない残酷(無慈悲)」といった意味だろうが、CRUELTYには法律用語で「(離婚事由となる)配偶者虐待」という意味もあるという。

それじゃ日本人にはわからん、というのでつけられた邦題が「ディボース・ショウ」。ラストに出てくる離婚を扱った番組名をちゃっかり映画の題名にしちゃってる。

今シーズン初のキセキレイ

金曜日朝の善福寺公園は快晴。風はなく、日差しか暖かい。

 

上池の遠くのほうに止まっているのはオスのカワセミ

文二くんのようだ。

 

下池にまわると、至近距離で止まっていたのは、サクラらしいメスのカワセミ

のぼってきた朝日に照らされて、オレンジ色が輝いて見える。

池のふちにいる小魚をねらっているから、枝に止まってるとどうしてもこちら向きになる。

 

見上げると黄葉したイチョウ

 

相変わらずひとりぼっちのオオバン

額とクチバシは真っ白で、体は真っ黒と思っていたが、よく見ると体の上のほうは灰色がかっている。

カワセミなどと同じ構造色なので、日差しの関係でいろんな色に見えるのだろうか?

カワセミの場合、羽の青さは羽そのものが青いのではなく、羽に複雑な構造をした薄い層があって、そこに光があたると青い光だけが反射してくるのだという。それが構造色だが、その原理は空の青さ、海の青さと同じだという。

たしかに、空から青を取り出してくることはできないし、海にしても同じだ。

まさしく自然が創り出す色なのだろう。

 

アオサギが池の真ん中で首を伸ばしていた。

善福寺池は意外と浅いことがわかる。

 

盛んに尻尾を上下させている鳥を発見。

今シーズン初のキセキレイだ。

おなかのあたりが黄色いセキレイで、いつも尾羽をフリフリしている。

おなかが白いのがハクセキレイだ。

渡り鳥ではなく、九州以北のほぼ全国に分布し、水辺を好むが、善福寺公園にやってくるのは冬が間近の今ごろ。夏の間は涼しい山のほうにいて、寒くなると平地にやってくるのだろう。

 

再び上池に戻ると、野外アート展「トロールの森2022」の作品のひとつ、小西一さんの「デフラグメンテーション」という作品の「手」に包帯が巻かれていた。

握手しようと手をさしのべるところなのだが、事故か故意か知らないがポキリと折れちゃったらしく、応急処置が施されたみたいだ。

今月3日から開催していた「トロールの森2022」は23日に終わり、今は片づけている最中。

こうしてみると、包帯を巻いて痛々しいところにかえって親近感を覚える。

紅葉の下のカワセミ

木曜日朝の善福寺公園は快晴。きのうは1日雨で散歩ができなかったが、けさは雲ひとつない青空。

 

上池では、カワセミが朝日に照らされていた。

オスの文二か、三郎か。

 

下池にまわると、お気に入りの枝に止まっていたのは?

若造の六兵衛だろうか。

 

池の反対側にいたのは、メスのサクラのようだ。

至近距離に散歩中の人がいるのにまるで平気。

風景の中に溶け込むようにしてジッとエサをねらっている。

 

マンリョウの赤い実にきのうの雨の名残が・・・。

 

ムラサキシキブの実にも。

 

ふたたび上池に戻ると、今度いたのは文二のようだ。

紅葉を始めたモミジの近くにいたので、「モミジの木の下に行ってくれないかな。いい写真がとれるのに」とつぶやくと、つぶやきが聞こえたのか、モミジの下に行ってくれた。

暗かったけれど、紅葉とカワセミの一枚。

数学者訪問 輝数遇数 PARTⅡ

現代数学社刊「数学者訪問 輝数遇数(きすうぐうすう)PARTⅡ」を読む。

写真・河野裕昭、文・内村直之・亀井哲治郎・里田明美・冨永星・長谷川聖治・吉田宇一。

 

京都市にある現代数学社は主に数学の専門書などを出版し、数学を通じて社会に貢献することをめざす出版社。

専門書だけでなく「知識の大衆化」を志して月刊雑誌の「現代数学」を発行しているが、1968年5月の創刊で、54年の歴史を持っているという。

同誌では、各大学などで活躍中の数学者の人となりを写真と文で紹介する「数学者訪問」を連載していて、それを一冊にまとめたのが本書。2年前に出版された「輝数遇数 PARTⅠ」に続く単行本化第2弾だ。

 

今回登場している数学者は次の人々。

金子昌信、小嶋泉、千葉逸人、重川一郎、木村芳文、砂田利一、佐々田槙子、平岡裕章、加藤文元、俣野博、小林亮、雪江明彦、西郷甲矢人、ジャック・ガリグ、西浦廉政、中島さち子、正宗淳、伊藤哲史、舟木直久、若山正人、三松佳彦、大島利雄、芳沢光雄(敬称略)。

いずれも、「現代数学」2017年3月号から19年3月号までに掲載された数学者たちだ。

 

本書を読んで、というか写真を見ていて、オヤ?と気づいたことがあった。

真理を探究しているゆえか、みなさんの表情がとても生き生きしているのはいうまでもないが、ハゲている人がとても少ないことだ。デブに至っては皆無だ。

まあデブは日ごろの精進で何とかなるにしても、ハゲというのは何をやったって防ぎようがない。それなのに数学者にハゲが少ないのはどういうわけか?

登場しているみなさんがまだ若いということもあるだろうが・・・。

それで気になって、日本を代表する数学者のの写真を改めて見てみたら、やっぱりハゲが少ない、というより偉大な数学者にハゲはいない。

 

岡潔(1901~78年)は髪の毛フサフサだし、体もヒョロ~っとしている。

ほかにも広中平祐(31年~)、小平邦彦(1915~97年)いずれもフサフサ。

森重文(1951年~)は多少生え際が後退しているが、これは前頭葉を盛んに使っているためかもしれない。

数学の超難問「ABC予想」を証明し、「世紀の大偉業」と讃えられた京都大学数理解析研究所教授の望月新一(1969年~)。やっぱり黒々としている。

テレビでおなじみの秋山仁(1946年~)。あり余る髪の毛をしている。

よく知ってる人で少しハゲてるかなと思える人といえば藤原正彦(1943年~)。しかし、彼にしてもやはり前頭葉を酷使したのか生え際からの後退タイプだ。

 

歴史上の人物はどうか。

フェルマーの定理のピエール・ド・フェルマー(1607?~1665年)。肖像画を見る限りフサフサだ。

パスカル(1623~1662年)、ニュートン(1642~1727年)いずれもフサフサ。

もっとも、中世のころは貴族も一般の人もみんなかつらかぶっていた(しょっちゅう風呂に入れないのでケジラミ対策のため自毛は短くして長髪のかつらで代用していた)というから、かつらでごまかしている可能性もあるが、肖像画を見る限りは自毛のようだ。

この時代に日本の関孝和(生年不詳~1708年)もいるが、この人の場合はもともと武士なので月代(さかやき)を剃っている。したがって肖像画はあまり参考にならない(ちなみに、なぜ江戸時代以前の男子は月代を剃っていたかというと、兜をかぶるとき蒸れるという理由で剃っていたんだそうだ)。

 

ぐっと後代になって、ポアンカレ予想のアンリ・ポアンカレ(1854~1912年)は、額が広く見えるがハゲではない。

フィールズ賞の提唱者でもあるジョン・チャールズ・フィールズ(1863~1932年)も同じ。

バートランド・ラッセル(1872~1970年)なんか豊かな白髪をたなびかせていた。

 

それなら文学者はどうかというと――。

坪内逍遥(1859~1935年)は見事なハゲ。

森鴎外(1862~1922年)も晩年はかなりハゲてる。

幸田露伴(1867~1947年)、永井荷風(1879~1959年)も同じ。

島崎藤村(1872~1943年)、志賀直哉(1883~1971年)、谷崎潤一郎(1886~1965年)いずれもしかり。

武者小路実篤(1885~1976年)、井伏鱒二(1898~1993年)に至っては完ハゲだ。

 

それなのに数学者たちはなぜみなさん、髪の毛フサフサなのだろうか?

理系・文系で違いがあって、数学的思考をすると髪にまで栄養が行き届くのだろうか?

髪の毛フサフサの遺伝子を親から受け継いだゆえに数学者になったのだろうか?

疑問が次々に湧いてきて髪の毛をかきむしりたくなる。

最近読んだ本

最近読んで、よかった本。

 

松井今朝子「愚者の階梯」(集英社

「壺中(こちゆう)の回廊」(2013年)、「芙蓉(ふよう)の干城(たて)」(18年)に続く歌舞伎ミステリーの第三弾。

 

舞台は昭和10年(1935年)。歌舞伎が盛んだった一方で、キネマ(映画)が上り調子となり、無声映画からトーキー(発声映画)の時代となって大河内伝次郎とか嵐寛寿郎らが銀幕の「スタア」と呼ばれるようになっていたころ。

実在の人物を想像しながら読んでいくとおもしろい。

「亀鶴興行」とは「松竹」に違いないし、師匠である女形の「女帝」に破門されて歌舞伎界から飛び出した人物といえば、五代目中村歌右衛門に破門され、仲間と前進座を創立した中村翫右衛門あたりがモデルになっているのかと思いながら読んでいく。

史実とフィクションが実に巧妙に混じり合っていて、昭和10年の3年前に建国された満州国の皇帝溥儀を迎えて「勧進帳」「紅葉狩」を上演するとあるが、史実でも、溥儀が歌舞伎座に来たときに「勧進帳」と「紅葉狩」が上演されたという。

勧進帳」に右翼がケチをつけるくだりは著者の創作らしいが、これもあながちウソとはいえず、このときではないが実際に歌舞伎座に「不敬」を理由にねじ込んだ人物がいたらしいし、戦時中「勧進帳」は改訂されていたことがあるという。

そこで著者は、やはりケチがついたのではと思って、東大寺再建の寄付を募る山伏一行と偽った弁慶が勧進帳を読みあげる場面で「(聖武天皇が)最愛の夫人に別れ追慕止み難く」とあるところを、光明皇后聖武天皇よりあとに亡くなっているのにすでに亡くなっているように書くのは不敬だといわせていて、何でもこじつけて難クセをつけるあたり、ありうる話だと思いながら読む。

 

昭和10年は、翌年に起こる二・二六事件の前夜でもあった。実際このころ、「不敬」ということが盛んにいわれ始め、軍国主義の道を突き進んでいく。

美濃部達吉東京帝国大学教授の天皇機関説が公然と排撃され、美濃部教授は不敬罪により取り調べを受け、天皇機関説が公式に排除され、学校で教えるのさえ禁止されたのもこの年だった。

「国家を一つの巨大な法人とすると、大日本帝国憲法はその最高意思決定機関を天皇としている」という天皇機関説は、当時の法曹界では常識だったという。

しかし、国民主権に反する旧憲法のその位置づけさえも否定し、天皇を超法規的な存在にして天皇は神なのだから神聖にして侵すべからず、文句をいわずに従えとする究極の右傾化の大波が一挙に日本全体を覆ってしまったのだ。

筆者は、この時代の動きがどこか現在の日本と二重写しになって見えると感じ、昭和10年を舞台にしたと語っている。

とくに本作で天皇機関説を取り上げようと思ったのは、「小説すばる」に連載を始める前、日本学術会議の会員の任命問題で、学術会議が推薦した候補を時の内閣が拒否するなんて、やってはいけないことなのではないかと思ったからだとインタビューで述べている。

作中での主人公の大学講師、桜木治郎の言葉も耳に残る。

「真っ当な知識人が影をひそめ、偏狭な日本バカが大きな顔をしだした」

しかし、その桜木も、「(美濃部博士と同じ目にあったら)自分にはとても耐えきれない」と弱音をはく自分にも失望している。

戦争をとめられなかった理由のひとつには、知識人の弱さもあるんじゃないか、ということも筆者は語っている。

本作は、歌舞伎界の光と影を追うとともに、戦争へと向かっていく「愚者の階梯(階段)」の物語だった。

 

 「エイドリアン・マッキンティ「レイン・ドッグズ」(武藤陽生・訳、ハヤカワミステリ文庫)

アメリカ探偵作家クラブ賞最優秀ペイパーバック賞受賞作。

主人公は王立アルスター警察隊のショーン・ダフィ巡査部長でカソリック教徒のショーン・ダフィ。本作はダフィ・シリーズの5作目。

1987年の北アイルランドフィンランドの企業の一行が、携帯電話工場の候補地を探すためベルファストを訪問中、古城で女性ジャーナリストの転落死体が発見される。事件当時の現場は完全な密室状態であり、捜査は難航を極める。さらにダフィの元に警察高官が爆殺されたという連絡が入る。彼はIRAの手によって殺されたというのだが・・・。

 

小説に出てくる会話の中で、普通なら「ハイ」と答えるところを盛んに「アイ」と返事するので気になったが、アイルランドでは「Yes(イエス)」というところを「Aye(アイ)」といっているらしい。

もともとはスコットランドアイルランドなどの地域語で、16世紀後半~17世紀前半ごろになると普通の英語にも取り入れられるようになった。しかし、今では「アイ」が使われるのは議会と海軍ぐらいだという。

イギリスの議会では、法案の可決・否決を決める際、「Yes」「No」の代わりに「Aye」「No」を使うのが正式だそうだ。

海軍では「Aye Aye Sir」というときに使われる。

「Aye」1回ではなく2回繰り返すことで、「命令を理解し、実行します、上官どの!」となるらしい。

 

星野博美「世界は五反田から始まった」(ゲンロン)

筆者は東京・品川区の戸越銀座に生まれ育ったノンフィクション作家。

知らない人と会って故郷を聞かれたら「五反田」と答えるという。戸越銀座も五反田の“勢力圏”と考えればナルホドと思う。

その五反田に彼女の祖父が13歳でやってきたのが1916年。以来、100年以上にわたって、三代にわたり住んでいる。祖父から父、子と、三代の足跡をたどると「世界から五反田は始まった」といえるような日本の姿がきっと見えてくるに違いない・・・。

 

生前に祖父が書き残した手記や郷土史料を元に星野家の過去物語と町の変遷をたどっていく。町工場がひしめく街の様子、街を襲ったスペイン風邪関東大震災小林多喜二の足跡、日本で初めてできた無産階級のための託児所と診療所、軍国化、空襲、疎開、戦中戦後を生き抜いた庶民の知恵・・・。

読んでいくうち、ひょっとして世界は本当に五反田から始まったのかもしれない、と思えてくるから不思議。その伝でいけば、日本のどこに住んでいても、自分の住む土地のことを詳しく調べていけば「ここから世界は始まっている!」と自信を持っていえるようになるかもしれない。

 

著者は「転がる香港に苔は生えない」(2000年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

末尾の「おわりに」のあとの「追記」に共感を覚える。

「(ロシアの軍事侵攻を受ける)ウクライナの人々の恐怖と憤怒は、かつて私たちの国がアジアの人々に強いたものだ。ロシアの人々が今、世界から向けられている視線が、かつては自分たちに向けられていたことを、私は忘れないでおきたい。

それが、心を痛めつつも、ある種の熱狂から距離を置く方法だと思っている」