善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

田中一村のすべてを網羅した大回顧展

東京・上野の東京都美術館で開催中の「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」(12月1日まで)を観る。

じっくり観て回って、改めて驚いた。本展は、関係者の尽力で最近見つかり本展で初めて公開されたものも何点か含まれていて、一村の画業のほぼすべてを網羅する空前絶後といっていいほどの大回顧展だった。

一村は一度だけ公募展に入選し世に知られたこともあったが、以後は世間的には誰にも知られず、東京で自分の個展を開く夢を持ち続けたものの叶わず、いわば「無名」のまま亡くなった人だった。その一村が亡くなって47年たち、実現したのが、東京での個展であり、その会場は、彼が何度も挑戦したものの退けられた「院展」など公募展の会場だった東京都美術館だったというのは、何たる皮肉だろうか。

いずれにしろ本展は国内最多のコレクションを誇る田中一村記念美術館(鹿児島県奄美市)の全面的な協力により、神童と称された幼年期から最晩年に奄美で描かれた作品まで、250点を超える作品が一堂に集まっていて、休憩なしで観るのに2時間以上。とても充実した時間をすごすことができた。

 

田中一村は1908年(明治41年)栃木県に生まれ、その後、東京で育つ。父は仏像の彫刻士で、幼いころから絵を描いては神童といわれた。南画風の絵にその才を見せて早くもプロとして活躍し、17歳のとき「全国美術家名鑑」に名を連ねるが、その時代、日本画、洋画を通じて十代で名鑑に名があるのは彼だけだったという。

周囲の期待の中で東京美術学校日本画科に入学。同級生には東山魁夷橋本明治らがいた。

しかし、中学のときに患った結核の再発と父の病気が重なり2カ月余りで退学。その後は独学で絵を勉強しながら、南画を描いて一家の生計を立てるようになる。

このころも彼を褒めたたえる人はたくさんいて、当時一村が名乗っていた雅号が米邨だったことから「田中米郡画伯賛奨会」がつくられ、このときの後援者には逓信大臣の小泉又治郎(小泉純一郎元首相の祖父で、戦時中は翼賛代議士となって戦争を推進し、戦後は軍国主義者として公職追放された人物)もいたが、23歳のときの1931年、それまでの南画とは訣別し自らの芸術に新たな方向性を見出そうと、南画から日本画へと心機一転を試みた「水辺にめだかと枯蓮(かれはす)と蕗の薹(ふきのとう)」を発表。自らの心のまま、自然のたたずまいを正直に描いた素朴な作品だったが、後援する有力者たちには理解されなかった。メダカとか枯れたハス、フキノトウという、ごく普通の生き物を描いたことに、格調高い山水画みたいなものを期待した人たちからはまるで賛同を得られなかったようだ。

だが一村は、彼らにおもねることなく、彼らと絶縁して、独自の道を歩むことになる。

一村は次のように書き残している。

「私は23歳のとき、自分の将来行くべき画道をはっきり自覚し、その本道と信ずる絵をかいて支持する皆様に見せましたところ、一人の賛成者もなくその当時の支持者と全部絶縁し、アルバイトによって家族、病人を養ふことになりました」

ということは政治家の小泉又治郎も冷たく一村を突き放したのだろう。

資産家たちからの支援が得られなくなって、23歳以降30代の半ばまで、家族を養うため細工物や肉体労働でしのなどして苦難を伴う清貧生活を余儀なくされた一村だったが、志を曲げなかったことで、のちに奄美に渡り、新しい絵の境地にたどり着いたのだから、結果的にはこれでよかったのかもしれない。

母はすでになく、その間に父や弟たちも亡くなったため、30歳のときの1938年、姉たちとともに母の義弟である川村幾三氏を頼って千葉県の千葉寺町(現在の千葉市中央区千葉寺)に移り住む。

千葉に移ってから9年後の1947年39歳のとき、新たな画境のもとでの自分の作品を世に問おうと川端龍子が主催する青龍社の第1回展に出品した「白い花」が入選。この年、雅号を「一村」とし、翌年の第2回展にも「秋晴」「波」の2点を出品した。

だが、2点のうち「波」は入選したものの、自信作だった「秋晴」は落選してしまい、このことで龍子と衝突。入選を辞退して青龍社を離れてしまう。

1953年の日展に出品するも落選。このときの審査員には同級生だった東山魁夷がいた。

その後も日展院展に出品するもことごとく落選。中央画壇への絶望感を抱いた一村は、やがて画壇とは無縁の存在となる。

画壇では評価されなかったものの、周囲の人たちはあたたかい目で彼を見守り、屋敷の襖絵や天井画などの仕事をたびたび受けている。また、旅土産の色紙やデザインなどの仕事もこなしていた。

 

だが、自分の描きたい絵への情熱は増すばかり。千葉に20年住んだのち、南の島・奄美大島に移住することを決意したのは50歳のとき。このとき一村は画業10年計画なるものを立てた。「5年働いて絵を描く金を貯めて3年間描き、2年働いて個展の費用をつくり、千葉で個展を開く」というものだったという。

彼は大島紬工場の染色工の仕事で生計を立てながら絵を描き続けたが、10年がすぎても個展は開催できなかった。働いては辞めて絵を描き、また働くということを繰り返しているうちに体調が悪化し、69歳のときの1977年、一人孤独のまま急逝。夕食の準備中に心不全を起こし倒れたというが、無名の画家として生涯を終える。

彼の死から3年後の1980年3月、NHK の地方局のディレクターがローカル番組の取材のため名瀬港のダイバーの家に立ち寄ったとき、その家の壁に無造作に画びょうでとめられた1枚の魚のデッサンに目を奪われた。

田中一村という画家の絵です」と聞かされて、ディレクターの心が動かされた。

この“発見”から4年後の1984年12月9日、一村の死からは7年後、NHK日曜美術館で「黒潮の画譜〜異端の画家 田中一村〜」が全国放送される。この番組が大反響を呼び、その後、一村の展覧会が全国各地で開催され、一村の名は、彼の死後になって脚光を浴びたのだった。

 

それにしても、一村はなぜ南の島・奄美をめざしたのだろうか?

47歳のときの1955年、石川県に建立される聖徳太子殿の天井絵の仕事があり、その足で四国・九州へ旅行。鹿児島から種子島屋久島、トカラ列島まで足を延ばして見た島々の光と植物が一村の心を捉えた。南方の自然に魅了されて帰ってきた一村は、知り合いの画材店の人にこう語ったという。

「南は、海はきれい、花もきれい、鳥もきれい。また南へ行きたい」

50歳のときの1958年、院展に「岩戸村」「竹」を出品して落選。「自分の絵と院展の理想主義は合わないのはわかっていた」という言葉を残している。それでも院展の落選は相当ショックだったのではないか。ここに至ってついに一村は奄美行きを決意する。

千葉を出るとき彼は「奄美のあとは、北海道で北国風景を描く予定です。そして最後は東京で個展を開いて、絵の決着をつけたい」と身内に語っていたというから、奄美行きはあくまで新たな境地を探る旅のひとつであったのかもしれない。

それに、日本の最南端の島といえば今は沖縄だが、1958年当時、沖縄の施政権はアメリカにあり、沖縄は日本であっても日本ではなかった(施政権返還は1972年)。だから当時、日本の最南端は奄美だった。

一村は孤高の生き方をしたとして知られているが、彼のまわりには心優しい人々がいた。それは、南画家だった一村が新しい絵の世界に進むというとき手のひらを返したように冷たい態度をとるようになった有力者たちとは違って、一村の奄美行きを応援したのは彼のまわりの人々だった。

一村が千葉時代に世話になったのは母方の親戚の川村幾三氏だが、川村家の近くには千葉大学医学部があった。同大学医学部に大正時代からの歴史を持つ「樹徳会」という学生と教職員のための仏教サークルがあり、毎月1回、座禅会が川村氏宅で開かれていた。

千葉に移り住んだ一村もこの座禅会に参加するようになるが、この会のメンバーには、樹徳会の会長で公衆衛生学の柳沢利喜雄教授、柳沢教授に誘われた国立千葉療養所(現在の国立病院機構千葉東病院)の岡田藤助所長、友永得郎助教授(のちに長崎大学教授)らがいて、この会はやがて、一村の生活や画業支援の人脈にもなっていった。

 

1958年12月13日朝、鹿児島から船で奄美大島名瀬港に着いた一村は、彼を支援してくれた樹徳会のメンバーのひとりで、千葉大学から長崎大学医学部に転じていた友永得郎教授らの紹介状を持参して、名瀬市にあるハンセン病療養所「和光園」(現在の国立療養所「奄美和光園」)の小笠原登医師を訪ねる。

名瀬に着いた日は旅館に泊まり、4日後の1958年12月17日、和光園を訪れたときに一村が記した「芳名録」が展覧会で展示されていたが、それは芳名録の見開き全面に一村が墨で描いた船から見た島の全景であり、そのときの一村の感慨が記されていた。

小笠原医師は気骨あふれる人だったらしい。京都大学を卒業し医学博士の学位をとって京大病院で20年余にわたりハンセン病の治療にあたる。当時、ハンセン病は強制隔離・断種が当たり前とされ国もその政策を押し進めていたが、小笠原医師はこれに反対。学会からは一蹴されたが、診察にあたっては感染を恐れて防護服で身を固めるような医師や看護師とは違い、ハンセン病が感染力の弱い病気であると知っていた小笠原医師は感染を恐れる素振りなどみせず、普通の白衣のままで素手で患者を丁寧に診察し、終始患者の話に耳を傾けていたという。

京大を定年退官後も厚生技官としてハンセン病の治療にあたり、国の強制隔離政策に抵抗を続け、患者の人権を守ろうと不屈の生涯を送った人だった。

2001年5月、熊本地裁は強制隔離を認めた「らい予防法」は憲法に違反するとの画期的判決をいい渡したが、この判決を導いた背後には小笠原医師の貢献があったといわれている。

そんな小笠原医師が、和光園に赴任してきたのは69歳のときの1957年。50歳の一村が奄美にやってくるちょうど1年前のことだった。

和光園を訪れた一村は、友永得郎教授らからの紹介状があり、千葉大医学部の医師たちからの口添えもあったかもしれないが、訪ねた相手が気骨あふれる小笠原医師というので歓待を受けたに違いない。園長や事務長からも厚遇を受け、小笠原医師が住む宿舎に一緒に住むことになった。

画壇からつま弾きにされながらも画家としての信念を貫こうとする一村と、ハンセン病患者に対する差別や偏見とたたかう小笠原医師。2人は夜な夜な、どんなことを語り合ったのか、興味が尽きない。

一村は、小笠原医師を通じて和光園で暮らすハンセン病患者とも親しくなったようだ。患者からの依頼で、患者が肌身離さず持っている写真から肉親の肖像画を描いてほしいと頼まれて描き、これが評判となって依頼が相次いだというが、生涯、肖像画など描いたことのない一村にとって例外的な作品だったろう。

数年して一村は和光園の職員宿舎を出て、和光園職員が所有する粗末な借家に移り住む。ここをアトリエを兼ねた住居とし、早速庭先に家庭菜園をつくって自給自足の生活をしながら、大島紬の工場で彩色工として働き、お金が貯まると画業に専念し、また働いては画業の日々を繰り返すのだった。

 

南の島で新しい世界と出会う。おそらく一村の頭の片隅にはゴーギャンがいたのではないか。ゴーギャンは南の島タヒチに移り住み、ここで多くの傑作を生み出している。一村は日本のゴーギャンになりたかったのではないか。あるいは、マチスのことも頭にあったかもしれない。フランス北部で暗い世界ばかり描いていたマチスは、南フランスの明るい光と出会って作品を一変させている。

南の島・奄美にやってきて、今まで見たこともない風景や動植物に目を輝かせた一村だったに違いない。彼が奄美に到着してから20日あまりで、2冊のスケッチブックがたちまち埋まったという。サンゴの白浜やガジュマル、アダン、アカショウビンなどの鳥やチョウたち・・・。彼の心をとらえたのは、この島独特の力強い自然の姿だった。

 

今回の展覧会での白眉は、何といっても奄美で描いた2つの作品、「アダンの海辺」と「不喰芋(くわずいも)と蘇鐵(そてつ)」だろう。

「アダンの海辺」(1969年)

「不喰芋と蘇鐵」(1973年以前)

「アダンの海辺」は3年前の2021年の正月に千葉市美術館で開かれた「田中一村展‐千葉市美術館所蔵全作品」でも観ているが、「不喰芋と蘇鐵」は今回初めて観る。

「これは私の命を削った絵で、閻魔大王さまへの土産品なので、売れません」と生前、一村が知人への手紙で書き残したといわれる作品だ。

南の島で描いた作品というから、赤や緑の原色が鮮やかで情熱的な色合いの作品かと思ったらそんなことはない。いずれの作品も、とても静かで落ち着いた雰囲気の日本画であり、特徴的なのは両作品とも光が大事なポイントになっていて、それも、ギラギラと照りつける太陽の光ではなく、奥深くて、澄んだ光に満ちた作品なのだ。

いずれの作品も絹地に岩絵の具で描かれた日本画だが、「アダンの海辺」では、手前にアダンが生い茂り、その奥に海が揺らめく遠近法が用いられ、足元の砂礫、さざ波の描写が実に見事であり、砂礫は一粒一粒緻密に描かれている。遠景に沸き立つ白い雲。そして、はるか遠くから差し込む金色の光は、現世を超えて彼岸へと続く世界を表現しているようだ。

「不喰芋と蘇鐵」は、手前にクワズイモやソテツの葉が大きく描かれ、遠くに水平線。森のずーっと奥の水平線に浮かんでいるのは海に立つ岩・立神(たちがみ)。はるか海の彼方にあってこの世に豊穣をもたらしてくれる来訪神ニライ・カナイ(奄美ではテルコ・ナルコ)がやってくるときに立ち寄る島だ。そこにスーッと木漏れ日が伸びていて、奄美の豊かな自然と深い信仰とが融合した世界が描かれている。

2つの絵を観て気づいたことがあった。

「アダンの海辺」の遠近感のある構図が、一村が1958年、最後に院展に応募し落選となった「岩戸村」(作品自体は残っておらず、「岩戸村」ではないかと思われる写真が展覧会場で展示されていた)と、とてもよく似ているのだ。「岩戸村」の落選こそが、最終的に一村の奄美行きを決意させた。ひょっとして一村は、あのときの絵のイメージをずっと持っていて、奄美の風景としてふたたび描いたのかもしれない。それは、自分の作品を評価しなかった当時の中央画壇への反撃の意思表示だったかもしれない。

もうひとつ、「不喰芋と蘇鐵」に描かれているのは、奄美の人々にとってはどこにでも生えているので気にもかけないクワズイモでありソテツだ。そういえば、一村が南画から訣別して新しい境地をめざそうとした作品「水辺にめだかと枯蓮と蕗の薹」で描いたのも、日常どこにでもあるありふれた動植物のメダカであり、枯れたハスであり、フキノトウだった。

40年も前の20代のころに描いた作品だが、自らの心のまま、ごくありふれた風景の中にこそある自然の美しさを、一村はずっと忘れずにいて、ついに生涯の傑作にまで仕上げたのではないだろうか。