善福寺公園めぐり

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“爆発アーティスト” 蔡國強は如何にして生まれたのか

東京・六本木の国立新美術館で、火薬を爆発させて描く絵画やプロジェクトで世界的に知られる現代美術家・蔡國強(ツァイ・グオチャン/さい・こっきょう)の大規模な個展「蔡國強 宇宙遊 ―〈原初火球〉から始まる」を観る(21日まで)。

国立新美術館の柱も壁もないまるで広場みたいな2000㎡の展示室に置かれたのは、火薬で描いた7つの屏風ドローイング。展示室の奥では、本展のもうひとつの中心作品であるLEDを使った大規模なキネティック・ライト・インスタレーション「知との遭遇」がゆるやかに回転し、ときには花火のように一瞬明るい閃光を放っていた。

 

蔡の作品は、火薬の爆破による痕跡をキャンバスや和紙に留めることでつくられる。彼が独自に編み出した制作手法で、この手法を通して戦争や攻撃に用いられる火薬の爆発を美術作品へと転化。「原初火球」とは宇宙の始まり「ビッグバン」を指す中国語であり、爆発の痕跡を絵画にするともに、作品の制作過程で宇宙との対話に挑むプロジェクトにも取り組んでいるという。

 

「天地悠々:外星人のためのプロジェクト No.11」(1991年)

「《歴史の足跡》のためのドローイング」(2008年)

「胎動Ⅱ:外星人のためのプロジェクト NO.9」(1991年)

 

会場では制作風景が動画でも紹介されているが、なかなか迫力がある。

「闇に帰る」(2021年)という作品の制作過程。

チベットから持ち帰ったチベット絵画用の顔料を火薬と混ぜ合わせ、鏡の上に曼陀羅のような宇宙模様を描いていく。

出来上がった絵の上にガラスをかぶせて、導火線に火をつける蔡。

火花が走り抜けて「パン!」という鋭い破裂音とともに炎と白煙が舞い上がる。

こうして出来上がった作品は不思議な存在感を示している。

一瞬にして、さまざまな色の顔料で描かれた絵は混沌とした宇宙へと戻っていったようになった。

 

ほかにも、「万里の長城を一万メートル延長するプロジェクト」(1993年)では、万里の長城の最西部・嘉峪関を起点として砂漠の上に1万mにわたって導火線を設置し、600㎏の火薬を100秒間爆発させた。

2015年、蔡の故郷である中国の泉州市で行われた花火ショー「スカイライダー」。アルミ製のワイヤーをはしご状に組んで火薬を装着し、ボートから打ち上げた気球で高さ500mまで引き上げてく。火薬を点火すると花火は2分30秒にわたり燃え続けた。

蔡は若いころ福島・いわき市に住んだ。無名の芸術家だった彼を励まし支えたのがいわきの人々だったという。今年6月、いわきの海岸で人々への感謝や、東日本大震災の犠牲者への慰霊のために行われたのが「満天の桜が咲く日」と題する花火イベント。使用された花火はじつに4万発に及んだという。

2019年にメキシコ・チョルーラ市の屋外で行われた花火プロジェクト「未知との遭遇」。メキシコには「カスティージョ」という伝統花火があり、これは打ち上げるのではなく高い鉄塔にさまざまなモチーフを型どった花火をたくさん取り付けて点火する仕掛けになっていて、花火の勢いで回転したり動いたりする。蔡はこのカスティージョとコラボし、宇宙まつわる伝説、事物、功績のあった偉人のデッサンを起こし、メキシコの伝統花火の職人に依頼してカスティージョに仕立てた。

その花火をLEDとモーターに置き換えて、インスタレーションとして再構成していたのが本展における「未知との遭遇」。

花火を模して、LEDは動いたり色を変えて光り、やがて消えていく。

 

それにしても蔡國強はなぜ火薬に魅せられ、“爆発アート”を始めたのだろうか?

彼は1957年、中国福建省泉州市の生まれ。泉州市は香港と杭州市の間ぐらいのところにある海辺の街。対岸に台湾をのぞむ。

9歳ぐらいのとき、中国では毛沢東派による専制支配をめざす暴力的な「文化大革命」が始まる。「文化大革命」は彼が19歳ぐらいの1976年まで続いた。その後も、89年6月には民主化を求める学生らの平和的デモを中国指導部が武力弾圧した天安門事件が起きている。

火薬は1000年以上前に中国で発明された。そのころ中国では「不老長寿」の霊薬を求める錬丹術が盛んで、さまざまな鉱物を化合する試みの中で生まれたのが、瞬時の爆発によって破壊し、人の命を奪う火薬だった。

もともと“永遠の命”をめざして誕生したものだからなのか、中国では昔から火薬を使った花火が身近なものとしてあり、結婚式や葬式、子どもが生まれたときなどにもよく使われており、正月の花火も有名だ。蔡は、そうした“火薬の文化”に子どものころから親しんでいた。

一方、彼の父親は地元で知られた書家であり、墨を使って絵も描いていたという。しかし、子どもだった蔡にとって父の姿は「真面目すぎる」もので、彼が成長してアーティストになろうと思ったとき、もっと野生的で自由でありたいと望んで素材として手に入れたのが、身近な存在でもあった火薬だったという。

また、彼の少年時代が文化大革命の最中だったことも、火薬を選んだ理由のひとつだったかもしれない。彼はインタビューの中で次のようなことを語っている。

「爆発はコントロールできないもの。だから意外なことが出てくるんです。私が少年時代をすごした中国の社会にはさまざま制限がありました。それに対抗したい、自分を解放したい気持ちがあった。だからキャンバスを爆破したり、壁に掛けたキャンバスに向かってロケット花火を発射したりして、自身を解放していた。それが喜びだったんです」

火薬を爆発させると、一瞬のうちに破壊が起きるとともに新しい創造が始まる。

「火薬を作品の素材と決めたのは、何か根源的で本質的なものをそこに見出したからです。破壊の力と創造の力、この2つの両義的な関係を表現したい。アーティストは常に、予測できないこと、偶発的なこと、そしてコントロールできないことに魅了され、それらに畏敬の念を持っています」

彼は1984年、27歳のとき、すでに火薬を使ってキャンバスに絵を描いているが、それは遊び用のロケット花火をキャンバスに向かって打った痕跡を表現したものだった。

その当時の彼の作品。

「ロケット花火で打った絵」(1984年)

それから2年後の1986年、来日。筑波大学に在籍し、東京や取手市いわき市に滞在しながら創作活動を開始。やがて火薬を和紙の上で爆発させる作品を制作し始め、注目を集めるようになった。

なぜ和紙なのかというと、和紙はキャンバスより燃えやすい。それに対して火薬は温度が高く燃やすエネルギーが強い。燃えやすいものと燃やすエネルギーが強いものを一緒に使うと相乗効果で燃える速度が早くなる。こうして時間が圧縮されることで、美しい煙やエネルギーが和紙の中に残っていく。その美しさを発見したことが大きかった、と彼は述べている。

日本でははじめ1人で暮らし、半年後に同じ絵描きの妻も来日し、東京・板橋区の4畳半のアパートに住んで長女が生まれる。火薬を使うのは深夜、近隣の家が寝静まったあとの狭い台所で、子ども用の花火から火薬を取り出したり、マッチ棒の先端の火薬をけずり取ったりして爆発させていたという。

「住んでいたところは狭く、生活は大変だったけど、宇宙がとても近いと感じていたんです。私は地球人ではなく“外星人”として宇宙や地球の問題を考えていて、生活は貧しいけど、いつも空の星空は私を照らしていました」

 

今回の大規模な個展は、“爆発アーティスト”の原点を知る展覧会でもあった。

 

展覧会のあとは、国立新美術館近くの「中国名菜 孫」でランチ。

爆発アートの余韻を楽しみながらのランチの味わい。