善福寺公園めぐり

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新たな視覚表現で「生」を描く 「諏訪敦『眼窩裏の火事』」

JR中央線武蔵小金井駅からバスで10ほど揺られたところにある府中市美術館で開催中の「諏訪敦『眼窩裏の火事』」を観る(会期は2022年12月17日~2月26日まで)。

諏訪敦は精緻な描写力を使って、一見すると写真?いや写真よりリアル?と思うような独自の写実表現で注目されている画家。しかし、よく見れば目の前にある物や人物をただ写真のようにそっくりに描いているのではないことがよくわかる。

「対象を目に映る通りに描く」のではなく、取材やインタビューに時間をかけ、文献資料を読み込むなどのリサーチを徹底して行い、相手を十分に理解した上で新たな視覚表現として描くのが彼の「写実絵画」のようだ。

そのことがよくわかるのが、祖父母一家の満州引き揚げの足跡を辿った「棄民」と題するシリーズ。

彼は、執拗で膨大な取材と、制作段階における試行錯誤を繰り返し、過去のできごとを視覚的に呼び起こすことに取り組んでいて、そのひとつがこの「棄民」シリーズだ。

 

彼の祖母は、彼が生まれる20年以上も前の終戦直後に旧満州(現在の中国東北部)で31歳の若さで亡くなっていた。彼はそのことを亡くなった父が残した手記で知った。手記には、終戦の年の1945年(昭和20年)春に一家が満蒙開拓団として満州にわたり、3カ月あまりでソ連軍の侵攻にあい、逃亡し、たどり着いたハルビンの難民収容所で飢餓と伝染病に苦しんだ惨状がつづられていて、祖母はその年の冬に亡くなっていた。

祖母や父の無念や怒りを知った彼は、画家として「忘れられた人々」のことを絵にしなければと中国東北部に向かった。

「棄民」は、病に倒れた病室の父の姿を克明に描いた「father」(1996年)に始まり、亡くなった父の顔のクローズアップ、父に似ていると感じた幼い長男の寝顔の水彩画へと続く。

満州国」建国に大きな役割を果たした軍人・石原莞爾と、彼の父の幼少期のあどけない姿を描いたドローイング。石原と彼の父は同じ山形県鶴岡の出身だった。同じ故郷をもつ、同じようにあどけない子どもだった2人が、なぜ加害者と被害者にわかれなければならなかったのか。

シリーズと同名の「棄民」(2011~13年)は縦約2・5mという大画面の母子像。

父を抱いた祖母の姿が描かれているが、顔の下半分はなかば白骨化し、幼子の顔も部分的に黒く塗られている。中国を侵略した軍国主義・日本は国策により満蒙開拓団を中国に送り込み、移民たちは過酷な逃避行のなかで約8万人が犠牲になったが、その悲劇がこの絵に凝縮している。

「HARBIN 1945 WINTER」(2015~16年)は雪原に横たわる痩せ衰えた裸婦像。

《HARBIN 1945 WINTER》 2015-16年 キャンバス、パネルに油彩 145.5×227.3cm 広島市現代美術館

 

展覧会の会場では、大スクリーンに祖母の「生」から「死」を迎えるまでの過程が映し出されていた。最初は草原に横になる健康そのものの祖母の姿。それが次第にやせ衰え、やがて死を迎えるまでが描かれていて、まさしく祖母の「生」と「死」を追体験する作品となっていた。

 

シリア内戦を取材中に銃撃され亡くなったジャーナリストの山本美香肖像画山本美香(五十歳代の佐藤和孝)」(2013~14年)。

山本はジャーナリスト・佐藤和孝のパートナーだった。山本の瞳の中には佐藤の姿が描きこまれていて、慈しむような山本の眼差しが見る者に迫ってくる。

 

「模倣」を意味する新作「Mimesis」(2022年)。

描かれているのは舞踏家・大野一雄に触発された作品に取り組むダンス・パフォーマーの川口隆夫ということだが、そこには100歳を超えても舞台に立ち103歳で亡くなった大野の姿もあり、滴り落ちる絵の具は画家自身をも表現しているのか。表現は、ひとつでもあり多重でもある。

 

諏訪敦は1967年北海道生まれ。武蔵野美術大学大学院修士課程修了後、文化庁芸術家派遣在外研修員として2年間スペインに滞在し、2018年からは武蔵野美術大学造形学部教授。

本展のタイトルである「眼窩裏の火事」は、展示されている静物画の中に陽炎のような揺らめきや輝くような光点が描かれていることに由来しているようだが、それについては次のように解説されていた。

 

ときに視野の中心が溶解する現象や、辺縁で脈打つ強烈な光に悩まされることが諏訪にはある。それは閃輝暗点という脳の血流に関係する症状で、一般的には光輪やギザギザした光り輝く歯車のようなものが視野にあらわれるという。したがってここに描かれているガラス器を歪め覆う靄のような光は現実には存在しない。しかしそれは画家が体験したビジョンに他ならない。