善福寺公園めぐり

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黒澤とイシグロ 2つの「生きる」

新宿のTOHO CINEMASでイギリス映画「生きる LIVING」を観る。

70年前につくられた黒澤明監督の「生きる」(1952年)を、ノーベル賞作家のカズオ・イシグロの脚色によりリメイクしたというので話題となり、アカデミー賞にもノミネートされた作品。

しかも偶然にも、映画館で観たその日の夜にテレビの日本映画専門チャンネルで黒澤監督の「生きる」を放送していた。黒澤作品は何しろ古い映画なので映画館で観た記憶がなく、何十年も前にテレビで観たことはあるがまるで忘れていて、覚えているのは主人公がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌う最後のシーンぐらい。

おかげで新鮮な気持ちで、昼はイギリス映画の「生きる LIVING」、夜は日本映画の「生きる」と、2作品を続けて観ることができた。

 

イギリス映画「生きる LIVING」は2022年の作品。

原題「LIVING」

監督オリヴァー・ハーマナス、脚本カズオ・イシグロ、出演ビル・ナイ、エイミー・ルー・ウッド、アレックス・シャープ、トム・バークほか。

1953年、第2次世界大戦後のロンドン。仕事一筋に生きてきた公務員ウィリアムズ(ビル・ナイ)は、自分の人生を空虚で無意味なものと感じていた。そんなある日、彼はがんに冒されていることがわかり、医師から余命半年~1年と宣告される。愕然としたウィリアムズは仕事を放棄し、海辺のリゾート地で酒を飲んで馬鹿騒ぎするも満たされない。ロンドンへ戻った彼はかつての部下マーガレット(エイミー・ルー・ウッド)と再会し、バイタリティに溢れる彼女と過ごすうち、そこでようやく自分が30年間をただ時間をつぶし、生きたとはいえない人生を歩んできたことに気づく。このままでは死んでも死に切れないと思い至った彼は、自らが棚上げにした公園建設を半年間の奮闘の末に成し遂げ、完成した公園で故郷のスコットランド民謡を歌いながら、満足して死んでゆく。

 

一方、日本映画の「生きる」。

1952年の作品で、モノクロ。監督・黒澤明、脚本・黒澤明橋本忍小国英雄、出演・志村喬日守新一田中春男千秋実小田切みき左卜全藤原釜足金子信雄ほか。

きのう観たのは4Kデジタルリマスター版。

ビル・ナイが演じた市役所の市民課長役を志村喬が、元部下の元気な女性役を俳優座研究生の新人、小田切みきが抜擢されて演じている。

 

両作品を観て驚いたのは、イギリス作品は黒澤のオリジナルにほぼ忠実だったこと。

違っているのは、がんと知って落ち込んで夜の街を一緒にさまよう相手が、黒澤作品では小説家だったのがイギリス作品では不眠症の劇作家だったこと、彼に生きる意味を教える女性の元部下が黒澤作品ではオモチャ工場で働いているが、イギリス作品ではカフェのウェイトレスをしているところ、亡くなった課長について部下たちが語り合うシーンが通夜の席だったのが役所から家に帰る列車の中だった、ということぐらいで、あとは細部に至るまで黒澤作品どおりに描かれているのだ。

元部下の女性が役所の上司や同僚にあだ名をつけているところも同じで、黒澤作品では課長のあだ名は「ミイラ」だったが、イギリス作品では「ゾンビ」だった。

 

脚色したイシグロは、両親が日本人で、生まれたのも日本の長崎県海洋学者だった父親がイギリスに招かれて国立海洋研究所の研究員になったことから5歳のときイギリスに渡り、以後イギリスで育って29歳でイギリスに帰化している。

ルーツは日本ということもあって黒澤監督をリスペクトする気持ちは強く、極力オリジナルを尊重しつつ「イギリスの物語」にしたかったのではないだろうか。

だから、映画全体を流れる雰囲気はイギリスふうだ。

黒澤作品で志村喬が演じる課長はどこか朴訥な感じがあるが、イギリス作品でビル・ナイが演じる課長はピン・ストライプの背広に身を包み、山高帽を目深に被った“お堅い”英国紳士。

住んでいるところもロンドン近郊の比較的裕福な中産階級がすむというイーシャーで、毎日同じ時間にウォータールー駅まで蒸気機関車が引っ張る列車に乗り、ステッキ片手に勤め先の市役所の庁舎に通っている。

イシグロは黒澤作品をリメイクするにあたって、主役が志村喬ではなくて笠智衆だったらどんな映画になるだろう、と思ってビル・ナイをキャスティングしたという。

 

ほかにも微妙な違いはあり、主人公が自分の病気について知るシーンは違う。

イギリス作品では、医師が主人公に「あなたは末期のがんです」とはっきりと告知しているが、黒澤作品では医師は「ただの胃潰瘍ですよ」と告げるだけで本当のことをいわない。日本では最近までがんは本人には告知しないものとなっていた。その点、イギリスでは早いうちからがんについてのインフォームドコンセント(説明と同意)が確立していたのだろう。

全体的に明るい感じで描かれているところも黒澤作品とは違う。ラスト近くでは課長の元部下の女性が元同僚の男性と腕を組んで歩く姿が描かれていて、若者たちの未来を予感させている。

 

それに比べて、黒澤作品の何と暗いことか。

特に志村喬の鬼気迫る演技には圧倒される。

彼は、胃がんで半年の命の人間になりきろうと、役づくりのため私生活でも「自分は胃がんなんだ」といい聞かせてすごしたという。撮影終了後、ひょっとしたら本当に胃がんかもしれないと心配になって病院に検査に行ったほどだったとか。

しかし、志村喬があれだけ暗くて鬼気迫る演技をしたおかげで、「生きる」が余計に際立ったのではないだろうか。

以前、がんのホスピスを運営している人の話を聞いていたとき、「ホスピスは死んでいく場所ではありません。誰よりも懸命に生きている人たちがいる場所です」と語っていたのが今も記憶に残っている。

死期が迫り、絶望の淵にまで追い詰められた主人公が元部下の女性をレストランに誘って食事しているとき、彼女は自分が工場でつくっているウサギのオモチャを取り出す。ゼンマイで動く仕掛けになっていて、かわいいいそのオモチャに見入る主人公。彼女はいう。「課長さんも何かつくってみたら?」。その言葉に彼は公園づくりを思い立ち、自分はまだ死んではいない、今から生まれ変わったようにして生きるんだ、と勇んでレストランから出て行く。

そのとき、レストランの別の場所ではどこかの金持ちの家のお嬢さんグループが誕生祝いをしていて、「ハッピーバースディトゥユー」の合唱が流れる。

その対比が鮮明だった。