善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

今だからこそ 香月泰男と立花隆

先日、東京・練馬区立美術館で、抑留体験を描いた「シベリア・シリーズ」で知られる画家・香月泰男(1911~1974年)の大規模回顧展である「香月泰男展」を観て衝撃を受け、香月泰男とはどんな人かますます興味を抱いたところ、昨年4月に亡くなったジャーナリストで作家の立花隆氏が香月泰男について書いた「シベリア鎮魂歌――香月泰男の世界」(文藝春秋)が2004年に出版されていたのを知り、読む。

f:id:macchi105:20220316164730j:plain

 

同書は、香月が亡くなる4年前の1970年に抑留体験とシベリア・シリーズの制作意図について詳しく書き残した「私のシベリヤ」と題する回顧録と、香月の死後20年を記念して95年に追悼番組として放送された彼のシベリア抑留の足跡を追ったNHKの特番「NHKスペシャル立花隆のシベリア鎮魂歌」の放送後に、立花氏が行った講演の記録をまとめたもの。

本書を読んで驚いたのは、「私のシベリヤ」の本当の筆者は立花隆氏であり、立花氏は香月の話を聞いてゴーストライターとして文章にまとめたたものだった、ということだった。

この本が出版された当時、立花氏は29歳。その何年か前に勤めていた文藝春秋を辞め、東大に入り直したのちにフリーで評論活動を始めるようになる。まだフリーとしては駆け出しの身なので、元の職場である文藝春秋から仕事をもらいゴーストライターとして糊口をしのいでいたのだろうが、その後の彼の活躍の片鱗を示すような中身の濃い内容の本になっている。

 

香月泰男は、太平洋戦争の従軍から敗戦、シベリア抑留に至る4年間の過酷な体験を、62歳で亡くなるまで「シベリア・シリーズ」として全57点の作品にしている。立花氏は10日ほど近くの旅館に泊り込んで、毎日毎日、香月宅に通って香月泰男の人生を根掘り葉掘り聞き出し、一冊の本にまとめたという。

この「私のシベリヤ」を読んで特に感じたのは、香月泰男の過酷な生活の中での自然を見る目のやさしさというか、純粋さだった。

ひどいときはマイナス50℃とか60℃にもなるような極寒の地で、満足に食べるものも着るものも寝るところも与えられずに働かされ、餓死の縁まで追い詰められる中でも、彼は美しいもを美しいと感じる心を忘れなかった。いや、極限の状況にあるゆえか、より美しさに惹かれていった。

 

香月はこう書いて(述べて)いる。

「(火力発電所で用いる薪をつくるための森林の伐採作業で)高い大きな木が雪煙りをあげて倒れると、目の前に、丸い大きな木の切り口がポッカリと現れた。松の樹皮の赤い色と、見事な同心円の波を打つ年輪の肌はなんとも美しかった。見るたびに感動した。かじかんで、しびれすら感じさせる手足の冷たさも、鋸を挽く全身運動で目まいがするほどになる疲労も、一瞬すっかり忘れてその美しさに見入った。あたりは一面の白雪の中で、それは鮮烈といってもよかった。能舞台のようなすがすがしさでもあった。

鋸も美しかった。分厚い鋼鉄の刃は、木の切り口が持つ自然の美しさとは対照的な人工の美の極を感じさせた」

 

「(彼は満州で受け取った慰問袋の中に入っていた雑誌のグラビアページにあった法隆寺の夢違観音の写真が気に入ってずっと持っていたのだが)作業場に行く途中に一本の松の木が他の木とは少し離れていかにも形よくスポーンと立っていた。朝作業場についてしばらくすると、太陽があがってくる。すると、雪が太陽に照らされて、一面のバラ色に輝きだす。バラ色の雪をバックに立つ、雪をかぶった松はなんともいえず美しかった。いつしか私は、その松を神聖化して見るようになった。そして、松の木と夢違観音のイメージがダブってくるようになった。

これはまだ(作品にしようとしても)イメージが定着しない。日本に帰ってきて生活しているうちに、だんだん俗物的な感覚になっていき、俘虜生活中の純粋なとぎすまされた感覚を失ってしまったために、一本の木に感激してそれを神聖視するということが実感できなくなってきたためかもしれない。あの感激をとりもどせない限り、絵にしたってろくな絵はできないだろうと思う」

 

「一人の絵かきとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。生命そのものが危険にさらされている瞬間にすら、美しいものを発見し、絵になるものを発見せずにはいられなかった。・・・今私はシベリヤを描く。描きながらやはり私は、絵描きである幸せを思わずにはいられない。たぶん私は自分のためだけに描いているのだ。一塗り一塗りが私には救いなのだ」

 

こんなことも書いている。

「(彼は戦友が死ぬたびにその顔をスケッチし、日本に持ち帰って遺族に渡そうと持っていたが、ソ連兵に見つかりすべて燃やされてしまった)しかし、彼らの一人一人は私の中に生きている。私が“シベリヤ・シリーズ”で描く顔、私がようやく発見することができた“私の顔”は、あの死者たちの顔に他ならない。肉が落ちきり、目がくぼみ、頬骨が突きだした死者たちの顔は、こけ方がひどかっただけに、光と影のコントラストをくっきりとつけ、中世絵画のキリストのデスマスクのような哀しい美しさを示していたのは確かである」

 

香月は満州終戦を迎え、シベリア送りの列車に乗せられて移動していく途中、線路脇に打ち捨てられた日本人の死体を目撃していて、それは、日本軍によってひどい目にあった中国人が恨みを込めて日本人を殺し、生皮が剥がれた状態で放置された死体で、香月はそれを「赤い屍体」と呼んだ。一方、帰国して広島で原爆により生きながら焼かれて黒こげになった死体を彼は「黒い屍体」と呼んだ。

日本人は戦争のあと、「黒い屍体」の記憶ばかりが強くなって、自分たちはあの戦争の被害者だという意識が強くなった。しかし、やはりあの戦争の原点としてあるのは、中国人にひどいことをして、戦後その恨みを買って「赤い屍体」になった日本人だったのではないか。「赤い屍体」にさせられるような日本人がたくさんいたから、あの戦争も起きたのではないか、と香月は次のように述べて加害責任に言及している。

「言葉ではうまくいえないが、これだけのことはいえる。戦争の本質への深い洞察も、真の反戦運動も、黒い屍体からではなく、赤い屍体から生まれ出なければならない。戦争の悲劇は、無辜の被害者の受難によりも、加害者にならなければならなかった者により大きいものがある」

 

この本の末尾で立花氏が述べていることも、とても重要だと思う。

本では、立花氏が自ら極寒のシベリアに渡り、戦争と抑留という時代に翻弄された香月の足跡を追ったNHKスペシャルの番組の中で立花氏が述べた次のような締めくくりの言葉が紹介されている。

「戦後五十年を経て、シベリア抑留の生き残りの方はどんどん少なくなってきています。シベリア抑留だけではありません。あらゆる戦争体験の記憶が我々の間から失われつつあります。個人にとっても国家にとっても、記憶は人格の一部です。戦争体験の記憶を失ったとき、日本という国家の性格も変わってしまうのではないでしょうか。香月さんの絵は、我々が忘れてはならない記憶とはなんであるかを、戦後五十年、没後二十年を経て、なお雄弁に語っていると思います」

 

この言葉を受けて、立花氏は本書でさらにこう続ける。

「この放送が終わってから、すでに十年たつが(本書の出版は2004年)、同じことが今はより以上強くいえると思う。十年前には想像することすらできなかった、日本軍(自衛隊)の海外派兵がすでに行われ、それを推進した日本の首相が、今度は戦争放棄憲法九条を改正すべきだと公言し始めている今日、香月さんのシベリア・シリーズは、ますます輝きを増していると思う。

戦後十年目の戦争に対する社会の見方の変化に、あれほど怒った香月さんが、いま生きていたら、何といっただろう。

香月さんがもういない今日、我々はせめて、シベリア・シリーズを語りつぐことだけはやめてはならないと思う」

 

本の出版から20年近くがたって、立花氏の言葉はますます重いものになっている。