善福寺公園めぐり

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ケルトを巡る旅

河合隼雄ケルトを巡る旅-神話と伝説の地』(講談社プラスアルファ文庫) を読む。

キリスト教以前のヨーロッパに現存した民族がケルト人で、宗教、文学、美術など多岐にわたる文化を持っていた。キリスト教一神教であるがゆえに排他的な側面を持っていて、ケルト文化は、キリスト教の広がりにともない、そのほとんどがなくなってしまったという。今日、ケルト的なものが多少なりとも残っているのがアイルランドという。

本のはじめに河合氏がケルトの文化に興味を持ったいきさつを語っていて、それが興味深い。
要約すると次のようなことだ。

西洋の、特に近代の文明は、人間の理性に重きを置いて発展してきた。何でも神頼みだったのが、神様を抜きにして人間の理性を基準にものごとが処理され、やがて理性が世界を支配するようになっていった。
しかし、人間の心にはどうにもならないことがある。それは、意識の力ではコントロールできない心の働きだ。人間が意識していないところ(無意識)、自分でも気づかないところに、不思議な心の働きがある。

無意識の世界を知るひとつの手だてとして昔の物語、つまり神話や昔話、民話といったものが非常に大切だということに気がついた。

日本人のことを考えるには日本の神話が重要だ。では、世界の民話はどうだろう?
なかでもケルトの神話は、キリスト教以前のヨーロッパに生まれたものとして非常に興味深い。

物事を研究したり論文を書いたりするときに私たちは、どうしてもヨーロッパ近代の考え方から逃げられず、そのパターンに従ってしまいがちだ。いうなれば現代人は知らず知らずのうちにキリスト教が生み出してきた文化を規範として思考してしまう。
しかし、実際はヨーロッパの人々も、その背後にケルト的なものを持っているのではないか。
そう思って調べると、ケルトのおはなし(神話というか伝説)には、日本の昔話や神話との共通点が多いことに気がついた。

キリスト教一神教であるがゆえに、善悪や「正統と異端」といった、二極的な考え方を持つ。よってキリスト教が厳しく導入されたところでは、ケルトの文化にまつわるものはほとんどなくなっている。それも意図的に破壊されたという感じがする。
しかし、幸いなことにアイルランドでは、その影響が少なかった。キリスト教文化はローマから発し、イングランドまで及んでくるのだが、アイルランドはヨーロッパの辺境にある島だったからだ。

日本も大陸の東端にあり、そのことが固有の文化を育てる一因となった。地理と文化の関係は大きい。侵略の及ばないところに従来の文化は残るのだ。

アイルランドへ行き、ケルトにまつわるものに触れることは、キリスト教以前のことを知るとともに、「キリスト教以後」の「これから」を考えるために役立つのではないか、それは現在の悩める日本人への示唆をも包含しているのではないか。私はそう考えた。

日本人はキリスト教抜きで、巧みに欧米の文明を取り入れてきた。それが今、ある種の頂点に達しているような状態である。私は、キリスト教以前のことを知るのは、日本のこれからを考えるヒントになるのではないかと考えたのである。そのためには、ケルト的なものが残されているところに行ってみようと。

それで河合氏は、いまもケルトの文化が残るところを旅しようとアイルランドを訪れる。

河合氏によると、キリスト教のもとでの文化では、たとえばグリム童話のように物語はハッピーエンドで終わる。かつて童話の研究者は、それが「本格的」な昔話と考えてきたという。
たとえばグリム童話にカラスが出てくる話がある。さまざまな苦労をしてカラスは人間のお姫様になり、最後には王子と結婚してハッピーエンドとなる。
一方、主人公が別れ別れになって終わるような日本の昔話は「本格的」ではないとされた。
ところが、ケルトの昔話には日本の「浦島太郎」とか「夕鶴」によく似たものがあるという。

たしかに河合氏が紹介した、今に残るアイルランドの話を読むと、日本の昔話にそっくりなのがある。
たとえば「『オダウド家』の子どもたち」という話。
むかしむかし、アイルランドの海辺の町イニュシュクローンに、若い男が暮らしていて、ある日のこと、浜辺で人魚と出会う。男が、人魚がまとっていたマントを剥ぐと、人魚は若くて美しい女性に変身する。
2人は結ばれ、7人の子供が生まれる。
やがて戦争が始まり、男は戦場に行くことになるが、留守の間に妻がマントをまとって海に帰ってしまわないように、マントを隠してしまう。
しかし、あるとき、末っ子が母親にマントの隠し場所を教え、彼女は海に帰る決意をする。
7人の子を連れて海の近くまで逃げるが、最後は子ども6人を岩に変え、末の子だけをマントにくるんで、海に連れて帰ってしまった。
6つの岩は今も人魚岩と呼ばれ残っている。

この話は明らかに日本各地にある「羽衣伝説」と似ている。
しかし、羽衣伝説は日本だけでなく世界各地にもある。世界の各地では「白鳥処女伝説」として語り継がれており、その源流はシベリアという説がある。
ある研究者の調査によれば、さらにそのまた源流をたどれば、シベリア・ブリヤート地方のアリャティ村で語られていた白鳥伝説がその起源ではないか、との説さえある。

ブリヤートとは、今のロシアの一地方で、南シベリアのモンゴル系言語を話す民族が住む地域。17世紀にラマ教チベット仏教)がチベットからモンゴルを経由して入ってくるまでは、住民の間にはシャーマニズムが信仰されていた、と百科事典にある。

シャーマニズムとは原始宗教の一形態で、神霊や祖先の霊などと、シャーマン(呪術者、巫女)を仲立ちとして心を通わせる。シャーマンという言葉はシベリア東部のアルタイ諸語の1つ、ツングース語に由来するという。

シャーマニズムとともに、白鳥伝説が世界の各地に伝搬していって、日本では「羽衣伝説」となり、アイルランドでは「人魚伝説」となったのだろうか。

そういえば、キリスト教以前、ケルト人たちが信仰した自然崇拝の思想あるいはその実践者のことを「ドルイド」というそうだが、どこかシャーマニズムあるいはシャーマンと似ている気がする。

ほかにも、夏至の祭、ウィッチ(Witch)と呼ばれる魔女、ストーンヘンジストーンサークル、太古からの遺跡や塚、聖地といわれる場所が一直線上に並び、特別のエネルギーが通るレイライン(ついでにレイラインを発見・特定する銅線ダウンジング・ロッド)、人間を癒す特別な力を持っているといわれるメンナントール、いずれもシャーマニズムとの関わりが見て取れる。
もとをたどれば、アニミズムに行き着くのかもしれないが・・・。

話は飛ぶが、NHKで放送中の朝ドラ『花子とアン』は明治から大正にかけての話だが、音楽を梶浦由記さんという人が担当していて、ときどきケルトというかアイリッシュッっぽい曲が流れる。それが妙に甲府の田舎の風景とマッチしていて、いつも不思議な感覚にとらわれている。