金曜日朝の善福寺公園は晴れ。雨上がりでさわやか。
けさも上池のカルガモのヒナは元気そうだった。
遠くにカワセミが止まっていた。久々に見るが、子育てはどうなったんだろう?
葉っぱの裏に止まっていたツマグロオオヨコバイ。別名バナナムシ。
葉っぱの汁を吸ってるみたいなんだが、お尻の先から滴り落ちてくるのはオシッコだろうか。
葉っぱにつかまってじっくり吸汁しているツマグロオオヨコバイは、数秒から数十秒間隔で水滴のような液体、つまりオシッコを排出する。
吸い取った葉っぱ汁は体内をめぐるうちに栄養素だけ取り除かれ、残った液体が外に捨てられるのだろう。
オシッコだってこうしてみると美しい。
アオサギがそっと隠れるようにしてエサをねらっていた。
先日孵化したばかりのカマキリの卵鞘のあたりでは、けさも赤ちゃんカマキリが何匹もいた。
近くではワカバグモが産卵しているのかな?
あるいはまだ卵のうが小さいみたいだから、産卵はこれからかもしれないが。
クサグモが逃げていくところ。
雨上がりはカタツムリが多い。カタツムリの親子か、きょうだいか?
大きめのエダシャクガが止まっていた。
ウメエダシャクか、あるいはトンボエダシャク、それともヒロオビトンボエダシャクか?
どれもとても似ているのでわかりにくい。
ガの仲間だが、チョウのように日中に活動し、ヒラヒラと舞う。
わが家に戻ったら、何と、道路際の敷地の端っこに、ピンク色したネジバナが咲いていた。
そろそろ咲く時期だろうと、毎日公園を散歩しながら探しているが、なかなか見つからない。それがこんな身近で咲いていたとは。
ランの仲間で別名モジズリ(綟摺)。
初夏の今ごろ、花茎を伸ばして小さな花がらせん階段を上るようにねじれながら次々と咲いていく。属名のSpiranthesは、ギリシャ語のspeira(螺旋)とanthos(花)の合成語で、“螺旋状の花”という意味だそうだ。
別名のモジズリは、織物の一種「忍捩摺(しのぶもじずり)」に由来しているといわれる。
百人一首の有名な歌に次のようなのがある。
みちのくのしのぶもじずり誰ゆえに乱れそめにし我ならなくに
歌の意味は、陸奥地方で織られる「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように私の心は乱れている。いったい誰のせいでしょう。私じゃなくて、あなたのせいですよ。
ネジバナは、江戸時代にはすでに「もぢずり」の名で呼ばれていたと「花壇地錦抄(かだんちきんしょう)という元禄8年(1695年)の園芸書に記載されているという。
おもしろいのはネジバナのねじれ方。右巻きと左巻きとがあり、その比率はだいたい1対1。中には花がねじれない個体や、途中でねじれ方が変わる個体もあるんだとか。
アサガオは右巻きで伸びていって、これは遺伝子がそうさせているのだろうが、モジバナの場合は“遊び”遺伝子が好き勝手にさせているのだろうか?
さらにネジバナについては興味が尽きなくて、なぜねじれるのか?
まっすぐ太陽に向かって伸びていけばいいのになぜわざわざねじれながら花をつけるのか?
これははっきりしたことはわかってなくて、細い茎にたくさんの花をつけようとすると、片方だけにつけると倒れてしまうから、とかの説があるらしいが、あまり説得力はない。
もうひとつ不思議なのは、雑草のくせして(失礼!)、ネジバナはなかなか見つけられないのはなぜ?
これははっきりとした理由があって、ネジバナは菌従属栄養植物といって、共生してくれる菌がないと発芽ができないからだ。
芝生などがあるとネジバナがよく見られるというが、それは芝生の土にはネジバナの共生菌が多いからだろうか。
共生の世界とはよくしたもので、自分一人では生きていけないが、体内に共生してくれるものがいてくれるおかげで生きていける。
ネジバナの場合も、自分だけでは育っていけるだけのパワーを生み出せないが、共生菌にさまざまな栄養素をつくってもらうおかげで、スクスクと育つことができる。共生菌自身も、ネジバナと共生することで菌として命をつなげられるから、満足なのだろう。
そういえば人間の祖先だって、さかのぼれば真核生物の誕生のころ、ミトコンドリアと共生することで酸素を吸って地球上に生きられるようになったのであり、今もミトコンドリアと共生して生きている。
共生って、生命の根源にあるものなのかもしれない。
と、朝の散歩でそんなことまで考えてしまったのであった。