等伯第3弾!
等伯が絵師として活躍した時代は、下克上の戦国時代。
御用絵師をめざす絵描きたちとて同じこと。
自分の出世は自分のウデで勝ち取るものだったようです。
それは「町衆」に代表されるように、
やがて有力町人が武士に負けない力を持っていく時代の流れとも、
深く結びついていたかもしれません。
「山水図襖」という絵があります。等伯51歳の作品。
30代のころ(一説には40代)京に上った等伯は、
大きな仕事を手がけるために東奔西走。
秀吉お抱えの千利休の知遇をえることになります。
これに対して、等伯の台頭を苦々しく思っていたのが、
当時、朝廷や天下人の仕事を独占していた狩野派の狩野永徳です。
あれこれと政治工作を行い、等伯の仕事を邪魔します。
そんな"戦国絵師"の"仁義なき戦い"を象徴するエピソードがあります。
等伯は大徳寺三玄院に乗り込み、住職である春屋宗園に、
自分の作品を襖に描かせてほしいと頼み込みます。
すると宗園は「ここは修行場であるから襖絵は必要ない」と断ります。
そこで等伯は、宗園の不在のスキをねらって寺に上がり込み、
小坊主たちの制止を振り切って襖に一気に絵を書き上げ、立ち返ったといいます。
この大胆な行動の背景には、それだけ自分のウデに自信があったことと、
当時の画壇は信長や秀吉の引きを得た狩野派が完全に支配しており、
正攻法ではなかなか仕事にありつけなかったからです。
いわば自分の人生をかけた一大ギャンブル。
ギャンブルに賭けるともぞーの気持ちもわかります。
等伯の賭けは大成功。この襖絵は評判を呼び、
その後、多くの寺院から注文が入るようになったといいます。
本図は桐文を全体に施した襖に水墨で山水図が描かれています。
桐文が降りしきる雪をあらわしていて、見事な効果を醸し出しているんだとか。
これも必見の1つです。