善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

等伯展の見どころ2「信玄像のナゾ」

今回の回顧展には肖像画の傑作もいくつか出展されます。
その1つが武田信玄像です。
これも重文で、この絵は3月7日までの限定出展なので、
私たちは運よく見ることができます。
武田信玄といえば、誰もが思い浮かべるのが教科書に載っているあの肖像画でしょう。
黒沢明監督も「影武者」を作るとき、あの絵が頭にあったので、
それで勝新太郎を信玄役に選んだに違いありません。
それが長谷川等伯描くところの信玄像です。
等伯肖像画でも傑出していました。中でも、
能登・七尾に生まれ、20代から地元の人気絵師として活躍していた等伯の運命が、
大きく変わったといわれるのが、この信玄像です。
制作年代はあきらかではありませんが、一説によると、
30代のころ、能登の隣国・越前の朝倉氏から、信玄の肖像を依頼されたといわれます。
それだけ彼の絵の力量は近隣に伝わっていたのでしょう。
戦国乱世の時代です。
反信長方だった朝倉氏は、信玄を自分の側に引き寄せるため、
贈り物としての肖像画等伯に描かせたといわれます。
そして、等伯はこの絵を通じて、天下の権力者に仕えて、
御用絵師になる野望を抱いたのだ──と歴史家は説明しています。
ところが、「この絵は信玄を描いたのではない」とする説が最近、有力になっていま
す。
ではいったい、だれを描いた絵なのか?

等伯描くところの武田信玄像は実は武田信玄ではない」
とする説の主張はこうです。
この絵がいつ描かれたかというと、
等伯が上京したのちの1572年ごろとする説があります。
だとすると等伯33歳。まさに上昇一途の時期です。
とすると、武田信玄は51歳。翌年に信玄は没しています。
ということは生きている信玄をジカに見て、
そのスケッチをもとに描きをあげたのでしょう。そこで、
「この絵は信玄の晩年期を写したもの。ところが晩年の信玄は労咳に冒されていた、
つまり、この絵のように健康的だったとは考えられない」
「信玄は出家したはずなのに、後頭部に髻(もとどり)が描かれているのはおかしい」
「武田家の家紋は花菱なのに、
懐刀のサヤの部分に丸に二引き両という別の家紋があしらわれている」
では描かれているのは誰かというと、
同じ戦国大名である「畠山義続(よしつぐ)である」というのです。
畠山義続能登の大名であり、等伯はもともと畠山氏の家臣の出身です。
また、丸に二引き両は畠山氏の家紋です。
これに対する反論はこうです。
「戦国武将には出家してもマゲをしたままの例がかなり多い」
「丸に二引き両は当時の将軍・足利氏の家紋でもあり、
小刀は将軍家から賜与されたと解釈できる」
はたして本当は? わかりません。
でもこの絵を見ると(ホントはまだ見てない)、
等伯のなみなみならない意欲が伝わってきます。
そもそも鷹を見つめる武将の図、というのが例がないといいます。
じっくりと見ることにしましょう。
いやー、それにしても1つの絵の中にいろんなドラマがあるものですねー。
今回はほかに、やはり重文の千利休像もあります。
こちらは1595年、等伯56歳のときの作。
利休が秀吉に切腹を命じられてこの世を去ってから5年後に描かれています。
これも必見です。
等伯は生前の利休と何度もあっていますから、
その表情を写しとったスケッチをもとに描いたもののようで、
リアリティに富んだ描写がなされています。
絵の上部には漢詩があります。
大徳寺三玄院住職の春屋宗園が記したものです。
宗園、利休、等伯の交わりをうかがう上でも貴重な作品といえます。