善福寺公園めぐり

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等伯最晩年の物語

ついに等伯最晩年の物語でーす!

今回の展覧会には等伯の最晩年の作品がいくつか出展しています。
「竹林七賢図屏風」は1607年、等伯69歳のときの作。
「日通上人像」は1608年の作。日通上人は京都・本法寺の住職で、
等伯とは長きにわたって交友があった人。
「玉甫紹KA|!W$O1609年の作。
描かれているのは大徳寺塔頭高桐院の開祖。
ただ、これらはホントに等伯が描いたものなのかどうか、疑問の声も。
等伯は1604年66歳のとき、本法寺の天井画制作中に転落事故を起こし、
右手が不自由になったといわれています。
すると、弟子に絵を描かせて落款だけ押した可能性も考えられます。
しかし、右手が不自由になったとされる以後でも、
「これぞ傑作中の傑作」といわれる絵が現存しています。
「龍虎図屏風」。1606年、等伯68歳の作とされますが、
残念ながらこの絵はボストン美術館が所蔵。みたい人はアメリカへ!
ちなみに今回の展覧会には、龍虎ではありませんが、
どこかやさしい虎の絵が出展されています。
「竹虎図屏風」は、右隻の雄と左隻の雌の求愛を描いていて、
普通の龍虎図とは異質の名品だとか。
はてさて年老いた等伯の運命は?
慶長15年(1610年)、等伯72歳のとき、徳川家康から江戸に呼ばれ下向。
京から江戸への長旅は老齢の等伯にとって過酷だったに違いありません。
途中、病に冒され、江戸到着後2日目に等伯は亡くなりました。
長男の久蔵亡きあと、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も、
等伯に同行しましたが、等伯が没した翌年に亡くなっています。
長谷川派の日本画壇席捲の夢ははかなく消えてしまいました。
等伯終焉の地はどこだったのでしょうか?
墓は京都・本法寺にあります。
また、現在も17代目のご子孫が日本画家として活躍しています。
いよいよ明日は等伯物語最終回!