波瀾万丈ハセトー物語・その6
智積院障壁画が完成したのは1592年ごろ、等伯53歳ごろのときです。
ところが、完成を喜んだのも束の間、等伯の片腕であり、
後継者としても期待していたセガレの久蔵が26歳の若さで夭折してしまうのです。
そればかりではありません。完成の直前には、等伯の最大の理解者だった利休が、
秀吉と不和になり自刃させられていました。
幸福の絶頂から不幸のどん底へ。
そんな中で筆をとった作品が、日本美術の最高傑作といわれ、
国宝の中の国宝と呼ばれる水墨画「松林図屏風」です。
この作品は、その直前に描かれた智積院障壁画(楓図)と比べると、
これが同一人が描いたものなの?といいたくなるほど、
まるっきり異なった画風であり、
そこに息子・久蔵の死を見るのがおおかたの見方です。
つまり、後継者として期待をかけていた久蔵の死に落胆し、
出世なんかどうでもいいやと虚無の境地に至った果てに、
ふるさと能登の風景と重ね合わせて描いたのが松林図屏風である、と。
しかし、私は、智積院障壁画も松林図屏風も同じ画風の発展した形ととらえます。
たしかに、豪華絢爛な楓図と、これとまったく対局にある何の飾り気もない松林図。
松林図は日本人の美意識をそのまま表現したような、素朴な日本人の心を写し出して
います。
しかし、楓図はたしかにキンキラキンではあるものの、
とても「日本的な」感じを受けます。
(ホンモノをまだ見てないので断定はできないが。
一方、松林図は以前、ぱちぱちの拡大アササンで見たことがある)。
つまり、「日本人の心を表現した絵」として、
楓図も松林図も、私には同じに感じるのです。
一方が墨一色なのに対して、極彩色と、表現方法が違うだけ。
いずれも時代の先を突き進もうとした等伯の野心作にほかなりません。
松林図は、当時としては実に革新的な絵だったのではないでしょうか。
等伯が松林図屏風を描くまで、
水墨画といえば「中国(唐)風」が当たり前でした。
画聖・雪舟の絵にしたところで、どこか「中国風」です。
(もちろん、等伯自身、雪舟はもちろん、
中国の画家・牧谿(もっけい)に心酔し、懸命に真似して勉強しています)
当時、絵にしろ何にしろ文化の中心は中国であり、
中国渡来の文物が日本文化を引っ張っていました。
中国が見本ですから、雪舟が描く世界ですら、
どうしても中国の風景になってしまうのです。
そこに、まったく新しい絵の表現を加えたのが等伯ではなかったでしょうか。
つまり、等伯が描くところの松林図は、
それまでの中国崇拝を脱した、新しい表現にチャレンジしているのであり、
このとき、初めて日本の水墨画に「日本的感性」が誕生したといえるのです。
つまり、当時の人は「懐かしい絵だな~」と思うのでなく、
「え~、こんな絵あるの~?斬新な絵だな~」と思ったはずです。
「日本的文化」というと、太古の時代から始まっていると思いがちですが、
たしかに素材となる風景は太古の昔からあるとしても、
問題はそれを描けるだけのワザであり、日本的風景を表現する技術は、
少なくとも水墨画においては等伯の松林図屏風をもって始まる、といえるのではない
でしょうか。
(ただし、松林図は完成品ではなく習作との説もある)
以上は、あくまで私の仮説です。
その真偽のほどは、楓図とと松林図屏風とをよ~く見比べるしかありません。
そう思うと、もう今から楽しみ!