善福寺公園めぐり

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「ハセトー物語」第5弾

「ハセトー物語」第5弾。
目の上のタンコブ、狩野永徳がこの世を去った翌年、
ついに等伯にウレシイ知らせが。
秀吉が溺愛した長男鶴松がわずか3歳で死に、
弔うために建てた菩提寺(現在の智積院)の障壁画制作という、
一大事業をまかされるのです。何でも描いた枚数は100枚以上とか。
それも絢爛豪華な金碧画(金箔地に青、緑、朱などを用いた極彩色の絵のこと)です。
もともと金碧障壁画は狩野派の十八番です。
しかし、等伯の絵には狩野派にはない精神的な深みや詩心が刻み込まれ、人々を感動
させたとか。
アッパレカッポレと感嘆した秀吉は、等伯に知行200石をさずけます。
それが今回出展の「国宝・楓図壁貼付」(壁に紙を貼り付けた上に描くので壁貼付)
です。
この作品には、対となる「桜図」も描かれており、
こちらは等伯の息子、久蔵が描いたとされています。(今回は出展されてません)
久蔵の作品は父親に勝るとも劣らぬ出来ばえで、
等伯は自分の跡取りとして大いに期待をかけたそうです。
それにしても、それまで金碧画にかけては右に出る者のいなかった、
永徳の絵を上回るような金碧障壁画を、よく描けたものだと思いますが、
実は等伯はこの日が来るのを待ち望むかのように、
人知れずキンキラキンの絵のウデに磨きをかけていました。
それを証明するのが、新発見の「花鳥図屏風」(昨年発見され、真筆とわかった)。
本邦初公開の作品です。
この絵は、等伯が伸治と名乗っていた40歳前後の作と推定されていて、
個人が所蔵していました。
この絵の発見以前は、等伯のこの時期の金碧画の存在は皆無とされていました。
ところが等伯は、自分がいずれ世に出る日のことを願いながら、
せっせと金碧画の技法に磨きをかけていたのです。等伯、エライ!
そうした努力の集大成が智積院壁画というわけですが、
等伯が我が世の春を謳歌したのも束の間、
今度は等伯にトンデモナイ不幸が襲います。
いやー、波瀾万丈だねー。