空想冒険活劇「等伯物語」第4話。
京に上った等伯がめざしたもの、それは自らも一派を築き、
狩野派に追いつき・追い越すことではなかったでしょうか。
はじめはそんな気はなかったかもしれませんが、京の都は刺激的すぎました。
出張で歓楽街に繰り出すキートンみたいなもんです。
等伯の場合は食い気ではなく、野心家へと変貌していきます。
狩野派は、室町幕府の御用絵師となった狩野正信を始祖として、
親・兄弟などの血族関係を主軸に、室町時代から江戸時代末期まで、
400年にわたって日本画壇に君臨してきた最強の画家集団。
その時々の権力者と結び付いて常に画壇の中心を占め、
障壁画から扇子の絵馬で、あらゆるジャンルの絵画を一手に引き受けてきました。
そんな中、負けじと「長谷川派」を打ち立てようとしたのが等伯です。
そうはいっても、相手は名門・狩野派。一方、等伯は、
まだまだ能登から来た一介の田舎絵師にすぎません。
しかし、そこは歌舞伎と同じで、いくら梨園の御曹司であっても、
実力と華がなければダメ。
画壇にしても結局は実力がものをいいます。
もちろん政治工作も必須であり、
何より秀吉の茶頭・千利休の知遇を得たのは大きかったようですが、
苦節10余年、ついに等伯の努力が実るときが来ました。
1590年、等伯51歳のとき、くしくも秀吉が全国統一を果たしたこの年、
それまで狩野派が独占していた御所の障壁画
(要するに壁に描かれる絵のことですが、日本では襖絵も含まれます)
の一部を等伯が描くことになりました。
怒ったのは狩野永徳。そんなことされたらオレの立場がない、と反撃開始。
あちこちに働きかけて、等伯の仕事をキャンセルにしてしまいます。
涼しい顔の永徳。「くやしーっ」と歯がみする等伯。
まるでナゾーにマサエをさらわれたときの地団駄踏むバットです。
ああ、等伯の運命もこれまでか?・・・。
ところがその翌月、とんでもないことが起こります。
翌月、永徳は47歳の働き盛りで急逝してしまうのです。
ああ、なんという運命のイタズラ。
狩野派一門はトップを失いショボン。
どうなる狩野派? どうする等伯?